魔法使いと
居候な彼女
中編




姉さん。静雄に向けて、男は確かにそう口にした。静雄も立ち止まり、男を見つめる。黒髪に整った顔立ち、こんな綺麗な男を一度見て忘れるだろうか。

「…、…すみません。人違いじゃ…」
「ううん、…間違えるはずが、……姉さん、…姉さんじゃ、ないか」
「私には、弟は…」

そこで静雄ははっとする。静雄には半年前の記憶がない。その理由はわからないが、静雄の一番昔の記憶は臨也の城のベッドに寝ていたことだ。目が覚めたら臨也がいて、今日からここが君の家だと微笑まれた。今、静雄に弟はいない。だが、半年前は。それ以前は、もしかしたら。

「行方不明になった姉さんを、俺も母さんや父さんも皆捜していて、…ああ、よかった、姉さん…!」
「、…あ…」
「半年前のあの日から、信じ続けていて…本当によかった」

ふわりと男は微笑み、静雄の手をぎゅっと力強く握った。半年前。静雄の記憶が途切れている期間と丁度合っている。この男は、本当に、私の弟だったのだろうか。手が小刻みに震えた。

「ごめ、…なさい、私…何も、憶えてなくて…」
「…、まさか…。…記憶がなくなってるの、?」
「…半年前から前の、記憶がないんだ…。…憶えてたのは、自分の名前だけで…」

唇が震えた。半年前のことを、臨也は何も静雄に話してくれなかった。ただ、大丈夫だよ、俺が守るよと微笑むばかりで。だから静雄も気にしなかった。今があればいいと思っていた。男は静雄の手を握りなおし、そっと口を開いた。

「…俺は平和島幽。雑誌のモデルの仕事をしてる」
「…かす、か…」
「……姉の名前はシズオ。…平和島静雄だ」

静雄の中で、何かが渦を巻くような、引き戻される波のような感覚が湧き上がった。そして確信する。シズオ。自分の名前と同じ。静雄を見る、この男、幽の眼差し。自分は本当に、幽の姉であるのだと。平和島静雄という、一人の女性であったことを。







半年前のあの日は、酷い雨が降っていた。前日は青空が広がっていたのに、日付が変わればとんでもない大雨が降りだした。

『ツイてない……』

この頃の臨也は、偉大な魔法使いである師匠の他の弟子たちに追われていた。少し悪戯を目論んだら、魔法の力が強すぎて師匠の城の一部分を爆発で吹っ飛ばしてしまったのだ。すぐに逃げたが追っ手が厳しく、しかも容赦なく魔法で襲撃してくるものだから、たまったものじゃなかった。

『…束になってかかってくると、さすがにね…』

じん、と鈍い痛みが肩に走る。なんとかまいたものの、肩やら腕やらに傷を負ってしまっていた。おまけにこの雨。早く城に戻らないと、とよろよろと歩いている時だった。ピカッと何かの光が見えた。だが雨で視界がぼやけ、臨也は何が迫ってきているのかわからなかった。

『…、?』
『危ないッ!!』

そして聞こえた、誰かの声。高めの女性のものだったように思える。臨也はその瞬間にどんっと突き飛ばされた。高鳴るクラクションの音、強まる雨、ブレーキのような軋む音。臨也は突き飛ばされた場所から、何がなんだかわからないままに顔を上げた。そこには一台のトラックが止まっていた。

『、おい!!大丈夫かい!!』

トラックからは運転手が慌しく下り、前方に駆け寄った。臨也はゆっくりと身体を起こす。車のライトに照らされて道路に横たわっていたのは、それはそれは美しい女性だった。雨に濡れ、その長い金髪が肌にへばりついている。

『……、…!』

そして理解する。臨也が見た光は、このトラックのものだったのだと。本来ならば、ここに横たわっていたのは自分だったのだと。危ないと叫んだ声、臨也を突き飛ばした手、全てこの女性のものだと。

『っ、しっかりしろ!あっ…き、君っ、救急車、をっ…』

立ちすくむ臨也を見つけた運転手が荒々しい口調で言うが、途中で言葉を切った。臨也が運転手の前で小さくある呪文を呟いたからである。すっと運転手に手を翳せば、運転手は何事もなかったかのようにトラックの運転席へ戻り、車をUターンさせて去っていった。今、この時起こったことの記憶を消したのである。道路には臨也と女性だけが残った。

『……まだ、息がある、』

彼女の傍に膝をつき、無事を確かめる。臨也は彼女を優しく抱き上げると、そのまま自分の城へ連れ帰った。肩の痛みはどこかに消えていた。城のベッドに寝かせ、臨也は彼女が目覚めるまで看病をし続けた。彼女は数日後、無事その瞼を上げる。

