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小説 | ナノ


「そこの娘さん」

いつものように藩邸の前のお掃除をしていたわたしは、不意にかけられた声に頭を上げた。

「申し訳ないが、高杉さんのところまで案内してもらえるかな?」

人好きのする笑顔を浮かべた、若い男の人。
うーん。こんな人長州藩邸にいなかったよね…そんな人を高杉さんのところまで案内していいのかな?

どうしよう、とあたふたする私に、後ろから声がかけられる。

「大丈夫だよ、らんさん。この男は伊藤くんといってね、長州の人間だ。エゲレスに留学していたこともあるんだよ。久しぶりだね。伊藤くん」

「ご無沙汰しています、桂さん」

伊藤さんはそう言って桂さんに頭を下げたあと、ちらりとわたしの方に目線を向けた。
すぐに逸らされるのかと思いきや、思いのほかじっと見つめられて、何だか頬が熱くなってくる。

(あれ?わたし何かしたっけ?)

そんなわたしを見やった桂さんは、伊藤くんも相変わらずだね、と困ったように笑って。

「晋作のところへは私が案内しよう。らんさんはお茶をいれてきてくれるかい?」

頭の上にぽん、と置かれた桂さんの手に安心したわたしは、さっそくお茶をいれるために台所にむかったのだった。


ーーーーーーー


お茶をいれて高杉さんの部屋に向かうと、障子の向こうからは楽しげな談笑が聞こえてくる。
失礼します、と言ってついと障子を開けると、高杉さんと桂さんと向き合ってしゃべっていた伊藤さんが、急に立ち上がってわたしのほうにやってくる。

いきなりの行動に驚いたわたしが、思わず腰を浮かせると、

「先ほどはご挨拶ができなくて申し訳ない、綺麗な娘さん。あなたのお名前をうかがってもよろしいですか?」

そう言って、伊藤さんは流れるような手つきでわたしの手を取り、手の甲にそっとキスを落とした。

(うわあ、外国の映画とかでは見たことあったけど…)

騎士がお姫様の手にキスをしているシーンとかがよくあるよね。
あれ、伊藤さんって日本人のはずじゃ…。

イギリスに留学していたって言っていたから、その癖がまだ抜けないのかな。

そんなことを考えていると。
横で呆然と事態を見ていた高杉さんが、突然大きな声で叫びだした。

「俊輔ーーーっ!!凛は俺の女だぞ!!」

「えっ、凛さんって言うんですか。かわいらしい名前ですね……って、えっ高杉さんの恋人だったんですか!?」

すみません、すみません、とひたすら高杉さんに謝る伊藤さんと、まったくお前は女に手が早い、油断も隙もならん!と怒る高杉さん。

仲がいいんだなーと二人のやりとりを微笑ましく見ていたら、ぽんと肩に手を置かれて、振り返る。

「高杉さんと伊藤さんって、本当に仲がいいんですねー」
「そうだね。伊藤くんは晋作に心酔しているから」

「それにしても凛さん。さっき手に口づけをされても全く動じていなかったが、未来ではあたりまえの行動なのかい」

未来では、というところは少し声を落として、そう尋ねられる。

「そうですね、挨拶のようなものです。一般的ではないですけど。外国では、頬に口づけするのが挨拶というところもありますから…」

わたしは慣れていないんでびっくりしましたけど、と続けようとしたところを、桂さんの予期せぬ行動で妨げられた。



わたしの正面に向き合った桂さんが、すっとわたしの手を取る。
そして、伊藤さんがやったのと同じように、ちゅっと手の甲に口付けられた。
手の甲に、桂さんのやわらかな唇の感触がはっきりと感じられて。
桂さんはわたしの手を持ち上げたまま、そっとその紫の瞳でじっとわたしを見つめてきた。

(う、わ。)

さっきの伊藤さんなんて目じゃないよ。
色っぽいというか妖艶というか。
桂さんのその双眸にみつめられて、わたしはどきどきと心拍数が上がるのを感じた。
何これ。
自然と顔が熱くなる。目をそらせばいいと思うのに、桂さんのその目はわたしのことを逃さない。

もう、これ以上は無理…

そう思った瞬間、わたしは自分でも気づかないうちに桂さんから自分の手を引き抜いていた。



ーーーーーー



彼女の手にそっと口づけを落として、そのまま目線を彼女に向けると、らんさんの顔が赤く染まる。

ふふ、可愛いな。

そんなことを考えていると、握っていた手を急に振りほどかれる。そのまま真っ赤になって下を向いた凛さんが、ぶるぶると身体を震わせはじめる。

まずい、怒らせてしまっただろうか。

彼女をなだめようと手を伸ばしたときだった。



「か、桂さん、それは反則です!色っぽすぎますーーー!!」

真っ赤に染まった顔のままそう言い放ったらんさんは、着物の裾がめくれ上がるのにも構うことなく、すごい勢いで部屋を出て行った。



色っぽい?反則?何を言っているのだろう。
凛さんが挨拶だ、というのでやってみたのだが。
外国の挨拶だと言っていたから、あまり慣れていないのだろうか。

(でも、さきほど伊藤くんにされていた時には動じていなかったのにな…)

やはり私には似合わなかったか、と苦笑しながらふと横に目を向けると、晋作と伊藤くんの二人が、ひどく衝撃を受けたような顔で固まっていた。

「もう喧嘩は終わったのかい?」

だったら片付けてもらいたい仕事があるんだけどな。
そういってにっこりと二人に笑いかける。

「おい、小五郎!お前一人でいいところを持っていきやがって!」
「あの、何か、すみませんでした…」


「は…?」

なぜ晋作は私に怒っているのか。
そしてなぜ伊藤君は私に謝るのか。

まったく状況が理解できない。
私が何かしたか?


やはり最大の敵は、小五郎か。まったく鈍感なくせに侮れん。そういってぶつぶつと意味不明の言葉を呟く晋作の前に、どんどんと書類の山を積み重ねながら、凛さんの先ほどの表情を思い返す。


彼女と共にすごすようになってから、彼女の様々な表情を見てきたけれど。
あんなに赤くなった顔を見るのは初めてだ。
もっといろんな彼女の表情をみてみたい。
彼女のことを、もっと知りたい。


(どうしてそんなことを思うのだろうか…)


とりあえず、凛さんの機嫌をなおすために、あとでお菓子を持っていってあげることにしよう。

そんなことを考えながら、私は積み重ねられた書類の山に気づいて泣きそうになっている二人を、きりきりと働かせることにした。




一度はやってみたかった伊藤さんネタ。


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