迷子編_1話
「いってらっしゃいです、マスター」
いつだってこの言葉を口にする時は形容し難い寂寥感が胸奥にあふれ出てしまう。同時に、空にいた頃にはこんな気持ちにならなかったのにと自身に対する疑問が浮かぶ。それほどまでに恵まれた環境にいるのか。はたまた彼に依存してしまっているだけなのか。
──と、そこまで考えたところでようやく私は肩越しに注がれる冷ややかな視線に気がつく。彼は私を見下した後、マントを掴む私の手へ目線を運び、
「……このままラネールまで引きずって行ってあげようか?」
「…………」
甘えを見せる部下へ、平常運転である塩対応をなさった。俯いて歯噛みし、私は渋々手を離す。
そうして彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送り、憂いが滲む嘆息をこぼした。
──今日から一か月間、ギラヒム様はラネール地方へ一人遠出をする。
主人単身での遠出自体はよくある話だった。その目的は配下に加わっていない一族の勧誘だったり、その地に住まう魔物の統率だったりと多岐に渡る。基本的には私を伴った外出がほとんどだが、人の身をした私を連れていくのに不都合がある場合はやむを得ず単身での外出になる。
普段ならば最初の数日は束の間の自由を噛み締め思いっきり羽を伸ばすのが定例なのだが、今回は寂しさが勝ってしまったようだ。
おそらくここ数日の間、胸の中を満たし続けている“悩み”が原因だろう。
「……よし」
頭を埋め尽くす仄暗い影を振り払うように呟き、私は深呼吸をする。主人が不在の間もきちんと部下としてのお務めを果たさなければならない。
私は無意識にも下がってしまっていた肩を持ち上げて背筋を伸ばし、お留守番中最も重要なお仕事へと向かった。
*
「うん、問題なし」
一番重要とは言いながらも、そのお仕事は数十分だけ足を動かしたどり着いた地を一目見れば呆気なく完了となった。
拠点からそう遠くはない、森の中のとある高台。ここは雲海を隔て、スカイロフトのちょうど真下に位置する場所だった。
眼前には何の変哲もない地面が広がっている。が、そこに立った私の肌はぴりぴりと何かの気配に怯えるようにざわめいていた。
漂うのは慣れ親しんだ主人の魔力。彼の魔術による細工で上手く紛れているが、ここには大量の魔力が蓄積されている。
それはある時期から主人が注ぎ続けた──空の世界から巫女を奪う竜巻を起こすためのものだった。
そして、彼が不在にしている間、その魔力に異変がないか見守るというのが私の今回のお仕事だった。
無論この魔力は彼の悲願を叶えるための直接的なきっかけとなるため、簡単には見つからない場所に隠されている。それでも万が一のことがあってはならないため、この地の監視は私の役目に加わっていたのだった。
「────」
いつか、そう遠くない未来にこの魔力が溜まり切ったら。その時こそギラヒム様と私にとっての本当の戦いが始まる。
本来なら期待だけをすべきなのだろう。しかし私の心は、魔力が満ちれば満ちるほど暗雲を濃く漂わせ始めている。それを自覚することによって生まれる罪悪感も。
「……?」
束の間の感慨に耽りながら目の前の景色に見入っていると、ふと薄い既視感を覚えて私は首を傾げた。
眼下に広がる深緑の森。天上に広がる分厚い雲。あの向こうにある、自身の故郷。
それらを見据えしばらく考えていると、記憶はそう時間を経ず引っ張り出すことが出来た。
「この場所って、たしか……」
ここはたしか──空から落ちたばかりの私を、主人が最初に連れてきた場所だった。
何故今まで忘れていたんだろうと数秒頭を捻ったが、たしか連れてこられたのはまだ彼の部下となって間もない頃。つまり、彼への恐怖心を拭い切れていなかった頃だ。
そのためか、知らず知らずのうちにこの記憶を奥底へ埋めてしまっていたのだろう。今となっては恐怖心を抱くのは彼の機嫌が悪い時だけだというのに。
「────」
そして一度思い出したなら、大切な主人との思い出はしっかりと思い出して、忘れないよう記憶しておきたいと思った。特に、今は。
私はその場に座り込み、瞑目して記憶の糸を手繰り寄せる。木々の合唱を運ぶ柔らかな風に頬を撫でられながら、追想へと身を委ねる。
空から落ちたばかりのあの頃。まだギラヒム様のことを何も知らなくて、魔王様の存在すら教えてもらっていなかった──私がただの使われるモノでしかなかった頃。
温かく心地よい水の中を揺蕩うように。
