───83番ホームの電車はあと十分程で発車致します。ご乗車になられる方はどうぞお急ぎ下さい。───

慌ただしい人の流れに沿って、二人はぎゅうぎゅうのホームを進んでいた。周囲を見回すまでも無く、人々は皆大きな荷物を抱えて、これからの旅路に浮かれていた。そんな中、荷物も持たず憂いを帯びた表情でいる二人は、他者の目から見たら異端に見えた事だろう。しかし、当の本人達はそんな事ちっとも気にしていなかった。

繋いだ手を引き僅か前を歩く松風は、もう片方の手に握った金色の切符と、オリーブ色の電車に印字された番号とを照らし見ていた。ホームのずっと向こうまで続く電車を見る限り、自分達の指定させた席はまだまだ遠そうだ。
車体を見るのに忙しい松風が時折人とぶつかりそうになれば、剣城が然り気無く体を押して避けた。
視界の端に、車体と同じオリーブ色の制服を着た、同じ顔の車掌達を捉えた。彼らはホームの際で全く愉快そうに談笑していた。剣城はお気楽な奴らだと思った

途中、荷物が山ほど乗ったカートを押す、長身の女と擦れ違った。その女はきつい香水の香を纏っていたけど、横顔を見た限りでは中々の美人だった。もしかしたらテレビにも出ていたかもしれない。真っ赤なハイヒールが印象的だった。



しばらく歩くと、ようやく最前車両が見えてきた。外の光がホームに射し込み、この辺りは大分明るい。改札付近は薄暗かった為、眩しくさえ感じる。

「あった」

松風の声に足を止めると、剣城も同じく車体に目を向けた。どうやら自分達の乗る車両は四両目らしい。

「乗ろっか」
「…………ああ」

再び松風が手を引いて、二人は歩き出した。開いた乗車口から中を覗けば、きらきら光るアンティークの照明と、ワイン色の絨毯が引かれた、高級感溢れる内装になっていた。松風はホームと車体の間の隙間を跨いで電車に乗り込んだ。靴の上からでも絨毯がふかふかな事が分かる。そのまま歩みを進めようとしたが、唐突に、剣城に繋いだ手を離されてしまう。松風はえっ、と驚いてその場で振り返る。剣城はホームに立ったままでいた。

「どうしたの?」

口を真一文字に噤んだ剣城を、松風は不安げに見つめた。よく見れば、剣城の両手は彼の体の横で固く握られていた。

「早く乗らないと」

既にほとんどの客が電車に乗り込み、あとホームにいるのは見送りの者くらいだ。剣城の伏せ目がちな睫毛を見て、松風は嫌な予感に胸が早鐘を打つ。剣城はようやく口を僅かに開いた。

「悪い」
「…な、何が?」
「俺はまだ迷ってる」

剣城は真っ直ぐに松風を見た。その瞳には躊躇と未知への畏怖が見て取れた。松風は急いで彼に向ける言葉を探した。

「俺だってこれが正しいのかは分かんないけど、剣城がいてくれるなら大丈夫な気がするんだ」
「松風…」

ついに発車を知らせるベルが鳴る。松風は焦った。剣城は未だ迷っている様子で動かない。
松風だって、自分が一人では何も出来ない無力な存在だと知っていた。だからこそ、剣城にも一緒に来て欲しかった。松風は祈りを込めて剣城に手を差し伸べた。お願い、この手を取って。
電車はゆっくりと動き出す。剣城も同じ方向に歩みを進めるも、乗り込んではくれない。松風はどうしようもなく泣きたい気分だった。

「剣城!!」

その悲痛な叫びに、剣城の表情が歪んだ。そして彼が弱々しく手を伸ばすが早いか、松風はその手をがっしりと掴み、こちら側へ引き寄せた。剣城の体は容易く電車に乗った。松風は直ぐにその体を抱き締め、安堵の溜め息を吐いた。電車はどんどん加速している。

「これで俺達、運命共有しちゃったね…」

松風の掠れた声に、剣城はごくりと唾を飲み込むと、返事の代わりに彼の背中に手を回した。
明るい未来が待っているとは、到底思えなかった。剣城は最後まで、松風をこの電車に乗せるか否かを迷っていた。輝かしい松風の未来を黒く塗り潰す事など、本当はしたくは無かった。けれど、

「お前は何もしなくて良い……」

がたんごとんがたんごとんがたんごとん。あまりに小さな囁きは、松風の耳にすら届かず掻き消された。電車はとうに駅を出て、今や灰色の野山を走っていた。もう後戻りなんて出来るはずが無い。二人は終着駅だって知らなかった。





∴たとえば子どものままでもえかすにでもなっていたら、幸せだったでしょうね、肺を満たす不幸を知らずに死ねたじゃない