琴子は、一瞬僕の顔を睨みつけると、安堵したように小さく息を吐いた。

「よかった。雪村くんで。他の人だったらどうしようかと思った」

僕は状況が飲み込めずに、ただただ呆然と座り込んでいた。

「仲谷くんに、雪村くんをここまで連れて来てもらえるようにお願いしたんだけど、なんていうか…」
仲谷くんとの打ち合わせがちょっと悪くて、と琴子は続けた。行き当たりばったりな生活をしている仲谷には打ち合わせという概念は皆無なのだから、戸惑うのも仕方無い。

それにしても、と僕は思う。
仲谷がこんな気の利いたことができる奴だったなんて初めて知った。今日は雪でも降ってきそうだ。

「ええと、あの、岬…」
ふと、腕を握られたままであることに気づいて僕は真っ赤になる。琴子が驚いたようにぱっと手を離す。微かに染まった頬がたまらなく可愛い。

「ごめんなさい」と琴子が弱々しく僕に言う。
「いや、全然気にしなくていいよ。むしろ」
むしろ岬の為なら何だってやる、という言葉を僕は寸でのところで飲み込んだ。ほとんど初対面の彼女に、どうしてこんなことが言いたくなるのだろう。

僕が急に口をつぐんだせいで、琴子はきょとんとしていた。
「ええと、むしろ嬉しかったっていうか」
「そ、そう…?」

僕を覗きこむように微かにかしげた首のあたりを、まっすぐな髪がさらりと流れる。なんだろう、この感覚。綺麗だとか優しげだってだけじゃなくって、もっとこう。

心が休まる感じ。

彼女の前だったら、気取らなくていいし、ありのままの自分でいていいと思える。

琴子は不安そうに瞬きをしたあと、僕にこう切り出した。
「雪村くん、頼みごとがあるの」
彼女の声は微かに震えていて、怖さを必死に隠しているような明るさを感じさせた。

僕は一度目をつぶって小さく息を吐きだした。目をしっかりと開けて、彼女の瞳を見つめる。
「僕にできることなら、必ずやる。だから遠慮せずに頼んで欲しい」

彼女はこっくりと頷くと、僕にその頼みごとを耳打ちした。


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