名無しとは時々、図書室で話をしたりしていた。
満月の夜に会いに来ることはさすがになかったが、未だ夜に散歩もしているらしい。
曰く、
「夜はね、世界が違うから。喧騒も光も無いから、静かで普段見えないものが見えてくるの。楽しいよね」
だそうだ。
目の前の名無しは櫛切りにされたフルーツを食べている。
これは屋敷妖精に運ばせたもので場所は図書室ではない、塔の天辺だ。
目の前のオレンジはあの時と同じ櫛切りだ。
甘いものが好きな僕だけど、果物も同じくらいに好きだ。
「オレンジだね」
「え?うん。お菓子のほうがよかった?」
「いいや、好きだよ、オレンジ」
綺麗な半月に切られたオレンジ。
懐かしい。
「そんなしげしげと見てても増えないけど…ぬるくなっちゃう前に食べて」
「うん」
「…もしかして、例の月の彼女?」
「月の…ふふ、そうだよ」
トンクスは僕の話していた人のことを“月の彼女”と呼ぶようになっていたようだ。
正式に名前を言わずに、あの人とかその人とか言うからだろう。
名前を教えないのは、特に意味は無かった。
彼女の名前を言ってしまえば、また彼女の存在をさらに色濃く感じることになってしまうだろうと思ったから。
その日、名無しの姿は図書室に無かった。
休日と言うこともあり、おかしくはない。
さて、どこにいるのだろう。
「お、リーマス。どこ行くんだ?」
「ちょっと散歩だよ。シリウスこそどこに行くのさ」
「おう!今からちょっとなー」
図書室から大広間に向かう廊下でシリウスとすれ違った。
ちょっとといっているが、顔を高揚させ、寒くも無いのにローブのポケットに手を突っ込んだままと言うことから、そのちょっとはちょっとではない悪戯だろう。
どうせジェームズと計画してた悪戯をどこかで披露するに違いない。
シリウスとは逆方向、天文塔のほうに向かってみた。
ランのイメージとして、空や自然の風景が好きであるというものがあったから、きっと景色のいい場所にいるだろうと思った。
そして、その予想は的中する。
予想通り、名無しは天文塔の天辺よりも少し低い位置にある小さな物置にいた。
その物置には大きな地球儀や星の周期表、月相のカレンダーなどが所狭しと置かれた、少し埃っぽい場所だ。
清め呪文もかけずに、名無しは地べたに座って窓を見上げていた。
彼女の後姿からなぜか白い円筒状のものが突き出ていて、首をかしげた。
「名無し、こんなところにいたんだ」
「何、追いかけてきたの?リーマス」
声をかけると彼女は座ったまま首だけこちらに向けた。
呆れたような声音だが、それでも邪険にはしないから、やっぱり名無しは優しいと思う。
名無しの手には天体観測用の望遠鏡が抱きしめられていた、抱き枕代わりにしているらしい。
その脇には小さな足つきトレイが置かれていて、それにはいくらかの果物がのっていた。
彼女はそこから素手で櫛切りにされた皮付きリンゴを租借する。
しゃりしゃりと軽快な音を立てて、それを食べつつ、億劫そうに名無しは口を開く。
「座れば?」
「…食べながら喋るのはよくないよ…」
「ああ、うん。で、座るの?」
名無しの口の端からぽろりと落ちたウサギ形のリンゴの耳の部分を拾いつつ、隣に座った。
僕が座るとその場所からちょっぴり埃が立つ。
清め魔法をかければいいのにと思うけれど、なぜか座ってしまうと杖を出すのも面倒になってしまう。
これは、なんて魔法だろう。
隣からにゅっとオレンジが差し出された。
名無しは無言で僕にオレンジを押し付ける。
「ほら、オレンジ。食べるでしょ?」
僕が食べることを前提とした、否定権利のない会話。
でも僕はそんなにオレンジが好きじゃない、すっぱいし。
本当なら、僕は甘いお菓子のほうが好きだし、譲歩するなら名無しが反対の手に持っているリンゴのほうが好き。
でも、差し出された手を振り払うことはできない。
ああ、折角名無しが何を見ているのか聞こうと思ったのに、聞くタイミングを失ってしまった。
かわりに好きでもないオレンジを手に入れた、嬉しくない。
「ああ…うん」
「私、オレンジってあんまり好きじゃないんだよねーすっぱくて」
「嫌いなものを人に押し付けないでよ…」
どうやら彼女もオレンジは好んでいないらしい。
よく見れば、トレイの上の果物はオレンジばかり余っていた。
後残っているのはオレンジだけだ、リンゴは先ほど名無しが食べていたもので終わってしまったらしい。
「何、リーマスもオレンジ嫌いなの?」
「…別に」
本当は好きじゃないけど、まあ残すのももったいない。
貧乏ったらしいけど、僕は名無しのように旧家の家の子でもないし、食事を残すことに罪悪感がある。
旧家の子どもの全員が残すことに罪悪感を感じないとも限らないが。
オレンジは残すところ1個となった、僕が最初に食べ始めた頃は5個もあったのに…頑張った。
さて、最後の1個を食べようと手を伸ばしたら、それを名無しに拒まれた。
そして名無しは最後のオレンジを口に入れる、嫌いだったんじゃないのか。
「うーん、やっぱりすっぱい」
「そりゃね、リンゴよりはすっぱいよ」
眉根を顰めて、彼女は不機嫌そうに言った。
もくもくとオレンジを租借して、最終的に美味しくなさそうに食べきった。
そして、一息ついて、ぽつりと溢す。
「でもさー、いつかはこういうときがくるよね」
「どういうこと?」
「嫌いなものも、受け入れなきゃいけなくなるときがくるってこと。認めなきゃいけないときがくるってこと」
そういった名無しの瞳はどこか遠くを見るような、濁った光を灯していた。
僕がその言葉を理解するのは、それからずっと先のことだった。
話している間に手元のオレンジはなくなっていた。
あの時は何だかんだ文句を浮かべつつオレンジを食べたが、意外と美味しかったのだ。
それから僕は結構オレンジが好きだ、すっぱい中にもしっかりとした甘さがあることに気づいたから。
「なんか、その人本当に見てる世界が違うのね」
「うん。そのときは彼女の言うことが全然理解できなかった。でも、今なら分かるよ。彼女は僕と同い年だったけど、僕のずっと前を歩いてたんだなって思う」
彼女は僕より遥か先を歩いていて、遥か彼方を見ていたのだ。
だから僕は彼女の言うことを殆ど理解できていなかった。