美しい彼女の想望
中編





「…もう帰るの…?」

ぼそりと掠れた声が聞こえたのに気づき、臨也は後ろを振り向いた。白いシーツから顔を出している女は、気だるそうに前髪をかきあげて臨也を見つめている。

「仕事があるからね」
「ふうん…この前もそう言ってたわ」
「俺が忙しいの、知ってるだろ」

彼女が起き上がるとシーツがぱさりと落ち、細くしなやかな身体が差し込まれる朝陽に照らされた。臨也は黒のワイシャツのボタンをはめていく。彼女がこちらに寄ったのか、すり、とシーツ同士が擦れ合う音がしたが、構わず立ち上がった。

「…まだ朝の6時よ」
「タクシー呼んじゃったから」
「あなたもうちょっとデリカシーってのを覚えたほうがいいわ」

彼女はむすとした表情をし、長い茶髪を手で梳きながら煙草を探す。ベッドサイドにあったそれを取り、一本口にくわえて火をつけた。臨也は彼女が無造作にベッドに放った煙草の箱を拾い上げる。

「…アメスピ…」
「え?」
「いや、…久しぶりに見たなって」
「…そんなに珍しいものかしら?」
「そういうわけじゃなくてね、」

くす、と臨也は笑い、彼女の隣に箱を置いた。かけてあったコートを着、財布と携帯があることを確かめる。

「知り合いが前に、吸っててね…」
「やめたの?」
「ああ、そうみたいだね。…君も、煙草はほどほどにしたほうがいい。値上げしたしねぇ…」
「、そうね…ああごめん、煙草嫌いだったっけ」

それでも、ふうっと彼女の吐いた煙が部屋に広がった。臨也は部屋を出ていこうとドアに向かって歩き出す。彼女は臨也の方を見ずに言った。

「ねえ、また誘ってね」
「そうだね、気がむいたら」
「いつもそうやって言うのね。…だからあなた彼女いないんじゃない?」
「君が彼女でもいいよ?」

彼女は煙草から口を離し、臨也を見た。臨也の顔に笑みが浮かんでいるのに気づき、はあとため息をつく。

「結構よ。あなただけの彼女なんてごめんだわ」
「よく言われるよ」
「でも嫌いじゃないのよ」
「うん、…それじゃあまた」

臨也は振り返らず、部屋を出てホテルを後にした。ホテルを出て大通りに向かえば、駅へ向かう人で溢れていた。臨也は欠伸をひとつすると、同じように駅の方向へ歩き出す。タクシーを呼んでなんていなかった。仕事も今日は午後から動けばいいだけだった。

(…不自由はしてないけど、そこに満ち足りた気持ちはないよなぁ)

先ほどの茶髪の女の名前はなんだったか。それさえ思い出せない。いわゆる体だけの関係で、彼女もそれをわかって割り切っている。そこには空っぽな、名前を呼べるものすらないのだ。

『煙草はやめた』

不意に頭にひとつの言葉が浮かんだ。半年くらい前だろうか。金髪の見知った女が言った言葉だった。そういえばここは池袋だったなと思う。彼女が住む街だ。そして彼女と出逢った街だ。

『やめたんだ』

煙草をやめるのは難しいと聞く。ふうんと返したはずだったが、あれから彼女が煙草を吸う姿を見ていない気がする。上手くやめれたようだ。理由は聞かなかった。昨日は私服だったが、今日は仕事だろうか。ぼうっと歩き続けていると、前を歩いていた大学生くらいの男たちが「あっ、」と声をあげた。

「あそこにいるの、静雄さんじゃね?」
「えっ、どこどこ!」

『静雄』という名前に聞き覚えがある。臨也はゆっくり顔を上げた。確かに、少し先にあるコンビニの前に背の高い金色が見えた。バーテン服にサングラスをしているその女性は、間違いないだろう。

「ほんとだ!…おい、そういえば昨日、おまえ静雄さんに告白したんだって?」
「えっ、なんで知ってんだよ、」

前の大学生が慌てた様子で言った。臨也はぴくり…と大学生の方へ視線を向ける。明るい茶髪の男と、黒髪のこちらは短髪の男。黒髪の男は焦ったように言う。

「昨日、池袋にいた奴が見たって」
「マジかよ、」
「結果は?」
「…、聞くなよ…。でも、あんな間近で見れたし、腕に触られたし、」

ラッキーだったかも、と続けた。茶髪の男は笑って「なんだそれ」と返す。臨也はゆっくりとだんだん歩く速さを遅くした。二人の大学生はどんどん前へ進んでいき、地下鉄の駅へ階段を降りていった。臨也はコツ、コツと足音を鳴らす。それは人ごみに紛れて消えていったのだが、臨也には確かに聞こえていたのだ。

「……やあ」

ふわりと彼女の金髪が浮き、スローで臨也に見えていた。普段はサングラスをしているが、今日はベストの胸元に差し込んだままだ。臨也は右手をあげ、コンビニの前にいた女に話しかけた。その女…平和島静雄は臨也の方を向く。

