三日月が、かかる雲を照らしていた。
冷たい夜だった。
すっかり青白くなった、精悍な顔を見据えた。
「...丕」
男の瞼が、ぴくりと震えた。
もう一度。
「...丕」
「久々な、気がするな...姉上」
そう呼ばれるのは。付け足した男の眼は、その弱った声と相対して、支配者のものであった。
「あなたから私を訪れるなど稀有極まりない...さては死の宣告でもなさりにきたか」
男が帝の座についてから七年になる。皮肉るように、昔と変わらぬつもりで笑ったその顔は、昔とは打って変わってすっかり覇気が失せていた。
「あながち、間違ってはない...まあ、わかってると思うけど」
「...ふ。......して、姉上」
男はゆったりと身を起こした。
「もうあなたを退ける者もいますまい...いつまで、暗がりに光輝を睨みつけるだけでいるおつもりか」
「......唐突だな。あの男のように、わたしのような木偶がいるのが気に入らんか?甚だ合理的。結構なことだ」
「...皮肉はいい。あなたは、ここでうずもれるような器ではありますまい」
「...ふん、そういう運命なのだ。それに抗うほど、わたしはこの世界に興味はない」
「そうか...」
男はため息を溢した。
「憎いな。父が。あなたの世界を、ここまで狭めた」
「...憎むべきはあの男ではない。天命よ。こうなるのは必然だった...わたしが、あの姿で生まれたときから...。それよりも、横になったらどう?苦しいでしょう」
「ああ、......まるで死を知っているかのような言種だな」
「死と、一緒に生きてきたもの」
常に、死に晒されていた。
いつ、悪魔として処刑されるかもわからなかった。
いつ、曹孟徳の子として攫われ、どんな仕打ちを受けるかもわからなかった。
そして恐るべき太陽は、いつもすぐそばを照らしていた。
「姉上、死とは、恐ろしいものか?」
「いいえ、何よりも優しいもの...全てを平等に抱きとめてくれる...いつもただ隣で、沈黙している...あなたは、恐ろしいと思う?」
「...ああ、望まぬものを、いきなり仕掛けてくるのだ。しかし、回避すらできない。......姉上」
しっかりと、目を合わせた。
「もう、貴方を退け、咎める者はいないのだ。もう、解放されていい」
「...わたしのことは、もう気にしないで。人々が必要なのはあなたなのだから。わたしは、それで満足してる」
「そうか...残念だ。貴方が造る天下というのも見てみたかった。...また話せてよかった。これが、最後になるか?」
「きっと。こんな餞別で申し訳ないな」
「ふ...申し訳ないと思うのなら行動で示して欲しいな」
「......気が向いたらな」
偉大なる英雄が、また一人逝った。
解放されていい。わかっている。だがどうしても、黒い嫌悪と恐怖から、離れられないのだ。
英雄一人の死に構わず、歴史の糸は紡がれる。わたしはその汚穢。弾かれる存在。だがそれで満足しているのだ。満足している。
違いえぬ血統
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