『…、ここ、は……』
『…気がついた?』
『、』
『俺は臨也。…今日からここが、君の家だよ』

静雄は車に轢かれた際に頭を打ったのか、記憶を失っていた。臨也は病気を治すなどの治療の魔法はあまり得意ではなかったのだが、記憶を戻すとかそういったものは出来るはずだった。だが、あえてその魔法を使わなかったのだ。

『今度は、俺が君を守る』
『…まもる…?』
『俺が君の、…傍にいる』

今まで何人もの女性と出逢ったが、これほどまでに美しく、愛らしい女性は初めてだった。「美女の心臓を食べる」と言われていた(実際に食べたことはないが)ほど女とは遊んできた臨也だったが、彼女…静雄に出会ってからはきっぱりと女性と付き合うこともやめたのだ。

『臨也』

彼女は優しく名を呼んでくれた。今まで寂しかったわけではない、家族や友達がいなくても、一人でやってこれた臨也だった。だが、彼女と暮らして、心の奥の何かが変わった。助けてもらった恩返しという気持ちだけではなかった。

『ただいま、シズちゃん!』
『おかえり、臨也』

城に帰ると静雄が待っていてくれている。臨也は幸せだった。こんな幸せは、どんな悪戯を成功した後にも訪れなかった。静雄がいる、それだけで。だが、時々思う。もし、鍵をかけている半年前の記憶を、臨也が魔法で呼び戻したら。臨也ならできる。静雄の記憶を取り戻せる。あの日だって、昨日だって、今日だってできる。








(……自信がなかった。シズちゃんが城を出て行ってしまうのが恐い。俺はシズちゃんを、どうしても手放したくなかっただけなんだ、)
「日々也先生?どうかしましたか?」

急に話しかけられ、日々也…臨也ははっとして意識を戻す。目の前には、不思議そうな顔をした女子学生がペンを持ったまま臨也を見ていた。臨也はにこりと笑ってみせる。

「なんでもない。すまなかったね、…ええと、どこからだったか…」
「日々也先生でも、そういうこと、あるのね」
「僕だって完璧な人間ではないのだよ、…それじゃあ、今度はここの英訳を…」

『日々也』は主に貴族のお嬢様やお坊ちゃまの家庭教師に携わっていた。前はこの名前を使って色々悪知恵を働かせたものだが。臨也はふうと小さく息を吐き、テーブルに肘をついた。

「…ねえ、日々也先生」
「なにかな」
「先生は、魔法使いってどう思う?」
「…面白いことを、聞くね」

心の中でぎくりとする。『日々也』は魔法使いではない。この女子学生のお嬢様にも、勿論それは秘密だ。『日々也』は臨也ではなく、『日々也』として生きていることにしなくてはならない。そうでなければ、複数持つ名前の意味がない。たくさんの名前を持つことで、もしもの時に行方をくらますことが上手くできるのだから。

「僕も実際に会ったことはないからね」
「信じてないの?」
「そういう訳ではない。…魔法使いに、憧れているのかい」
「、…ええ、まあ、」

彼女はそっと頬を赤く染めた。ぎゅっとペンを握る力が強くなったように思える。優しい風が吹いて、カーテンを揺らす。さらさらと流れるそれで、彼女のふわりとした髪がなびいた。

「…学校にね、…好きな人がいるの。魔法が使えたら、いいなって…」
「…ああ、成る程ね…。…」
「そうしたら、彼、…私のこと、みてくれるかもしれないでしょう」

ほう、と恋する乙女のため息は甘く柔らかい。臨也はテキストをじっと見つめながら、彼女のメイドにより用意されていたブラックのコーヒーを一口飲んだ。

「…そうだね。…けれど、解けない魔法はないんだよ」
「…、」
「魔法に永遠はない。…作り出した世界は、いつか終わりを迎える。ある偉大な魔法使いの、言葉だけどね……」

臨也が魔法使いに弟子入りした時、師匠が言っていた言葉。ふと臨也の頭に浮かんだ。今の今まで忘れていたようなものだったのに、何故こんなに気にかかる言葉なのだろう。

「…君は綺麗な美しいお嬢様なのだからね、魔法なんかに頼らず、素直に気持ちを告げればいいんだよ。きっと上手くいくだろう」
「、……先生、魔法使いみたいだわ、」
「…褒め言葉かい」
「先生の言葉で、とても嬉しい気持ちになったの。…魔法にかかった子って、こういう風な気持ちなのかしら」

彼女は再びペンを持ち、テキストに集中し始めた。彼女の走らせるペンの音と、時計の秒針がリズムを奏でる。窓の外には、…あの日とは正反対の、よく晴れた空が広がっていた。


201105




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