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長編3-3_雷鳴



 ──牙が砕けた。
 虚勢を張るために見せつける反駁心が、最後に抗うための反抗心が、失われた。

 ──爪が砕けた。
 敵を逃さないための手段が、守るために手を引く方法が、失われた。

 ──刃が砕けた。
 力そのものが、想いそのものが、願いそのものが、失われた。

 ──命が、砕けた。

 守りたかった世界が、自身を奮い立たせていた矜持が、自身の全てであったその生が、何も、何もかも、何も残らず、何も残せず。


 こぼれ落ちて、なくなった。


 *


「…………まただ」

 浅い眠りの淵にいた体を揺り起こしたのは材木が立てる軋音だったのか肌を撫でる隙間風だったのか、わからなかった。
 少なくとも自身が今さっきまで見ていた光景が夢なのだと理解し、掠れた呟きを落とした頃には意識が浮上していた。

 目を覚ましたのは、明かりが遮られた半密室の空間──荷台の中。
 夜、進軍を止め野営地で睡眠を取る際、この荷台は砂風と寒さをしのぐ寝台として使われる。当然、ここを使うのは魔族長様とそのお世話をする私だけだ。
 首を傾けると求めていたその人の微かな寝息が耳に届き、口元が綻んでしまう。

 瞼を揉んで、私は真っ暗闇に包まれた天井を見つめ直す。そこに描くのはつい先ほどまで見ていた夢だ。
 誰かが何かに後悔していて、何のために戦っていたのか問い続けていて、口にすら出来なかった願いを繰り返していた。
 砂漠に来てからこれまで、私は何度か同じ夢を見ている。

 それは悪夢でなければ、恐怖心を抱く夢でもなかった。
 目が覚めていつも思うのは、あの人は何に対して後悔をしていて何のために戦っていたのかという純粋な興味と、その結末に対する淡い物悲しさだ。
 嘆いても、喚いても、吠えても昇華されない慙愧の荒波に私はいつも打ちのめされてしまう。
 夢の中の知らない人物に対して抱く情緒としては、少々深入りしすぎているかもしれない。

「…………」

 持て余してしまった苦い感情から目を背けるように、私は寝返りを打つ。野宿よりはマシだが、一週間前後を固い床の上で過ごしているため体の節々が痛む──が、そこで待っていた綺麗な寝顔に、夢の余韻も関節の痛みもすぐさま霧散していった。

「……美人」

 暗がりの中でもわかるほどに整った顔立ちを保ち、我が主人ギラヒム様はぐっすりオネムだった。
 普段の言動を頭の片隅に追いやり目の前の寝顔を観察すると、見れば見るほどに美貌というか曲線美というかとにかくいろんなものから目が離せなくなる。
 寝苦しさを感じているのか若干眉間に皺が寄っているが、それすらも眼前の造形へ違った趣を与えている気がして……つまり口を開かなければ非の打ち所のない美しさがそこにはあった。

 私は食い入るようにその顔を凝視したまま、音を立てず自身の片手を持ち上げる。そして、

「…………、」

 おそるおそる手を伸ばし、人差し指の背で彼の下唇に触れた。

 建前は、ちょっとしたいたずらだった。
 けれど本音はあの夕焼け色の砂漠で彼から与えられた熱が忘れられなくて、胸の奥底で楔となっていて、手を伸ばしたくなってしまった。
 指の背には砂漠なのに瑞々しく柔らかい感触が跳ね返ってくる。羨望を超えて妬ましくさえ思えてしまう。

 もっと触れていたい。でもこれ以上弄ってしまえばせっかくお休み中の主人を起こしてしまう。
 だから名残惜しさに別れを告げるため、一旦指を離し、最後の最後にもう一度だけそこに触れようとして──、