「…臨也」
「これから出勤?…それとも帰り?」
「……さあ、どうだか…」

静雄はふいと臨也から視線をすぐに逸らす。静雄が興味がなさそうに適当な言葉を返す時は、大体機嫌が悪かった。高校の時から変わらない。朝だからかな、と臨也は自分の中でとりあえず理由をつけて、ふっと笑ってみせる。

「煙草…吸わないんだ?」
「…もうやめたの、知ってるだろ」
「そうだったね」
「……シャネルの…5番」

静雄はぼそりと呟き、眉を寄せた。臨也は笑みを深くする。すん、と自分のシャツの右袖を吸ってみる。確かに少し香るかもしれない。ホテルで一緒だった女のものだったのだろうか。

「よくわかったね」
「…有名だろ」
「俺は嫌いじゃないな」
「……」

もう一度、静雄は臨也を見た。きらきらと金髪が朝陽に反射している。綺麗だった。金髪の女はたくさん見てきたが、こんなに美しく染まっているのは静雄だけだと素直に思う。

「…って言ったら、君はシャネルを纏うのかな?」
「……さあ」
「そんなことしなくたっていいんだよ」

臨也は静雄に歩み寄り、その金髪をすっと手に取った。長く伸びたそれは、臨也の細い指をさらりとすり抜ける。…それはまるで、臨也と静雄のようだった。

「何度も言ってるじゃん」
「……」
「前からさ」
「……」
「セックスならいつでも相手に、」

パシンッと静雄は臨也の手を叩く。臨也の手にズキズキと痛みが走った。手加減してくれたのか骨に異常はないようだったが、静雄の顔は歪んでいた。それは怒りとも悲しみともとれない表情だった。

「…今だって、俺のことが好きなんだろ?」
「……」
「髪伸ばしたのも、煙草やめたのも、」
「…馬鹿みたいだと、思ってる」

絞り出すように出された静雄の声は、苦しそうに震えていた。静雄はぎゅっと拳を握り締める。馬鹿みたいだと何度も、本当に思う。勿論、こんな男を好きになった自分にも。そして、身体だけの関係を許せない、受け入れられない自分も。

「それでも、…おまえとは寝れない」
「…やっぱりよくわからないな。だってシズちゃんは、俺のこと…」
「…もう言うな」

静雄は臨也の口元へ手を翳した。一瞬だけ、寂しそうに笑って。臨也はそれ以上、何も言うことができなかった。

「…私が欲しいのは、そんなんじゃない」
「……」
「そんな言葉でも、そんな…嘘みたいな優しさでもない」

腕時計をちらりと見て、静雄は「時間だ」と臨也の横を通り過ぎて行ってしまう。臨也は振り返り、その腕を掴もうとする。だが静雄はするりとそれをかわした。

「じゃあシズちゃんはさ、…何を望んでるの。何が欲しいの?」
「…言わなくたって…おまえ、わかってるはずだろ」
「…眩しいよ、」
「…そう見えるなら、おまえは何も変わっちゃいない」

ヒールを鳴らして、静雄は人ごみに紛れてどこかに去っていってしまった。あれだけ輝いて目立っていた金髪はすぐに見えなくなった。臨也はコンビニで缶コーヒーを一本買い、熱いそれを一気に飲み干した。






『私は、臨也が…、…おまえのことが、』

随分前の話だ。星のよく出ていた夜、人通りの少ない公園でのことだったように思える。高校の時とは比べ物にならないほどに美しくなった静雄は、ぼそりぼそりと臨也に言葉を発した。

『だから、その…』
『うん、シズちゃん。金髪、やっぱりロングのがいいね』
『…、ッ、!?』

ちゅ、と触れるだけのキスだった。臨也にしてみれば挨拶程度のものだったのだが、静雄は目を見開き真っ赤になっていた。臨也はぺろりと唇を舐めた。ルージュ独特の味がする。

『な、っ…な、いきなり、』
『俺としたかったんでしょ?』
『ばっ…』
『これくらいなら、何度だってしてあげるよ。特に意味なんてないんだからね』

にっこり微笑んで言えば、静雄の顔の熱が一気に冷めていった。かたかたと小刻みに震える手で、静雄は自分の唇に触れる。

『意味なんて、…ない…?』
『そうだよ』
『どういう…』
『君と俺は、身体だけの関係なんだから』

その後、無理やり組み敷こうとしたところに強烈な蹴りを入れられ、臨也は地面に倒れこんだ。見上げた静雄の顔はよく見えなかったのだが、頬に光る筋が出来ていたのはわかった。きらりとした宝石のようなそれは、…

『、…身体だけになんてっ…なったつもりは、ねえっ…』

ごしごしと服の袖で唇を拭き、静雄は臨也を見下ろしていた。臨也は地面に寝転がったまま、静雄を見上げていた。

『ふうん…つまんないな』
『っ…』
『それじゃあ…何?シズちゃんは……まさか俺のことを、純粋に、ただ愛してただなんて、』

そこからの記憶は曖昧だ。確か一発殴られたか何かで意識が朦朧として、気づいたら静雄はいなかった。静雄はいつも眩しい存在だった。好奇心で、あの女を一度抱いてみたいと思っただけだった。

(まさか君が)

ただ、そう思っただけだったのに。

(俺に本気で愛を紡ぐなんて、思ってもいなかった)




201103
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