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ハルシネーション(series過去編if)



*過去編ifルート。5:Birthから分岐。
*描写注意
*救いがないのでご注意ください。




 ──産声が聞こえる。


 数日前。スカイロフトの歴史上、前代未聞の嵐の日。
 空の島を、風の化け物が蹂躙した。

 島民の誰もが予想していなかった竜巻の発生。建物の窓は軒並み割られ、木々のほとんどがなぎ倒され、収穫の時期を迎えるはずだった畑は滅茶苦茶に荒らされた。
 死者は出なかったものの怪我人の数は当初の想定をはるかに上回った。
 島内に残された爪痕が全て元通りになるにはかなりの時間がかかりそうだという。

 あの嵐が過ぎ去った後には何事もなかったかのような晴れの日が帰ってきた。
 気象学者により竜巻の原因が調査されたものの、手掛かりは全く掴めず異常気象という便利な言葉で片付けられたそうだ。
 一言で表すには、あまりにも凄惨な結末を迎えた出来事だったが。

 ……もっとも人々が被害に頭を悩ませている間、寄宿舎で寝たきりだったわたしは変わり果てた街並みを目にすることはほぼ無かった。

 今日もどこかから木材を打つ軽快な音が聞こえてくる。夢うつつに窓の外の音を聞きながらベッドに寝転がる日々はしばらく続いていた。


 ──あの巨大な竜巻に引き摺り込まれそうになった瞬間、せんせいが伸ばしてくれた手をつかんで……わたしは再び空へ還った。

 安全な場所に戻るまで執拗に風の化け物に襲われ多少の怪我は負ったものの、わたしもせんせいも五体満足で無事帰還することが出来た。
 そのはずなのにわたしが今もなお寄宿舎のベッドから動けずにいるのは、あの日を境に原因不明の高熱に浮かされていたからだった。


「……リシャナ」

 半覚醒状態の頭を控えめなノック音と声が揺り起こした。ひどく緩慢な動きで上半身だけを起こすと、同時に扉がゆっくりと開かれる。
 入ってきたのは温かな湯気を吐き出す食事を運んできたせんせいだった。

「昼食。ここに置くぞ」
「……ありがとう」

 せんせいにお礼を言ったわたしの声は普段よりやや掠れていた。
 せんせいは部屋に一つだけある机に粥やスープといった食べやすそうな食事が並ぶ盆を置き、わたしはその手に先ほど測ったばかりの体温計を手渡す。

「……下がらないな」

 せんせいの憂う表情に胸の内が燻る。
 わたしの身勝手が彼を危険に晒し命まで救われた。だというのに、今でもわたしは彼を悩ませてしまっている。

 しかし身体は胸の蟠りに反して、ずっと水中にいるような息苦しさを訴え続けていた。
 習慣的に体温計を挿し込んでも結果はいつも同じだ。医者の先生に苦い顔で原因がわからないと伝えられた時は、失意とは別にどこかわかりきっていたような感覚を覚えたほどだ。
 ……この苦しみはきっと薬では治らない。
 だからこそ献身的にわたしの様子を見てくれるせんせいが、哀しかった。

「心配しすぎだよ、せんせい」

 辛うじてつくった笑顔をせんせいにむける。
 彼は体調への懸念に加え……あの日わたしを手放しかけた自責の念に苛まれている。
 せっかくつくった笑顔にも真面目な顔を返してくるのがその証拠だ。

「これだけ長い間熱が下がらないんだ。心配もする」
「少し怠いだけだし、授業出ずに眠ってられるから逆にラッキーだよ」
「……バカなこと考えるくらいの余裕があるのは、救いではあるか」

 クールを気取っているようで焦りが隠せていないせんせいは、優しすぎる。

 だから甘えたくなってしまう。
 ──わたしにはもう、彼に甘える権利など無いというのに。

 チリチリと痛みを訴える脳を無視しながら、すぐそばにあるせんせいの温かな手に触れる。接した部分にだけ生まれる熱は、ずっと触れていたいと思うほど……儚い温かさだった。

