長編3-1_砂海道中記
──折れた牙が、天を舞った。
暗闇に跳ね上がったそれは、小さな塊でしかないのに鮮明な白の輝きを持っていて。
くるくる、くるくると、回って。
ちらちら、ちらちらと、赤を散らして。
他ならぬ敗北の証左だというのに、美しいとすら思えてしまって。
苦痛も、四肢の感覚も、心臓の音すらも消え去った最期の最後の瞬刻の中で。
思考だけはやけに明白として、尽きぬ問いを紡ぎ続けている。
何のための牙だったのか。
何のための爪だったのか。
何のための剣だったのか。
何のための命だったのか。
答える者はいない。
それ以前に、その問いを耳にする者すらいない。
今この存在に許されているのは、曖昧な戯言として言葉を吐き出すことのみ。
──その答えを教えて欲しいと誰かに願うこと、それのみだった。
*
「……不味い」
最初に感じたのは口内に張り付くザラついた触感だった。
その不快感は舌上だけでなく喉奥にまで侵食していて反射的な文句がこぼれる。さらにその感触は指や足裏にまで感じられ、眉間に深く皺が寄った。
しかし、ふとその中から甘い匂いが鼻孔をくすぐり意識が急速にそちら側へと引き寄せられる。例えるなら、無限の砂の世界にポツリと広がるオアシスを見つけた時のような。
手繰るように、誘われるように、私はゆっくりと瞼を開いて──、
「────え」
眼前、唇が触れそうな距離にまで迫っていた主人の顔を目の当たりにし、世界が動きを止めた。
「近……いッッたぁ!!!」
ストレートな不満を訴える前に、脳髄にまで至る衝撃が頭蓋骨を揺るがし苦鳴を上げる。そのまま木材で出来た床に這いつくばって悶絶していると、実行犯が悠然と髪を掻き上げながら鼻を鳴らした。
「せっかく主人自ら起こしてあげたというのに騒々しい目覚めだね。品のない」
「なん、なんで私、いきなり罵倒されてるんですか……? ていうか脳に穴空けられかけて品のある悶絶って不可能じゃないですか……?」
「部下の分際で主人を放って呑気に眠っていたからだ。このワタシの部下なら穴を空けられようが脳が凹もうが涼やかな顔をしていろ」
「起き抜けから無理難題がすぎます、マスター……」
横暴を極める主人に辟易としながらズキズキと痛む額を両手で抑えつける。どう考えても距離感がおかしい主人の迫り方に狂わされた心臓の鼓動を押しとどめ、私は重い頭を持ち上げた。
痛みが引いてくれば、次に認識するのはお尻を中心に全身へと伝わる規則的な振動だ。
体を小刻みに揺さぶられる感覚を抱きながら、私は自身がひどい荷車酔いをして眠っていたことを思い出す。
──場所は分厚い布の幕に覆われたほの暗い半屋内。つぎはいだ布と布の隙間からちらちらと見える薄黄色の風景は数日前から代わり映えがしない。
私と主人、ギラヒム様はここ──砂漠に遠征する際はお馴染みの、魔物が牽引する荷台の中でひたすらに砂漠への往路を過ごしていた。
「同じ景色ばっかり見たまま同じ場所にいて、時間の感覚が狂ってきてるんですけど……私、そんなに長く眠ってました?」
「ああ、呆れるほど長くね。二分も眠りこけていたよ」
「それ、半眠状態になってたかどうかすら怪しいじゃないですか……」
要するに、さっきの蛮行は退屈をこじらせた主人を放り一人うたた寝をしていた部下への制裁だったらしい。
文句を言いたい気持ちもないわけではなかったが、たしかに何もすることもなくただ砂風景を眺めておけというのも彼にとっては酷な話だった。
「……だからって部下の心臓止めていい理由にはなりませんけど」
「どうやら頭の反対側からも貫いてほしいらしい」
「嘘でございます」
ラネール地方へ踏み入って以来、見渡す限りの砂が支配する景色が延々と続いていた。主人の話によると、現在のラネールは砂漠化が大きく進行していて、ところどころで流砂が多発しているらしい。
今回の遠征も比較的砂漠化が進んでいない道を選んだ結果、わざわざラネールの南部へと迂回し進軍することとなった。
魔族長様が乗る荷台は通常に比べ大規模で頑丈な造りになっているものの、不安定な地面を走行する旅路は決して快適とは言えない。
加え、封印が解けたことにより天上の雲が薄まった分、その向こうにある太陽光が地上を容赦なく照らし際限なく気温が上がっている。
