Log


「…………はぁ、」

 なんでもない日の朝だった。
 外に出る予定も特になく、太陽は見えないけれどいいお天気で、気の向くままお散歩でもしたいくらいの平和な日。

 なのに私はある部屋の扉の前で、重いため息をついて項垂れていた。

 こんな日には束の間の安息をありったけ享受出来るはずだった。
 憂鬱の原因はどちらかというと……昨日にある。

 昨日──つまりギラヒム様と一緒に女神の要地に踏み入りそこそこに大変な争いがあった日。
 私は前線で必死に戦ってマスターも魔力を使わざるを得ない場面が多々あり、主従共にかなりお疲れな状態で帰ってきた。
 
 そんな日の翌日。
 避けて通ることの出来ない──“ギラヒム様を起こす”というイベントは、やりたくないお仕事の三本指に含まれることとなる。

 いっそ誰かに押し付けてしまいたかった。が、主人の部屋に入れるのは拠点の中で基本私だけだ。
 ダメ元で一番可能性がありそうなリザルに頼んでみたが、「誰も得しねェし俺もまだ死にたくねェ」と即行で却下された。

 結局、このお仕事は私にしか出来ないという訳だ。

「……はぁ、」

 悩んでいるうちにも幾分か時間が過ぎてしまっている。
 そう易々と起きてくれないくせに放っておいたらそれはそれで怒られるのだから、腹を括って乗り込むべきだ。

 私は主人が既に起きてくれていることを天に祈り、彼の部屋の扉を開いた。

「…………マスター?」

 隙間から頭を覗かせて広いベッドに視線を寄越す。
 やはり天が私のお願いを聞き入れてくれることはなく、予想通りお休み中の主人が眠っていた。
 私は息を殺しゆっくりそこに近づいて様子を窺う。

 主人は小さな寝息を立ててぐっすりと就寝中だった。
 表情の全貌は見えないものの顔は整ってるしいい匂いがするし、本当に口を開かなければ美人なのにと何回目かわからない感想を抱く。

 ここぞとばかりに数分間その寝顔を堪能し、やがて覚悟を決めて私は声を掛けた。

「……ギラヒムさまー」
「…………」
「朝ですよー」
「………………ん」

 一音だけ発して鬱陶しそうに寝返りを打たれた。……いや、可愛いけども。
 刹那彼を弄りたくなる衝動に駆られるがそんな愚行を犯せば数分後には地獄を見ることとなる。
 私は襲いかかる邪念を振り払い「これは業務だ」と三回念じて眠る主人への説得を試みた。

「マスター」
「…………」
「朝になりましたよー」
「…………、」
「今日はいいお天気で、」
「…………るせぇ」

 心の底から苛ついている、ついでに素を隠そうともしない声が部下の懸命な呼びかけを容赦なく遮った。
 非常にまずい。このままでは主人の機嫌が地を這った状態で起きてしまう。そうなれば後に地を這うこととなるのは私自身だ。

 文句だけを言ったギラヒム様は再び夢の世界に引きずり込まれたようで、綺麗な顔はお布団の中に完全に埋もれてしまった。

「どうしよう……」

 私は一旦呼びかけを止め、作戦を練り直すことにする。
 要は彼の機嫌を損ねず起こせばいい。喜ばせずとも何も思わず自然に起きてくれればいい。
 ……いつであろうが寝起き最悪の主人だからこそそのハードルが果てしなく高い訳なのだけど。

 逆に考えよう。
 私が普段この部屋に連れ込まれ朝を迎える時、彼にどうやって起こされるのか考えてみる。
 シーツごと引き摺り下ろされたり頬を引っ張られたりあるいは犯されたりと、優しさのカケラもない起こされ方ばかりが思い浮かび眉間に皺が寄るけれど、首を振って思考の片隅にそれらを追いやる。

 一回くらいは幸せな気分のまま起きたことがある気がする。そこに何かヒントがあるはずだ。主人をご機嫌斜めなまま起こさずに済む、その方法の──!

「────、」

 そうしてついに、私は一つの方法へと辿り着く。
 それは下手をすればものすごい後悔に駆られるだけでなく逆効果にしかならないものであった。

 ……でも、

「……時間、ない」

 ギラヒム様の部屋に訪れてから、ある程度の時間が経とうとしている。
 そろそろ起こさなければ、待っているのはどちらにせよ不機嫌な主人によるお仕置き一択だ。

「…………よし、」

 意を決して広いベッドに乗り掛かり、私は眠る主人の側による。
 そのまま以前自分へされた行動を準えるように──私は彼の耳に唇を寄せる。

「……マスター」

 吐息を滲ませた声でもう一度だけ主人を呼ぶ。閉じた瞼がぴくりと揺れたが数秒待ってもそれ以外の反応はなし。
 気持ちよさげに夢の世界に入り込んでいる彼を起こしてしまう罪悪感にすら駆られるが、それがお務めを放棄する理由にはならない。