「大丈夫だから、せんせい」
「何が、」
「もう、落ちたりしない」

 せんせいが口を噤む。
 彼の表情に浮かぶのは驚きと、それ以上の……疑念だ。

 彼に嘘をついているつもりはない。
 あの竜巻を目の当たりにした瞬間、自分で足を向けたにも関わらず底知れない恐怖を感じたのは事実だった。
 わたしを求める誰かに呼ばれるまま……その人の手に触れれば心ごと引き摺り込まれてしまう、確信めいた恐ろしさ。

 ただ紡ぐ言葉とは裏腹に、耳に入る自身の声音には嘘をついているような白々しさも見え隠れしていた。
 自分でもそれは理解していた。この場で明るく振る舞うことの虚しさと……いずれまたあれに飲まれてしまう予感があるから。


 じりじり、じりじりと。
 這い寄るようにその時は、来ている。
 わたしを犯す熱は、かえるべき場所から目を背けた罰なのかもしれない。


 笑顔はもう、つくれなかった。


 *


 ──産声が聞こえる。
 声を出さねば呼吸が出来ず、死んでしまう。


 島の復興が進んでいくにつれ、ようやく騎士学校の授業も再開し始めた。
 その頃には下がらないと思われていた熱も徐々に落ち着き始め、少し遅れながらもわたしは学校へ復帰することとなった。

 騎士学校の教室へ久々に足を踏み入れた時には、以前のような気怠い日常が戻ってきたという感覚に襲われた。きっとこれは、他の同級生たちと何ら変わりない普遍的な感慨だっただろう。

 ──しかしスカイロフトそのものは、あの嵐の日から“平和”を取り戻せないままでいた。

 市民を最も悩ませたのは、島に居付く魔物たちの存在だ。
 以前は夜にのみ島内を闊歩していた魔物が、昼間にも姿を現すようになったのだ。
 島民を守るため警備はより一層強化され、普段ならば人で賑わう昼の大通りは緊張感を孕んだ目をした衛兵が行き交うのみとなった。

 鬱々とした空気がスカイロフトを覆い、大きな被害こそ未だ出ていないものの人々の不安の色は日に日に色濃くなっていく。
 わたしも迂闊に外へ出るなよとせんせいに釘を刺されたが、熱が下がっても変わらず付き纏い続ける倦怠感が邪魔をしてそんな余裕は持てなかった。

 ──もっとも、倦怠感に襲われるのは昼間のみ。
 夜になると鉛のようだった身体は何事もなかったかのように軽くなる。
 むしろ認めたくはないが、活発にすらなってしまっていた。

 それは街に増えていく魔物たちと同調しているみたいに思えて……わたしは毎夜もう一人の自分に抗いながら無理矢理眠っていた。

 半睡半醒の状態を彷徨う間に意識はプツリと切れ、気づけば朝になる。
 奇妙な日々は頑なにわたしへ日常を返さないと言っているようで……熱が引いてきたことすら、何かの前兆だと思えた。


「…………ん、」

 今日も陽が昇り朝が来た。
 わたしは軋む体を起こし、しばらくベッドの上で無の時間を過ごす。

 この頃、わたしにとってある憂鬱な習慣が出来ていた。

 ベッドに乗ったまま横目で窓を見つめる。
 内心は目を背けたい気持ちで満たされていた。
 それでもわたしは何かに導かれるようにずりずりと体を引きずって……“確認”をしてしまう。


「……っ」

 ……今日も、ある。
 以前まで夜の脱走の際出入り口として使っていた、わたしのもう一つの扉──部屋に一つだけある窓。
 その外側の、ガラスの真ん中から窓枠の底辺にかけて。