「はぐ」
「────」

 本能なのか条件反射なのか、唇に触れる直前の私の手には彼の歯が突き立てられて。
 眠っているのに容赦ない激痛が走ると同時に、断末魔が砂漠の夜闇を引き裂いた。

 無論その後の私を待っていたのは、負傷レベルの歯形が刻まれたことに対する労りではなく、安眠を邪魔され激烈に不機嫌な主人からの懲罰だけだった。


 * * *


 時の神殿の間近にまでたどり着いた日の朝は砂漠全体の温度が幾分か下がっていた。
 空模様は数日前とさして変わらない。はずなのに、砂風が妙な冷たさを孕み熱砂を撫で上げていた。

 当人から伝えられた通り、私とギラヒム様は本軍から離れ二人きりで時の神殿に続く砂道を歩いていた。
 この辺りは本軍が向かった錬石場を筆頭に過去に拠点として使われた形跡もところどころに見られ、建造物の名残や遺跡が点在している。
 が、その分砂に埋もれた箇所も多く存在し、迂闊に砂丘を登れば前触れなしに足が沈んで抜け出せなくなるなんてこともある。

 私もふとした瞬間砂に足を取られ、主人に罵られつつ引っ張りあげられるという苦難を何度か乗り越えながら、砂世界を越えていた。

「こんなに砂まみれの景色の地図、頭に叩き込むなんて無謀じゃないですか……?」

 不安定な足元に最低限の注意を払いながら、私は手元の地図と目先の砂風景を見比べる。
 過去と現在で特に著しく変化を遂げてしまった錬石場周辺。この地で戦い抜くために過去の地形を頭に叩き込んでおけとの助言をくれたのは面倒見の良い大トカゲだった。
 部下の懊悩には一瞥もくれず、前を歩く主人はその様をせせら笑う。

「たしかに、お前の小さな脳みそは目先の景色を覚えるだけで容量不足になってしまうだろうね。砂に埋もれたが最後、二度と主人と顔を合わせられなくなるけれど」
「むー……」

 定期的にうめき声をあげる私を嘲りはするものの、彼も地形を覚えること自体に異論はないらしい。肩を竦め、悠揚迫らぬ足取りで砂の上を渡っていく。
 基本的にはその後ろに引っ付いて歩いているはずなのに、なんで私ばっかり砂に沈むんだろう。

 私は彼の背を憮然とした目つきで見遣り、ふとそれを逸らしてあるものに視線を移した。

「…………、」

 向かう先に燦然と佇んでいるのは、全貌が見て取れるほどにまで迫った石像──女神の紋章だった。
 数日前に遠景に浮かぶあの石像を見た時もかなりの規模だと見計らっていたが、こうして近づくと廃墟の一部とは思えない荘厳な様に圧倒されてしまう。

 やがて無意識に留まっていた視線を解放したのは、再び向けられた主人の低い声音だった。

「無駄な思考を無駄に巡らせてまた沈んだなら、次は置き去りにして行くよ」
「……すごく気を付けて歩いているので、そう簡単には沈みま、せへんッ!?」

 彼の軽口には即効性の言霊でも宿っているのか、鼻を鳴らして真っ直ぐに足を下ろした瞬間地面は呆気なく陥没し、私の右膝から下が砂に沈んだ。そして早速有言を実行し、ギラヒム様が私を引っ張り上げてくれることはもうなかった。
 ……私の顔を見た訳でもないのに、やはり考えていることはお見通しだったらしい。

 私は両手両足をばたつかせて何とか砂の沼から抜け出し、片足立ちで砂漠用の筒丈の長いブーツに侵入した砂を取り除く。

「……あれ」

 その時、視界の端に砂とは違う黒くてなだらかな山に似た何かが映り込み、私は目を凝らす。
 山は半分が砂に埋まり、砂丘と砂丘の間をずるずると這って移動しているようだった。
 数秒それを眺め、その正体に思い至った私は遠ざかってしまった主人の背を走って追いかける。