日差しが入らない分荷台内はまだマシだが、私がこの地に初めて訪れた時に比べるとさらに過酷な環境になったと言えるだろう。
おまけに今日は砂風が強く荷台の中にも埃が侵入しており、ギラヒム様がここまでご機嫌斜めなのもやむなしだった。
隅で小さくなり目だけで捉えた彼は、心の底から「砂漠・マジ・ウザイ」という顔をしている。
──と、その視線は不意に彼のものと交差した。
「……何だい、その目は」
「……マスターのご気分が早く穏やかになりますようにと思い」
「へぇ? ワタシの? 気分が? どう悪いと? ただでさえ繊細な肌に対する憂慮が尽きないというのに、部下の躾までしてあげている主人に追い打ちをかけるというんだねお前は。まったく嘆かわしい。永遠に眠りの淵を彷徨わせてあげても良かったんだよ?」
「ごめんなさいでしたどうか鎮まってくださいマスター」
虫の居所が悪いのか、少し口を開けば火が付いたように矢継ぎ早に罵られる。砂漠の熱と不快感がもたらす横暴は底無しだ。
予定ではあと三、四日で目的地に到着するはずだが、それまで私の体力は持つのだろうか。
最終的にはこの暑苦しい中体ごと羽交い絞めにされ技をかけられる。そしてうつ伏せに寝かせた私の背にお座りになられ、ギラヒム様はやっと怒りを鎮めてくださった。私何も悪いことしてないのに。
「……そうだ、お前に一ついいことを教えてあげよう」
「はい?」
背中の重みに耐えていると、部下の上で足を組み直した主人がふと音程を上げた声音で口を開いた。
この流れで聞かされるいいことは絶対良いことではないと培った経験則が不穏な気配を感じさせたが、私は彼の方へと首を捻る。
「これから向かう地には今でも古の時代の地下墓地が残っているんだよ」
「ちか、ぼち……?」
「過去の戦争で葬られた者たちがそこで眠っているのだが、どうやら当時の人間たちの手ではその魂を鎮めることが出来なかったようでね。至極当然ではあるが」
鷹揚と語りだした主人の話の方向性が読めず、私は背に重みを乗せたまま瞬きを繰り返す。
と、咀嚼しきれていない部下の脳を憐れむような流し目が向けられた。
「最近、その亡霊たちがやけに騒がしいらしくてね。……気を抜いていれば、お前のようなひ弱な魂は簡単に取り込まれてしまうかもしれない」
「……へ」
「お前が殊勝な態度を取っていたなら守ってあげるつもりではあったが……どうやら無駄な気遣いだったようだねぇ?」
大げさすぎるまでに盛大に落とされた主人のため息を聞き、ようやく私は彼の言葉の意図を理解し顔を青ざめさせる。が、ご機嫌を損ね且つ部下を貶めるためのスイッチが入った彼はもう止められない。
「無論、ワタシのように強い力を持った者には全くの無害だが、ただの人間は無抵抗に取り込まれてしまう可能性が高いからねぇ? ああ、今生の別れとなるかもしれないというのに可愛い部下を守ってあげられなくてワタシも口惜しいばかりだよ」
「い、今から挽回して、守っていただくというのは……!」
「聞いてあげるわけがないだろう。……正直、亡霊に辱めを受けるお前を見てみたい気持ちもあるしねぇ?」
「やっぱり最初からそのつもりだったんじゃないですか!! ていうかそろそろ降りてくださいよッ!!」
傲岸不遜な主人からの扱いに対し、私も暑さで気が立っていたのか普段より早く我慢の限界を迎える。
狭い荷台の中はもはや踏まれる者と踏みたい者の争いの場となってしまったのであった。
「……暴れンなら下りてからやれよなァ」
後方からの騒音に、荷台を引く魔獣の手綱を握る大トカゲが嘆息をこぼした。
* * *
──砂漠の夜は寒い。
それを知ったのは、数年前初めて砂漠に訪れた時だった。
空で読んだ本の知識を参考に暑さへの対策だけをしこの地に赴いた私は、日が沈むにつれ急激に温度を無くす砂漠の気候の洗礼を受けたのだった。
水分がなく乾燥しきった地では日中の熱をとどめる物質が存在せず、夜になればあっけなく太陽の恩恵は失われてしまうらしい。
故に砂漠へ出向く際は暑さと寒さ、その両方に備えなければならないと学び、私は今も丈の長い砂除け兼防寒用のローブを身に纏って歩いていた。
