松風は手に掬った泡に、ふうと息をかけた。小さな泡達はふわふわと空を漂い、直ぐに弾け消えた。視線を前に移せば、先程見た時と全く変わらず、剣城は携帯を弄っていた。松風の小さな溜め息が浴室に反響するのは、至極当然の事であった。

松風と剣城は共に一つの浴槽に浸かっていた。白磁の陶器で出来た滑らかな浴槽に、それを支える四本の金色の猫足。所謂猫足バスタブという物であった。その浴槽は二人がそれぞれ足を伸ばして浸かっても、まだ多少余裕のある大きなものだった。浴室に置かれた古めかしいラジオから流れるジャズが何とも心地好い。しかし松風の心はもやもやし続けていた。目の前にいる原因をジト目で見てみるも、彼がこっちを見ていないのだから効果はゼロだ。松風は胸の辺りまである泡を、自分の方に掻き集めた。

「つーるーぎー」
「…何だよ」

不機嫌そうに答えた剣城は、尚も携帯をかこかこやっている。さっきからこのやり取りの繰り返しである。この状態が嫌なら嫌でさっさと出ればいいのに、と松風は思うが、剣城は何の行動も起こさない。

「ねーえ、誰とメールしてるの?」

松風が少し体を捩ると、ちゃぷんと波が立った。剣城が眉を寄せる。

「……速水先輩」
「嘘だあ!!」

それだけは無いだろう、いくら何でも。下手な嘘だ。松風は少し呆れた。

「ねえもうずっとそれやってるじゃん。折角二人で入ってるんだから、話そうよ」
「………。」

松風は内心悪態をついた。お互いの裸なんてもう何度も見てる訳だから、恥ずかしいとかでは無いだろう。だったら一体何故?
その時、松風は良い事を思い付いた。

「…あれ、アヒル知らない?」

アヒルと言うのは最初この浴室の飾り棚に置いてあった、お風呂にぷかぷか浮かべる玩具である。実際それは今松風の背中辺りにあるのだが、白々しくも問うてみた。

「知らねーよ」
「おかしーな、さっきまで浮かべてたのに…」

言いながら、松風は伸ばしていた足を動かし、湯船の中を探しているフリをした。それは直ぐに剣城の足に触れ、剣城はびくと反応した。松風は足の裏でさりげなく剣城のふくらはぎから太ももまでを撫でる。

「…おまえ」

剣城が何かを抑えた様な低い声で言う

「ん、なあに?足当たってごめんね。アヒル全然無いなあ〜…」

松風は笑顔で誤魔化し、もはや不自然過ぎるくらいに足を伸ばして、剣城の下腹部の更に下を撫でてやろうとした時だった。

「それ以上伸ばしたらぶっ殺すぞ」

それは芯から底冷えする様な声だった。今や剣城は携帯から視線を外し、真っ直ぐに松風を睨んでいる。流石にまずいと感じた松風はそろそろと足を縮め、何となく体育座りをした。その拍子に背中とバスタブの間に挟まっていたアヒルがぷかっと水面に浮上し、何とも滑稽である

「う…だ、だって剣城がちっとも俺の事見てくれない、から…!」

浴槽の中で小さくなりながらも、松風は負けじと反抗する。すると剣城は暫し松風を見つめた後、おもむろに腕を浴槽の外に伸ばすと、飾り棚に携帯を置いた。そして長い足を松風の眼前で悠々と組み替える。泡の隙間から一瞬見えた艶かしい白に、松風はどきどきしてしまう。

「これで良いんだろ」
「うっ、うん!」

顎を上げて見下す剣城に、松風は何度も頷いた。

「えへへ、泡風呂楽しいね〜」

途端にニコニコ笑いながら泡を弄ぶ松風は、我ながら現金だと思った。

「フン。お前、こんなのが好きなのか?」
「うん、家じゃ出来ないからね。一度やってみたかったんだ」
「シャボン玉も出来るぞ」

そう言うと剣城は、泡に浸した指の輪っかを天井に向け、そこにそっと息を吹き込んだ。するとたちまち剣城の指の間からぷっくりとシャボン玉が出来、それは彼が息を吹き込む間どんどん大きくなっていった。