「マスターっ、あそこにモルドガットがいますよ」

 なんとか追いつき、彼の隣で指し示した黒い丘の正体は巨大なサソリの魔物、千年甲殻蟲モルドガットだった。
 半身を砂に埋め、砂の海を横断している最中のようだ。

「洞窟の中にしかいないと思ってましたけど、こんな砂漠のど真ん中にも出てくるんですね。……モルちゃん」
「……魔物に頭の弱そうな呼び名をつけるな」

 たった今適当に思いついた呼び名に冷ややかな視線を寄越されたが、自分では思いの外口に馴染んだのでそう呼ぶことにした。

 魔物にはさまざまな姿形をした種族がいるが、中でも慣れるまでに時間がかかったのがモルドガットを含む虫型の魔物たちだった。
 あのサイズとなれば最初は近寄ることすら憚られたけれど、お世話をしたり一緒に戦ったりしているうちに不思議と愛着が湧いてきてしまったのだった。

 熱砂の中を潜って移動しているモルドガットだが、たしか通常は洞窟や建物内と言った日差しが当たらない場所を好むはずだった。
 新しい餌でも狩りに出てきたのだろうか、と横目でその姿を観察していると、

「……あれ、砂から出てきましたよ、モルちゃん」

 砂埃を巻き上げながらもぞもぞと黒い頭が這い出て来て、獰猛な輝きを宿した一つ目が真上を向いた。
 さらにその巨躯が持つ長い尻尾と巨大なハサミは天に掲げられ、遠目に見てもモルドガットが何かに威嚇をしていると察する。
 虫型の子たちの危機察知能力は他の種族に比べてかなり高い。何か異変を感じ取ったのだろうか。

「マスター、モルちゃんの様子が──、」

 ──おかしい、と続くはずだった言葉は、頭を一直線に突き破るほどの轟音に刹那掻き消された。
 同時に視界は鮮烈な白光に呑み込まれ、一瞬にして辺り一帯が明転する。

 次に気づいた時には、私の体は砂界を見下ろす位置──空中にあって、主人の腕に粗雑に抱えられているということだけを辛うじて理解した。

「何が──ッ!?」

 問いかけた瞬間、質量を感じられるほど凄まじい音の圧力と光が襲いかかり、私と主人の身はそれに焼き切られてしまう前に空中から地上へと逃れる。
 目まぐるしく変わる光景を必死に捉えようと視線を巡らせた時、私は変わり果てたその姿を見つけてしまった。

「モルちゃん……!!」

 先ほどまで天に向かい威嚇をしていたはずのモルドガットがその身を焼かれ、黒煙を上げながらうずくまっていた。
 一見、炎に焼かれたようにも見えたが違う。あの身を貫いたのは、おそらく──。

「かみ、なり……!?」
「遅い。……あれと同じになりたくなければ大人しくしていろ」
「っ……!」

 私の呟きに正解だとは返さず低い声でギラヒム様が命じる。数瞬の後、砂界に雷鳴が轟き主従が立っていたはずの地面を光が穿った。

 瞬間移動を駆使し雷槌から逃れる主人に抱えられたまま、私は天上に視線を走らせる。
 やはり、雨が降っている訳でも無ければそこにあるのは空を覆う見慣れた雲海だけだ。あの雲海から雷が降り注いでいるようには見えない。

 何より雷鳴は執拗に獲物を追い立てながら、心臓を握るような鋭い殺気を突き刺してくる。
 雷自体に意志があるか、もしくは姿の見えない敵がこれを操っているのか。全く読めない状況に思考を巡らせながら、脳の片隅で薄く既視感を覚えて──。

「フッ──!」

 幾度めかの雷から逃れ砂地に着地した瞬間、短い呼気と共に主人が召喚した短刀を放った。
 無造作に散らしたわけではない。確証を持ち、一点に向けて四方から串刺すように狙い撃つ。
 ──が、その先端が貫いたのは砂漠の乾いた空気のみ。魔族を射抜く殺気は存在したままだ。

「チッ……」

 私の真上で舌打ちが弾け、既にそこから消え去った襲撃者の気配をギラヒム様が探る。彼が一度捉えた通り、たしかに短刀が狙う先には数秒前まで何かの気配があった。それは今もすぐ近くにある。

 ひっきりなしに落ちてくる雷を躱し、逃れながら、形勢の逆転を狙って主人が短刀による猛追をする。
 私も彼に身を預けたまま周囲に首を巡らせ、死角に現れたそいつの方へ振り向く。そのまま、