「──リザル」
「あ?」
小さな呼びかけが暗闇に落ち、焚き木の側で武器を研いでいた大トカゲが振り返る。
私は口元まですっぽり覆っていた布をずらして顔を見せ、その隣へと座った。
「お前、魔族長様のお世話はどーしたンだよ」
「してたんだけど……砂漠が寒すぎて猛烈にご機嫌斜めだったから身の危険を感じて逃げてきた」
「あァ、そりゃその方がいいわな。……あンだけ荷台の中で主従揃って暴れておいて夜まで騒がれたらこっちも堪ンねェしな」
「……大変ご迷惑をおかけしましたリザルさん。助けてくださって本当にありがとうございました」
リザル先輩がおっしゃる通り、昼間の荷台内で主人の不興を買った私は結局抵抗叶わぬまま肉体的制裁を受けることとなった。そして事が起こる前に、荷台を率いていたリザルに仲裁をしてもらい私は無事生還した次第であった。
保護者とも呼べる彼の対応に頭が上がらず私は身を縮こめることしか出来なかった。
「見えねェからっていかがわしいことすンなら魔族長様とその側近と言えど砂漠の真ン中に置き去りにしてくぞ」
「い、いかがわしいことばっかりしてるわけじゃないから……!」
「いかがわしいことは一回でもすンなよな。単純に気まずい」
今日だけでなく数日間に渡り主従の躾の声を漏れ聞かされているリザルの悪態もごもっともだ。
とはいえ一日の大半を半密室で過ごし、何もすることのない環境に飽きた主人の欲はまたすぐに溜まってしまうことだろう。無論、リザルもそれは諦めているようだ。
リザルの嘆息を最後に、私は乾いた風が運ぶ静かな時間に身を委ねた。
砂漠の旅路は体を動かさなくてもじりじりと体力を消耗してしまうため、本来ならば少しでも多く睡眠をとって体力を養っておくべきだ。
しかし火山の時と同様、戦地に向かう道のりで素直に寝付くことは難しかった。
リザルはもともと夜行性というのもあるが単純にあんまり寝なくても大丈夫な体質らしい。だから普段寝付けない時は自然と話し相手になってくれていた。
「────」
砂の匂いを嗅ぎながら視線を持ち上げれば、砂漠の空を真っ二つに分かつような黄色い光の柱が映り込む。
それは私たちが向かう先──ラネール地方の東部に位置する巨大な錬石場へと降り注いでいた。
魔族はそこで巫女を探し、勇者を迎え撃つこととなる。今回は何があっても確実に巫女を捕らえなければならないため、率いる魔物の数は火山の時の倍以上だった。
──だが、その一方で、
「……まだ教えてもらってないんだよね。ついた後、私とマスターがどこに向かうのか」
瞳の中に黄色に輝く光の柱を映したまま私は呟きを落とす。
拠点を発つ前、私はギラヒム様に告げられていた。
現地にたどり着いてから、主従は魔物の本軍と分かれ別の地へ向かうことになる──と。
その行先について主人に尋ねたが、ラネールに近づいたら話すと言われたきり私は何も教えられていなかった。
「そこらヘン、あの人が何考えてッかは今まで当たった試しがねェから、想像のしようがないな」
「……そうなんだよね」
疑問と不安は尽きないが、リザルが口にしたことが今の時点での全てだ。
私は両腕で足を抱えなおし、視線を焚き木へと移す。そのまま数秒の間を置き、再び唇を震わせた。
「……リザルってさ、」
「ンあ?」
「敗けたこと、ある? ……戦いに」
その唐突な問いかけに、大トカゲの返事がすぐに返ってくることはなかった。
彼は一度だけ黄色の視線を寄越した後、天上の雲を見上げながら口を開く。
「あるに決まってンだろ。何年生きてッと思ってンだ」
低い声音が冷たい砂の世界に響く。彼は何か別の光景を見ているように両眼を小さく歪め、続けた。
「敗けたこともバカみてェにあるし、死ンだ仲間も数えきれねェよ。……言っちまえや、今俺が生きてンのも運が良かったからだ」
「────」
平板な口調で語られた事実は彼のように長く生きている魔物にとって普遍的なものなのだろう。
それは同時に、人間の体をした私にも魔族の王の傍らに立っていた主人にも言えることだ。
口を噤んだままの私に対し、リザルは無感情な声色を保ち言葉を継いだ。
「……敗けて再戦の機会があるなンて、むしろ恵まれてる話だぞ」
「…………うん」