 わずかに目線を上げ、私は半分だけ伏せられた主人の顔へ恐る恐る手を伸ばす。

「────」

 指先で触れたその場所の、さらさらとした手触りの良さに一瞬だけ激しい動揺が走る。
 たったそれだけで胸の動悸に全身を支配される感覚に陥りながらも、私の指はそれを──主人の長い前髪を避けて、彼の頬へと辿り着いた。

「く、」

 艶のある肌の触り心地はある程度予想できていたものの、やや弾力のある柔らかさが指の腹に伝わり、耐え切れなかった私の苦鳴がついにこぼれる。
 一体私は何と戦っているんだろうという気分にもなったが、唇を噛んでなんとか堪え……私はそこへ顔を近づけた。

 ──そして、

「────、」

 一つ、柔らかな頬へキスを落とす。

 軽く触れた唇はすぐにそこから離れて、一度主人の様子を窺う。

 ……反応はない。
 それだけを確認して、再び彼の頬へ唇で触れる。今度は二つ、キスを落とす。

「……ん、」
「!」

 一度だけ音になりきらない掠れ声が耳に届き、その場で私の全身が固まる。
 が、至近距離で見つめる彼の瞳が開くことはまだない。
 その体勢を維持したまま数秒置き、やはり目覚めない主人を確認して私は再度彼へキスの雨を降らせる作業に没頭する。

 ……最初は、過去に主人の気まぐれで為された起こし方を少しだけ真似しようと思っただけだった。
 しかし、しばらくその行為を続けているうちに当初の目的は私の頭から消え失せていた。

 主人の肌の感触と、甘い匂いと──ほんのわずかな支配感に、陶酔してしまっていたのだと思う。

 ──だから。
 キスに夢中だった私は、背後で持ち上がった彼の手の存在に全く気づけずにいた。

「はぉッ……!!?」

 何度目かわからないキスを落とした、その瞬間。
 無防備な私の後頭部は猛禽類が獲物を捕獲するように鷲掴みにされ引き寄せられる。
 奇声をあげながらも反射的に両手をつき、マスターの顔面へダイブするという絶体絶命の危機からは逃れられた。

 が、その先で待っていた──うっすらと開いた主人の目に私の背筋が凍る。

「……お、おはようございます……マスター……」
「…………」

 後頭部を抱えられたままの姿勢で、見るからに機嫌が宜しくなさそうな視線を真正面から受けながら、私は目覚めた主人へ朝のご挨拶をする。
 歪んだ眼差しと共に向けられるのは罵詈雑言の雨嵐──のはずだった。

「…………」
「ま、マスター……?」

 捕まえる手はそのままに、じっと私を見つめる主人は黙ったきりだ。薄く開いた目の中に吸い込まれそうな感覚に陥りながら私は脳内で困惑する。

 果たしてこれは、どういう状況なんだろうか。
 まさか、新手のお仕置きなのだろうか……!?

 主人と同じように時が止まりかけ、なんとかもう一度だけ彼を呼びかけようとした──その時だった。

「──リシャナ」
「へい……?」

 薄い唇がゆるゆると私の名を紡ぎ、後頭部を捉えていた彼の片手がするりと輪郭に沿って落ちてくる。

 その唇の動きに釘付けになりながら。
 続く言葉を……耳にした。

「──可愛い」

「…………ぅぇ?」

 たった一言を発した主人は、下ろした手を私の腕へと滑らせ緩い力で引き寄せる。
 その気になれば逃げられる程度の拘束だったけれど、完全に思考が停止していた私は為されるがまま彼の胸の中に収まる。

 あろうことか愛おしげに両腕で体を包まれ、仕返しというように額にいくつか唇を落とされ……ようやく自分が何をされたのか理解した時には、既に彼は眠りの世界へ舞い戻っていた。

 ──今のは、何、だったんだ。
 
 動けないまま果てぬ疑問符を浮かべ、むしろ夢を見ているのは私の方なんじゃないかと疑いを持ち始める。
 どちらにせよ、包み込むように私を抱きかかえるマスターの手から脱出する術は残されていない。

 目覚めた後で待ち受けるものを頭でチラつかせながらも、私は平和な日の幸せそのものを噛み締めながら主人と同じ眠りの世界に落ちていった。


 数時間後。

「だから、ほんとに起こしたんですって、本当に……!!」
「結果起こせていないのだから関係がないだろう? むしろこのワタシの睡眠を邪魔しただけとも言えてしまうねぇ、リシャナ……?」
「幸せそうな顔してたくせ……ッたぁ!! 朝からデコピンは頭に響くからダメです!!」
「既に昼だよ。主人の元で惰眠を貪った馬鹿部下のせいでね……!!」

 二度寝から主従が目覚めた時、あの和やかな夢のような瞬間は主人の記憶の中にまるっきり痕跡すら残っておらず、
 お天気の良い昼下がりはひたすらにお仕置きを受ける時間として費やされるのであった。