その夜俺はちっとも寝付けなくて、何度も寝返りを打ちながら朝になるのを待っていたんだ。

すっかり暗闇に馴れた目で自分の部屋を見回すと、机も本棚も地球儀も、全てが変わらず、静かにそこにあった。壁に目を向ければ、必要最低限の家具しかないこの部屋で一際目立つ、豪炎寺さんのポスターが貼られている。俺は暫しそれを見つめた後、目を瞑り、溜め息を一つ落とした。何も特別な事はしてないし、体だって疲れているはずなのにどうして眠れないのだろう。これでは明日に響いてしまう。しかし眠らなければと強く思う程、それに比例して目も覚めていった。

静寂の中、時計の針の音だけが部屋に響いていた。俺は枕元に置いた携帯を手に取ると、頭まで布団を被り、ぱかっと携帯を開いた。突然の強い光に目が眩む。薄目を開けて画面を見るが、待ち受けには何のお知らせも表示されていなかった。こんな時間に分かってはいても、暇だとつい携帯を確認してしまう。そういえば、松風は携帯を買いたての頃毎日の様に、絵文字でキラキラしたメールを送ってきた。最近ではそれも減っていたが、たまには自分から送ってみても良いかもしれない。あいつはどんな反応をするだろうか。前に「剣城からも送ってよ」と膨れっ面で言われたから、もしかしたら喜ぶかも知れない。無意識の内に口元に弧を描いていると、突然ガタッという音がした
驚いて音がした窓の方を見れば、なんとカーテンがはたはたと揺らめいている。俺は窓なんて開けてないはずなのに、変だ。俺は途端に背筋が寒くなって、緊張したまま窓を見つめた。
しかし、いくら待てども変化は見られなかった。もしかしたら俗に言う幽霊という奴かもしれない。俺は毛布を自分の上から退かすと、恐る恐るベッドから降りた。
その時、音も無く窓からすっと人間の足が伸びるのを、カーテン越しに見た。俺が驚愕の余り固まっていると、次いで体のシルエットが映し出された。今俺の目の前にいる『誰か』は勝手に俺の部屋に侵入し、窓枠に腰掛けて、足をぶらぶらさせている。カーテンは窓の長さ程しかないから、足はシルエットでは無く、そのまま見えていた。確かに人の足である。そういえば、幽霊に足は無いはず。だとすればこいつは泥棒?ならば何故悠長にそんな所に腰掛けているのか。
風は途切れる事無くカーテンを揺らし、『誰か』の姿を隠し続けていた。こんな不気味な事ってあるだろうか。俺は自分を鼓舞し、そいつに声を掛けようと口を開いた。

ビュゥウウウウウ
突如部屋に突風が吹き込み、カーテンを激しく揺らした。俺は反射的に顔の前で防御の構えを取った。そしてその腕の隙間から、『誰か』の正体を見たのである

「まつか…」

俺がその名前を叫びそうになった時、あいつは瞬時に窓枠から降り、ワンステップで俺の前まで来ると、手で俺の口を覆った。至近距離で見る松風の瞳には、煌めく星が無数に在った。見つめ合う時間は永遠にも思えたが、実際そうでは無かっただろう。俺は松風にのし掛かられるままに、体を後ろに倒した。俺の体はやや固めのベッドにダイブし、スプリングを跳ねさせた。
俺は声を出せないまま、俺の上にいる松風を見た。松風に対する疑問は山程あったが、有り過ぎて余計混乱した。とりあえずこの手を退かさなければ。呼吸が苦しい。俺は力の入らない腕を上げ、どうにか松風の手を退かした。そして大きく深呼吸してから、こちらを見つめるだけの松風に、今度こそやっと声を掛けた

「おい…」
「ごめんね苦しかった?」

松風は案外あっさりと口を開いた。何となく何も喋らない気がしていたから、少しギョッとした

「お前…何してんだよ…。意味分かんねえ……」

よく見れば、松風は雷門ウェア姿だった

「驚かせたよね、ごめん。あっ、今退くよ」

松風は質問には答えず、俺の上から退くと、ベッドからも降りた。そして「重かったでしょ」と言って眉を下げた。確かに重かったけど、今はそんな事どうでも良い

「一体…どうやって入って来たんだよ」

これを聞くのは正直かなり怖かったのだが、聞かない訳にはいかなかった。何せ俺の家はマンションの7階なのだ。

「えーと、飛んで来た!」
「…何?」
「だから、飛んで来たんだよ。剣城の所まで」

いやいやいや、全く意味が分からない。飛ぶ?こいつは俺をからかっているのか

「………俺は夢でも見てるんだな」

どっちにしろ、これは夢に違いなかった。だって有り得ない事だらけじゃないか。俺は毛布を捲ってくるまると、目を瞑った

「剣城の部屋初めて来たけど、何て言うかシンプルだね〜。」

俺はカッと目を開いた。おかしい。松風はまだそこにいた。そして部屋中をきょろきょろ見回して、楽しそうにしている

「…夢じゃないのか?」

それは松風への問いで有り、自問でも有った。俺の囁きに、松風は柔和に微笑んだ

「夢だよ」

そう言った時の松風の表情が何とも儚げで、俺はつい見とれてしまった。

「あのさあ、怒らないでね。…ベッドに寝てる剣城、凄く可愛いよ」

俺は頬に急速に熱が集まるのを感じた。恥ずかしいやら悔しいやらで、俺は松風を睨み付けながら上体を起こした。そんな風に笑うな

「本当、意味分かんねえ。ちゃんと説明しろよ」
「んー…それはまた今度にしよう」
「今度っていつだ」

俺は間髪入れずに聞いた

「…今日はもう遅いから早く寝た方が良いよ」

松風は側の壁掛け時計を指差した。時刻は2時50分だった
松風は俺の質問を全部誤魔化している。不法侵入は犯罪だって事、教えてやった方が良いのか?

「お前本当に松風か?もしかして幽霊とか…」
「まさか〜。良いから、ほら寝て」

松風は俺の両肩をぐいと押して、無理矢理ベッドに寝かせた。勝手過ぎる松風に少し苛立って、俺は低い声でおいと言ったが、松風はにこにこ笑うばかりで手を離さなかった

「おやすみ剣城」

松風の顔が近付いて来たと思ったら、額に柔らかい感触がした。口付けを落とされたのだと気付いた時には、俺の頭はすっかりぼうっとして、瞼が重くなっていた。さっきまであんなに冴えていたのに。
眠りたくないし、眠ってはいけない気がしているのに、体は言う事を聞かない。段々と視界が狭まってくる

「まつかぜ…」

薄れゆく意識の中、俺が最後に見たのは、松風の瞳に煌めく眩い星たちだった





∴目醒め