いとも容易く心の内を読まれ、私は膝を抱える手の力をわずかに強める。
火山での戦闘後、主従に何があったのか彼に直接伝えてはいないが、いつものごとく察されてしまっているのだろう。
「……前に話したことがあッケドよ」
おもむろに話し出したリザルに、今度は私が視線を向ける。少しだけ空けられた間に、火が弾ける乾いた音が響いた。
「一般、その他大勢の魔族の俺から見りゃお前ら主従の生き方のほうが特殊なンだよ。怖ェくらいにな」
「……リザルはすぐ怖いだの狂ってるだの言う」
「事実だろ。……別に、それを悪いとも思っちゃいねェしよ。今は」
そう付け加えられた言葉に、私は少しだけ目を見開く。リザルはそれを無視し、無機質な地面を見据えたまま続けた。
「フツーの魔族は何回敗けたとしても生きてりゃいいンだよ。それが一族の本懐なンだからよ」
「……うん」
「お前がそれでも納得いかねッてンなら。──絶対に死なずに爪立ててでも後悔が残る戦い方はすンな。面倒くせェこと悩む前に、それだけ考えてろ」
放り出すように告げられた言葉は淡黄色の海へと浮かび、消える。
その言葉の裏にある考えをすぐに読み取れてしまうまでには、彼とは長い付き合いとなっていた。
二人の間を一段と冷たい風が吹き抜け、砂漠の夜更けを知らせる。本格的に体も冷えてしまったため、そろそろ頃合いだろう。
遠くの砂山を眺めながら主人の機嫌が直っていることをぼんやりと祈っていると、不意にリザルが口を開いた。
「……俺ら魔族がもともと何から生まれたかッてよ、」
「……?」
それは先ほどまでとは違う、無感情を装うというよりも何かの感情を抑え込んだ声音だった。
私は何の言葉も発せないまま、傍らの大トカゲを見遣る。
「元のもとを辿れば、人間や亜人たちの負の感情から生まれたらしーぜ。今生きてる俺やお前はそンな因縁が絡ンでンのか知らねェケドな」
「──負の、感情」
何故彼がそんなことを話したのか、その表情からは何も読み取れない。
もしかすると、彼も今回の戦いに対し何か思うところがあるのかもしれない。けれどそれを問うことは、今の私に求められていないのだろう。
私は再び瞳の中に光の柱を映す。そして彼の言葉を反芻し、ただ一つ思う。
──世界にとってそんな存在である自分たちが持つ後悔や誇りとは、何なのだろうか、と。
* * *
それから数日間、特に旅程に乱れが生じることもなく砂漠をひた走り、魔族の一行は目的地の直前にまでたどり着いていた。
見渡す限りの砂の景色には次第に岩肌が目立ち始め、他の生き物たちの気配が感じられるようになってきた。この地に住み着く動物や亜人たちの生息域に入りつつあるのだろう。
私が小高い砂丘に腰を下ろしていたのは日没を迎える小一時間前だ。
本日の野営の準備はとっくに終わり、一人静かに砂海を眺めていた。──その時だった。
「──少し歩くよ、リシャナ」
「っひぃ!!?」
突如上から顔を覗き込まれ、しかもまた唇が触れそうな距離で言葉を注がれ素直な悲鳴が上がった。
部下の心臓に不必要なダメージだけを与え、言葉の意味を問われる前に彼──ギラヒム様は砂山を下り始める。私はあわててその背を追った。
「ま、マスター? 歩くって、もう日が暮れちゃいますけどどこ行くんですか?」
「行けばわかる。喚く前に脚の長さの差の分早く動け」
いらん事実をしれっと突きつけ、ギラヒム様は野営地とは逆方向に向かい歩き続ける。
彼の行動は普段から突拍子ないが、今回も例に漏れずわけがわからなかった。
夜の砂漠は視界が悪く、流砂に呑まれてしまう可能性もあるためあまり出歩かない方がいい。瞬間移動を使える主人には関係ないことではあるが、それでも今からどこに向かおうとしているのか検討もつかなかった。
やがて足を取られながら必死に砂を踏み越えていると、前を行く彼がふと立ち止まった。
「ああ……そうだね」
言いながら振り返り、とてもとても綺麗な笑みを見せつけられる。
数瞬魅入られ目を見張った部下に対し、その薄い唇は流麗に言葉を紡いだ。
「──人間の言葉で、“でぇと”とか言うんだったか? 特別に、それに連れて行ってあげるよ」
「………………はい?」
私の思考は、すべて吹っ飛んだ。