私は記憶の海を彷徨い始めた。
*
*
*
「……一年も、ですか?」
そう聞き返してしまったのは少しまずかったと後から思った。彼が答えた期間がそれほどまでに長く、予想以上に手間をかけられていたため驚きを隠しきれなかったのだ。
思った通り、真上から突き刺された視線は微かな苛立ちに染まっていて、私は気圧されるまま口を噤んだ。
「何か問題でも?」
「……い、いえ、ございません」
やや圧を込められ返された言葉に早々に謝罪を述べる。けれど口調的に機嫌を完全に損ねてしまった訳ではないと察し、私は内心で胸を撫で下ろした。
魔族の長という肩書きを持つ彼に最初の数日は戦々恐々として対応していたが、喜怒哀楽の激しさもあって彼の言葉のニュアンスを汲み取るのはあまり苦労しなかった。
冷たい眼光から解放された私は音もなく安堵の吐息をこぼし、再び天上に広がる灰色の雲海──私の故郷とこの大地を分かつ雲の壁を見遣る。
脳裏に再生されるのは、私の身一つを落とすにはあまりにも凶悪すぎるあの巨大な竜巻だ。彼から先ほど告げられたのはそれを作り出すまでにかかった期間だった。
彼は当時の自身の甲斐甲斐しい苦労を嘆くように、悠然と艶のある白髪を撫でつける。
「いくらこのワタシと言えど、あれほどの魔力を溜めるにはかなりの手間なんだよ。地上に女神の封印が満ちている今の大地で一般の魔物が同じことをしようとするなら、五百年あっても足りないね」
「ごひゃく……」
「空の世界への干渉は本来危険を伴うものだ。このワタシだからこそ成し得たのだとその小さな頭に刻んでおくことだね」
「……はい」
結びに仰々しく髪を掻き上げた彼の言葉がどれだけ誇張されているものなのか、魔力という概念に今まで馴染みがなかった私にはわからない。
空の世界でも火を起こすために特定の魔力を持った魔石が使われること等はあったが、かつて有されていた人間自身の魔力はほぼ失われていると何かの本で読んだことがある。
だから、魔法や魔術を使える種族ならあの竜巻も容易く生み出せるのではないかと思っていたが、そう簡単な話ではなかったらしい。
そこまで語られ、話は終わりかと思った。
しかしふと横目で見た彼の整った横顔に、私の視線は縫い止められてしまった。
「……それに、」
そう口にした彼の表情が、数秒前に比べ何かを儚んでいたように見えたからだ。
私の視線に彼が反応を示すことはない。ただその双眸をわずかに細め、薄い唇を震わせた。
「──これだけ長く、この時を追い求めてきたんだ。そのうちの一年なんて、かかったうちに入るわけがない」
森を撫でる風に消えてしまいそうなその声音は、傍らの私へ告げるというよりも自身の実感を深めるための独り言のような響きをしていた。
その言葉を聞き、私は自身の中に浮かんだ一つの疑問の存在に唇を結ぶ。
聞きたいことは他にも山ほどあった。どうやって空の世界の私を見つけたのか、いつから私のことを知っていたのか、どうして私だったのか。
彼がその答えを私に教えてくれることはないのだろう。下手に聞けば機嫌を損ねてしまうかもしれない。
彼が何を思っていたとしても、私の全ては彼のためにあると、他でもない彼自身が教え示したのだから。
──ただ、それでも、
「ギラヒム様」
未だ馴染まない、自身の飼い主の名前を口にする。
高い位置から注がれる視線を見つめ返すと、彼の網膜には純粋な興味に惹かれた私の姿が映り込んだ。
魔族の長である彼が自ら手間をかけ、時間を費やし、求めたもの。それはきっと私自身でなく、私を落とした先にある未来だ。
だから、彼が文字通り心血を注ぐその対象を──私は知りたいと思った。
「──貴方は、何を願っているのですか」
つい先ほど目にした彼の表情が脳に焼き付き、私はそれを野望でも目論見でもなく“願い”と称していた。
そう言い表すことは決して間違いではなかったと、私は後に確信することとなる。
眼前の彼は部下の視線を受けて微かに瞼を震わせる。が、すぐに驚きは消え失せ、鋭い視線で軽く睨みつけられた。
「いきなり不躾な質問をするね。殺されたいの?」
「……申し訳、ございません」
「……まあいい、いずれ知ることか」
降ってきたのは過激な言葉だったが、気を悪くしたわけではなさそうだった。彼は目を伏せ、数拍置いて考えをまとめたというように嘆息を落とす。
そうして次に重ねられたのは、真正面から私を射抜く温度のない視線だった。
