※不動がパティシエ



連日連夜続く不動の洋菓子制作もいよいよ今日が大詰めのようだ。広い工房にはチョコレートやリキュールの甘い香りが充満し、鼻腔を擽る。鬼道が到着した時、不動はチョコレートで覆われた丸型のムース生地にデコレーションを施している所だった。不動の繊細な指使いにより、驚くほど美しい模様が生まれる。そしてムースを覆うチョコレートも、つやつやと光沢を放っていて綺麗だった。鬼道はいつも妨げにならないよう基本黙って見ているのだが、今は無意識に口を付いていた

「綺麗だな」
「テンパリングしたからね。デコレーションは、イメージ通りやればいいだけだし」

不動は視線を動かさずにそう答えた。集中しているし、かなり距離が離れているから聞こえないと思ったのに。不動の口元は愉快そうに弧を描いている
しばらくするとそれは完成したようだった。不動は、あー と唸りながら片手で腰を叩く。前屈みの姿勢はやはりキツいらしい。後で労わねばと思った

「あとは今から作る飴細工乗せたら一応完成。結構な高さになるかなあ」

不動がにっと笑う。鬼道はそうかと言って微笑み返した。今日は機嫌が良いようだ。何日も試行錯誤してようやくここまで辿り着いたのだから当然か。また別の準備を始めた不動を見届けてから、鬼道はそっと工房を後にした



不動は高1の時突然パティシエになると言い海外で修行を始めたのだが、何やら天賦の才があったらしく、21の現在天才パティシエの名を欲しいままにしている。そんな不動と鬼道は恋愛関係にあった。不動が日本での仕事場に、鬼道の企業傘下のホテルを選んだのはそういう事情があってだった。そして今日不動は世界的に有名な洋菓子コンクールに出展する為寝る間も惜しんで菓子作りに没頭していた。気難しい不動はコンクール期間中絶対に工房に人はいれないそうだが、鬼道だけは例外としていた。鬼道はそれは単純に嬉しいのだが、それで良いのかと問いたくもあった。そもそも工房など本来関係者以外立ち入り禁止なのだが、深夜のみ取締役権限で入っていた。勿論鬼道は仕事を終えて軽食を取った後、毎日直行している

鬼道はエレベーターで1階に降りると、ホテル内の売店に向かった。そこで食パンとミネラルウォーター、今日はついでにサプリメントも購入した。これは不動の夕食になる。不動は舌が鈍るという理由で制作中は一切味のあるものを食べないし飲まない。こんな食事では体調の方が心配だったがそこは頑なに譲ろうとしなかったので、仕方なく食事を取るのすら億劫な不動のために鬼道は毎日売店に足を伸ばしている。鬼道が俺はこんな事しかしてやれないと不動に告げると、不動は決まって"鬼道財閥の坊っちゃんをパシリに出来るのなんて俺だけだ"と笑った

片手にビニール袋を下げ再びエレベーターに乗り込む。目的の階のボタンを押してから、鬼道は腕時計を見た。時刻は夜中の12時を過ぎていた。エレベーターが止まり、扉が開くと鬼道は防犯ゲートで社員証をかざした。そこを通過したら、赤い絨毯が引かれた長い廊下を歩いた。そして唯一光の灯る工房の、両開きドアを押し開けた

「不動、買ってき…た……………なッ……!」

鬼道は目の前の光景を疑った。何故なら先ほど不動が精魂籠めて作り上げた芸術的に美しいケーキを、不動自らの手で原型を留めぬ程にぐちゃぐちゃにしていたからだった。尚もフォークでぐさぐさと刺し続ける不動の瞳は氷の様に冷たく、僅かに諦めの色も見て取れた。鬼道は自分が落としたビニール袋の音で我に返ると、慌てて不動の元に走り寄った。だがその途中で靴の下からバリンと嫌な音がした。鬼道はまさかと思い靴を退けると、そこにはばらばらになった飴細工の残骸があった。よく見れば足元には鳥や花や蝶だったと推測出来る割れた飴が無数に散らばってきらきらと光っていた

「ふど……貴様ッ、…なぜ…?」

鬼道は頭が痛くなりながら不動の肩を掴んだ。その瞬間不動は、べたべたにケーキが付着したフォークを床に落とした。

「んー?これじゃダメだなあと思ってさ」

不動の声はその瞳に相応しくないトーンで、実に何でもないように答えた

「何がダメなんだ…上手くいってたんじゃないのか?」
「そう思ってたんだけどなー。食べてみたらだーめ、完全に失敗作」

鬼道が弱々しく静かに尋ねると、不動は首を横に振りながら溜め息混じりにそう言った

「だからって何もこんなにしなくても…」

鬼道は惨状と化した床と作業台を見回した。不動がようやく振り返る

「驚いた?」
「驚いた所の話じゃない…心臓が止まるかと思ったぞ」
「はは、鬼道チャン大袈裟〜」

鬼道は気付いていた。笑いながら鬼道の肩を叩く不動の、目だけが笑っていない事に。鬼道は背中に冷や汗をかいた

「ちょっと貰うぞ」

鬼道は傍にあったフォークを掴むと、マーブルカラーのぐちゃぐちゃを掬って口に運んだ。それを不動はそれを黙って見つめていた

「!…これ、は……」

舌に触れた瞬間ベリーとオレンジのムースがとろける。そして滑らかな舌触りのチョコレートに、香ばしいナッツとビスケット。全てが正しく絶妙なハーモニーを奏でていた。そしてあっという間に全てを嚥下しても尚それらの香りは口内に留まり続けた。鬼道は今まで美味い洋菓子など飽きる程食べてきたが、こんなにもう一口を貪欲に求めたのは初めてだった。この洋菓子は間違いなく珠玉のものであり、それを不動が作ったと思うと、鬼道は感動の余り鳥肌が立った。
そして慎重に言葉を選びながら静かに告げた

「…俺は、生まれてこの方こんな素晴らしい菓子を食べたのは初めてだ。……これの何処に不満があった?」

少しの沈黙があり、その間不動はぼうっと床に散らばる飴の欠片を見つめていた

「さあ」

不動の表情からはさっぱり感情が読めなかった。鬼道は衝動的に再びぐちゃぐちゃを掬って口に運ぶと、不動の作業着の襟を掴んで引き寄せた。そしてそのまま目の前の唇に自分の唇を強く押し当てた。不動が突然の事にたじろぐが、鬼道は構わず甘く香る舌で唇を無理矢理割ると、口内のそれを不動の中に流し込んだ

「んぅ……ふァ…っ…」

不動は意外にも抵抗せずそれを受け入れ、少し舌で転がしてから飲み下した。それを確認すると、鬼道は名残惜しく感じながらも唇を離した。一呼吸置いてから自分の唇に付着するチョコレートを舐めとる不動は壮絶に色っぽかった

「どうだった?」

鬼道が極めて冷静を装い問うと、不動は実に愉快そうに、妖艶に笑った




「まずい」





∴まるで殺人現場だ