「すっ、すごーい!」

松風は前のめりになってその様子を見つめる。今にも弾けそうなギリギリの所で剣城が輪っかを締めると、シャボン玉は剣城の指を離れ空中に漂った。剣城は素直に喜ぶ松風に気を良くし、フフンと笑った。ついでにシャボン玉に短く息を吹けば、それは松風の方にふよふよ飛んで行った。

「凄いよ剣城!おっきーい!」

シャボン玉は松風の目の前まで飛び、そこでパチンと弾けた。そのせいで石鹸液が目に入ってしまい、松風は「うわっ!」と言って目を擦った。

「バカ、擦るな。見せてみろ」

剣城は立て膝の状態で松風に近付くと、擦る手を退けさせた。すっかり赤くなってしまった目を見て、剣城は直ぐに浴槽に設置されている蛇口を捻った。流れる水を片手で掬い、松風の目にかけてやる

「うう、ごめん、大丈夫だから」
「念のため風呂出てもう一回洗えよ」
「うん…」

ようやくまともに目を開いた松風は、現在の状況に仰天する。目の前には剣城の端正な胸板が。おまけに下半身がかなり近くて、ま、まずい…

「剣城、ち、ちょっと近いかな〜……」

嬉しいけど、流石にこの距離は恥ずかしい。やんわりと指摘してみる

「あ、えっ、…そうだな、」

剣城はハッとした顔をして、勢いよくその姿勢のまま後ろに下がった。心無しか頬が少し赤い
そしてそれと同時にズッ!という奇妙な音がした。次の瞬間激しい水の音と共に、泡と湯が下がっていく。どうやら風呂の線を引っ掻けて抜いてしまったらしい

「…今、戻す」

"あの"剣城が慌てているなんてちょっと珍しい。
剣城は底に手を伸ばし、線を探し始めた。しかし松風がその腕を掴んで制止する

「もう出るから別に良いじゃん」

当然の事を言ったつもりなのだが、何故か剣城は驚きに目を見開き、次いで目をうろうろさ迷わせた。
松風が若干困惑していると、剣城は彼の手を振り払い、顔をフイと反らして呟いた。

「お前先出ろ」
「えっ。……別に良いけど、何で?」

剣城は溜め息を一つ落とした。松風は、自分が何か彼の気に障る事でもしてしまったのかと狼狽える。

「…さっきはしゃいでシーツとかぐしゃぐしゃにしてただろ。ちゃんと直さないとあそこで寝ねーからな」

…確かに、部屋に通された瞬間あまりの豪華さにはしゃぎまくって、部屋を物色し、ひらひらの天蓋付きベッドに至ってはトランポリンの様に跳ねてしまったが…。

「もしかして、剣城、一緒に寝てくれるの!?」

思わず松風は期待に目を輝かせる。剣城は照れ隠しの為か鬱陶しそうな顔をする

「仕方ねーだろ。お前が故意にかは知らないが、ダブルベッドにしたんだから…」

剣城がちらと責める様な視線を送ったが、そんなもの松風には効果が無かった。
既にかなり水位が下がった湯から、松風はざぶんと立ち上がると、浴槽を跨いで出た。直ぐの所にある足拭きマットで何度か足踏みをしてから、銀のバーに掛けられた白いバスタオルを取った。

「ねえ剣城、」

そして身体全体を軽く拭いてから、剣城の方へ振り返った。

「大人しくベッドで待ってるから、早く来てね」

松風は自分の出来うる最高の笑みを浮かべると、熱っぽく剣城を見つめた。剣城は一瞬ぽかんとしたものの、次の瞬間、松風の予想に大きく反して「気が向いたらな」と言って、彼にしては優しく、そして悪戯っぽく微笑ったのだ。松風は体中の血液がぐつぐつ鳴り出すのを感じた。してやられた、

「あー…逆上せたかも」





∴自首