「……お前はワタシのために生まれてきた。ワタシに尽くし、ワタシのために戦う。それがお前の生きる理由だ」
それはあの日彼が紡いだ、私自身の生きる理由。一字一句違わないその言葉は生々しい傷跡を残すように、存在感を示し続けるように、私の内側に楔を打っている。
「──そして、」
そこで一度、区切られる。
彼の目には一切の感情の色で濁ることのない、一本の剣のように真っ直ぐな抜き身の想いがあって、
「ワタシは魔族の王──魔王様のための存在だ」
彼が願いを捧げる人の名を、私は初めて耳にした。
魔王様、という名前からわかる以上の情報はない。けれどその声音には私の想像すら及ばない幾千もの感情が渦巻いている。
それに名前をつけるなら、忠義と言うべきか。加えその奥底で吹き荒ぶのは、狂おしいほどの妄執か。
「故に、願いは何かと問われるならただ一つ」
それらの感情を内包しながら揺るぎない言葉は継がれ、私は、
「──あの方の助けになることだ」
“魔剣ギラヒム”の片鱗を、たしかに目にしたのだ。
「……ここまで語らせておいて、返す顔ではないね?」
彼の奥底に留められていた深い深い想いを耳にした私は、呼吸も出来ずただただ呆気に取られていた。彼の声音に低い温度が戻り、蔑む視線を向けられようやく私は我に返る。
だがそれきり何の言葉も発せずにいると、冷えた流し目には呆れが浮かんだ。
「やはり下等な人間には我が崇高なる考えは理解出来ないようだね。……お前がどう反駁しようと拒否権は存在しないのだから、ワタシには関係がないけれど」
「あ、い、いえ、あの、」
流れるように結論へ先回りする彼に、私の口から焦燥感に押された制止の言葉が出た。
当然、そんなことをすればギラヒム様からは続きを促す冷たい視線が返される。「文句でもあるのか」と言外に訴える目つきに射竦められながら、私は逃げるように目線を逸らした。
そうして恐る恐る、彼に対し初めて恐怖と安息以外に抱いた感情を口にする。
「……綺麗だと、思いました」
「────」
ギラヒム様からの返事は、何もなかった。
沈黙が恐くて顔を上げることは出来なかったが、数秒後に彼は緩く肩を下げ私の頭に片手を置いた。
「一つ、飴を与えてあげようか」
「……?」
無造作に乗せられた手が顔を上げることを制していて、ギラヒム様の表情は窺えない。彼は私の反応を待たずそのまま言葉を続ける。
「お前を空から落とす魔術のためにかけた期間は一年だ。……だが、」
そこで唐突に顎を掬われ、視線を重ねられる。
真っ直ぐに互いを見つめ合い、網膜に使う者と使われるモノを焼き付け、立場を教え合う。
──そして、
「お前をワタシの元へ“連れ戻す”ことを決めたのは、もっと前からだよ」
「……!」
「ワタシがお前を求めていたのも、また事実だということだ」
囁かれ、注がれ、謳われた言葉が私のうちに宿したものの正体は何だったのか。
期待であり、魅了であり、喜びであり、恐怖であり、安息であり、思慕であり──そのどれでもあって欲しくない。おそらく使われるモノとして、持ち得てはならない感情だ。
それを抱く部下の奥底すら見透かすような眼差しをたたえ、彼は続ける。
「ずっと、ず……っと、お前を求めていた」
部下を飼い慣らすための、甘い蜜のような言葉。それはこの時の私の思考を呆気なく絡め取ってしまうものであり、
──主従となった後の私の胸を、強く強く締め付けるものでもあった。
*
*
*
「────」
追想の時間は暖かな風に前髪を撫でられ緩やかに終わりを告げる。
瞼を開き、目に映る景色に主人の姿は見当たらない。けれどたった今思い出した美麗な顔立ちと告げられた言葉は、もう二度と忘れられないのだろう。
ひとつ思ったのは、あんなに初期からマスターのことを綺麗だと思って魅入られていたのか、ということだ。
何度も言われてきたことだが、彼への執着心は自身が思っている以上に深く奥底に根付いてしまっているものなのかもしれない。
「……ギラヒム様」
主人の名を呼ぶ。当然、今ここにいない彼から返事は返ってこない。
名を紡ぐその行為だけで、私の胸には疼痛が走る。
しかしその痛みに背中を押されるように、私は一つ決意をする。
──彼が不在にしている一か月の間。ここと同じような思い出の地に、足を運ぶということを。
主従で立ち向かう本当の戦いが始まる前に、私の中に居座るある感情へ別れを告げるために。
道標が見えなくなって、一人になってしまった私の、
ほんのひと時の迷子の旅路を、歩み始める。