幾千の屍が積み重なり、血の海と化した宮に足を踏み入れた。
帝の姿はない。陳留王となった協も。
この混乱の中でも百以上の宦官が城外に逃げ出していたようだ。帝らはそれに連れられている筈だ。
ひととおり宦官を斬り殺した袁術、袁紹も既に城外での帝の捜索を始めている。
ふと、砂埃が此方に近づいているのが見えた。
董卓の軍勢であることが、もう暗闇に慣れてしまった目なら、すぐに判別できた。
そして、帝を連れていることも。
山犬め。眉を顰めた。
「おのれ...!」
袁紹が小さく呻いた。
それもそのはずだ。袁紹が二千余の宦官を殺したことは、董卓に利したこととなったのだから。
「...戻るぞ。袁紹」
「な...!こんなところで引き下がれというのか!曹操!」
「ここで騒いでも、どうもなりますまい」
今にも董卓に兵を向けてしまいそうな袁紹を諌めた。
「ぬう...!」
建物の隙間から覗く黄金の陽光に双眼を射られ、既に夜闇が消え去ろうとしていたことに漸く気付く。
然し、たった一晩で、何進は死に、帝は董卓の手に渡り、何千もの人が虐殺された。
「鄭鵞よ。もう此処にいてもすることは無かろう」
曹操が言う。
「それに、疲れたであろう。あとは、我らに任せておけばよい」
「...それもそうですね」
何故、ここでか弱い女のような扱いされたのかは解せなかったが、拱手をし、一礼した。
いつまでもこんなところに居ても仕方ない。
「ではまた孰れか、曹操殿、袁紹殿」
董卓の、馬を驢馬だと勘違いしそうな程に肥満した体が、少し遠くに見える。
逃げるように、身を翻した。
分かっていたことではあったが、董卓の専横は始まった。
少帝だった劉弁は廃帝となり、陳留王だった劉協が献帝となった。
袁紹などはそれに耐えられず、宮を脱した。抱きこめられる者は、抱きこめられていった。
私の主は、冀州牧に任じられた。
「鄭鵞様!」
若い男がこちらに走り寄り、片膝をつく。
「韓馥様がお呼びです」
「韓馥様が?わかった」
ご苦労、と一声かけてから、足早に主のもとへ向かった。
主は、書簡をしたためていた。そこに先ほどの若い男のように片膝をつき、手を合わせる。
「お呼びでしょうか、韓馥様」
ああ、と一拍置いて、主は私の方へ向き直った。
「曹操が、洛陽から逃亡した。宮から各関所に捕縛命令が出ている。もしこの冀州に入っていたならば、後で董卓様になんと言われるか...」
「つまり、巡回を?」
本来ならば、関所に任せておけばよい事だ。
「そうだ。頼んでもいいな?」
こんな世なのだ。いや、こんな世になってしまった。
どう言い掛かりをつけられるかもわからない。
相変わらず臆病な方だ、と思った。
曹操が向かっているのはおそらく沛国で、冀州とは洛陽を挟んだ反対側にある。
「御意に」
ああ、そういえば、勝手に出かけた時も咎められなかった。
一礼して、下がった。
すぐに兵を五十程ずつ分けて、各地に出動させる。
「おや、鄭鵞殿」
流れるような、男にしては高い声に振り向く。
「このような時刻にお出かけですか。」
「張コウ殿。ええ、曹操が宮から逃亡したらしく、」
張コウは黄巾討伐の募兵に応じて軍の司馬となり、韓馥の配下となった将である。
「そうでしたか。鍛錬にでも誘うつもりでしたが...。でしたら、お気を付けて」
張コウが、いつもとそう変わらぬ微笑みを浮かべる。
「ええ、ありがとうございます。では」
馬に跨り、駆け出した。
奔り続けると誓おう
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