願わくは
ある日の朝。いつものようにねぼけまなこで服を着替え、朝飯を食べに行く途中のことだった。廊下の先に凛の姿を見つけて声をかけると、凛はふんわりとした笑みを浮かべた。
「おはようございます」
「早いな、凛」
「朝食の支度がありますからね。そういう高杉さんはすごく眠そうですけど…ってもう!シャツのボタンがひとつずつずれてるじゃないですか…」
凛に言われて自分のシャツに目を落とすと、なるほどぼたんとやらが一つずつずれていた。面倒だが、いったんすべてはずすしかないらしい。シャツに手をかけてはずしていくが、なかなかうまくいかない。
「なんでこんなにぼたんとやらは面倒なんだ!帯の方がずっと楽だぞ!」
「仕方ないですね」
ため息をひとつついた凛の細い指が、襟元にかかる。きゅっとシャツを合わせたあと、器用にボタンを留め直していく。その流れるような手つきに、思わず感心する。
「流石に手慣れているな」
「そうですね、むこうでは着物を着る機会のほうが少なかったですから」
自分の胸元にある凛の頭を見ていると、なんとなくくすぐったくなった。幸せだな、と理由もなく思う。彼女の頭を撫で回してやりたい衝動にかられたが、悲しいかな、その権利を持っているのはオレじゃあない。それが許されるのは、あの堅物で融通のきかない親友なのだから。
「こうしてると、何だか夫婦みたいだな」
「夫婦じゃありませんよ。何いってるんですか。っと、はい、できました」
「おっ、さすがオレの…」
「嫁じゃありませんよ」
「凛、オレのセリフを途中で遮るのはやめろよ」
あしらわれているようで虚しくなるじゃないか。
そう言うと、凛はぷうっと頬をふくらませて目を逸らした。
「だって、わたしは高杉さんの嫁じゃなくて小五郎さんの…」
小声でそこまで言ったところで、凛は我にかえったのかあわててかぶりを振る。その頬が、うっすらと朱に染まっている。
可愛い奴だ。せっかく恋仲になったのだから、小五郎も凛ももう少し欲張りになってもいいのに、お互いに遠慮ばかりしているのだからもどかしい。
「ん?小五郎の、何なんだ?そうか、凛はそんなにはやく小五郎と祝言をあげたいのか!それならそうと早く言え!」
「ち、違います!!」
凛の頬がますます赤くなる。
「朝から何を騒いでいるんだい?」
騒いでいる声が聞こえたのか、眉をしかめた小五郎がすたすたと歩いてくるのが見えた。
「おう、小五郎。いいところに来たな。さっき凛が…」
「違います!!えっと、本当は違わないけど、ついぽろっと口から出ちゃったというか」
凛があわててオレの口を塞ぎにかかる。
そのままじゃれあっているところを、小五郎に一喝される。凛と二人、廊下の端に正座をさせれて、そのまま説教が始まった。
いつになったら朝飯にありつけるのか。そんなことを考えてよそ見をしていると、もう一度小五郎の雷が落ちた。
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はじめて会ったときは、変わった女だと思った。
凛がここに来て、小五郎が彼女に惹かれているのに気付いてからは、いずれいなくなるオレの代わりに、凛が小五郎の側にいてくれればと願うようになった。
だがどうしてだろう。3人で過ごす時間が増えれば増えるほど、この世界から消えたくないと、強く思うようになってしまった。小五郎と、凛と、俺と。共に飯を食べて、くだらない話をして、笑い合う。こんな当たり前の日々がたまらなく愛おしい。
いずれ避けられぬ定めなれど、今だけはこのかりそめの幸せに浸っていたい。
願わくは、この愛おしい日々ができる限り長く続かんことを。