「そこ……っ!」

 咄嗟に銃口を突きつけ、魔力の弾丸を放つ。
 しかしそれも襲撃者の姿を捉えることはなく、砂上に散った。
 当たるどころか影すらも掴ませてくれないその正体に私が歯噛みし、それを数秒見下ろしていた主人が静かに唇を解く。

「リシャナ」
「はい!」
「今だけはワタシの美に目を瞑っていろ」
「はい! …………はい?」

 告げられた名前と命令に潔く返事をした。が、二言目に何を言われたのかさっぱり理解出来なくて、私は間近にある整った顔を見上げようとする。

 ──しかし問いかけるその直前、魔銃を握る手に淡い温もりが纏い、疑問の声が喉奥で潰えた。

「ッひ!?」

 それが他ならぬギラヒム様が私の手を銃ごと包み与えた温もりだと察し、次の瞬間上がったのは引き攣った奇声だった。
 と同時に、触れたその箇所から意思を持った温度の違う熱が流れ込んできて、私は両眼を見開く。

 単純に、温もりのみを与えられているというわけではない。いつだって、どんな時だって安堵を覚えるその感触に紛れ、私という存在に注がれる熱。否──魔力。
 彼の膨大な魔力を一気に注がれたなら、こんな安息は一時すらも訪れず私の体は弾け飛んでいただろう。だから四肢を巡り、流動して、熱と共に色づくそれは、彼が持つうちの微々たる量にすぎない。

 彼は包んでいた私の手ごと、一点に向けて銃身を導く。
 その様をただただ見つめることしか出来なかった私は、響き渡る雷鳴の中でも鮮明に脳を震わせた声音に耳を奪われた。

「撃て」

 最後に与えられたのは、一つの命令と包んだ手を握り直す感触。
 私が注ぐ何倍もの力を集約し──魔力の弾丸は、一直線に放たれた。
 その弾丸の行く末を見届ける前に、一筋の巨大な稲妻が主従を貫く。


「──っ、わ、」

 私がようやく地に足を下ろしたのは、雷の集中砲火が収まり主人の腕の中から解放された時だった。最後に主従を穿った雷からは間一髪逃れることが出来たらしい。
 手放された私は両足を砂に沈ませ、今にも飛び出しそうな心臓を必死に取り押さえる。これが昔本で読んだ臨死体験か、と妙な納得感を抱いてしまうくらいにいろんな意味で危機的な状況だった。

「し、し、しんじゃう、かと、思った……!!」
「戦場でふざけているならまた撒き餌にするよ」
「前回も今回も私は至って真面目です……! あと命令はわかりやすく端的にしてくださいッ!」
「ひれ伏せ」
「ははぁ……じゃないですッ! 何なんですかもう!!」

 方向性がおかしい会話を交わし、呼吸を整えながら辺りを見回すがあの凶猛な殺気の主は見当たらない。
 だが何かに狙われていることは間違いないはずだ。私は主人の傍らに立ち、前傾姿勢で息を詰める。

 そして、その小さな存在の弱々しい警戒は、突如突きつけられた鬼気迫る魔力に容易く押し潰されてしまう。

「亡霊どもがやけに騒がしいと思えば、地獄に片足突っ込んだネズミがいるたぁな?」
「……!!」

 奥歯を噛み、なんとかその圧力に膝が屈してしまわないよう堪えた私は、天上に現れた存在に総毛立つ。

 その姿は、過去に主従へ絶望を与えた存在と酷く似た姿をしていた。
 共通しているのは肌を覆う鱗と揺らめく尾、獣と同じ鋭利な爪。砂漠に映える黄の装束を纏い、敵意に満ちた双眸は空高くから狩るべき存在を見下ろす。

 主従にとって、悪夢と称するべき者──すなわち、龍。

「これはそのまま砂の底に埋めてやらなきゃならねぇようだな? なぁ……魔族ども」

 大精霊、三龍がうち一体の姿が、そこにはあった。