 ある朝を境にそこは……毎日何かの血が跳ねていて、地に向かい赤い筋を垂らしていた。

 最初は寝ぼけた自分が傷でも創ったのか、もしくは夜目の効かない動物が壁に突撃でもしたのかと思ったが、それにあたる怪我や死体はどこを探しても見当たらなかった。
 思い描いた理由が当てはまらないのであれば……第三者による行為の可能性が浮上してくる。
 しかし昼間より冴えているはずの聴覚が、この血痕をつけられているであろう夜中に不審な物音を拾うことはなかった。

 血は時間が経てば黒ずんだ赤に変色していくと聞いたことがあるが……目の前のそれはいつも鮮やかな朱色をしている。

 これが何の血なのかは、わからない。
 近づけば血液特有の嫌悪感を誘う鉄の匂いが鼻をかすめ、胃液が逆流する感覚に襲われる。

「う……くっ」

 咄嗟に口元を手で抑え付け跪く。
 せり上がる嘔気を止めようと歯を食いしばると反射的に涙が浮かび、目に溜まったそれは不快な生温さを保ったまま頬を伝った。

 わたしはしばらく身を縮こませたまま呼吸を整える。
 深く、長く息を吸って肺と胃を抑えつけると激しく脈打つ血管は徐々に酸素を得ながら落ち着いていく。
 何とか立ち上がれるようになった後は、何度も拭いそれを消し去った。
 赤色はすぐに水に溶けてなくなったが、それでも消しきれない何かがあるようで何度も何度も手を動かす。

 全てを終えた後のわたしの手は、いつも真っ黒な汚れに塗れていた。


 *


 ──産声が聞こえる。
 生まれたのは、誰だ。


 不安定な心身を抱えながらも登校をし続け、それでも多少の慣れとともに体調の回復も見られてきた。

 ある朝のことだった。

 今日もいつも通り、教室にたどり着いた後は何を考える訳でなく自分の席に突っ伏したまま、つかの間の無の時間を過ごすはずだった。

「……?」

 わたしは教室に入る直前から、その中を覆う正体不明の物々しい空気を感じ取っていた。
 違和感を覚えたまま窓際の自席へ向かい、数人単位で集まっている同級生の顔を横目で窺う。小声で話している会話の内容は途切れ途切れにしか聞き取れないが、その表情は皆一様に曇っている。
 ……何かあったのだろうか。気になりはしたが直接話を聞きに行く気力は残念ながら今のわたしには無い。

 本来ならばわたしの関心はそこで尽きていた。
 しかし時間が経ち教室の生徒が増えるにつれ、遠くで響く音楽のようだった言葉たちが意味を持ったものに変わっていく。
 そして確信に至る一言が、ついにわたしの耳へ届いた。


「──のロフトバードが、殺されてたんだって」


 思わず閉じていた両眼を見開き、声の主の方へ振り返る。男女数人の輪。その中にたった今聞いたロフトバードの持ち主の姿はなかった。
 教室中を見回しても結果は同じだ。けれど耳が拾ったウワサはパズルのピースのように組み合わさっていく。

 ──明け方。その同級生の父親が騎士の詰め所へ向かう際、死体は発見されたらしい。
 一家がロフトバードの休息場所としていた小屋の入り口が無残にも破壊されており、その中で絶命していた守護鳥の喉は鋭利な刃物で裂かれていたという。

 ウワサが詳細に出回っているのは発見者でもある父親が衛兵だったからだろう。
 凶悪な嵐に苛まれ街に魔物が増え始めた上に、直接的に生命が脅かされる衝撃的な事件が起きたとなればすぐさま騎士の間で共有されたはずだ。
 見習いも多いとはいえ数多くの騎士が出入りする学校内に話が回るのは当然の流れだった。


 重い空気に包まれた教室は、生徒が揃いせんせいが号令をかけた後も変わらなかった。
 むしろ殺されたロフトバードの持ち主が最後まで姿を見せなかったこと、そしてせんせいの口から事件の報告と注意喚起がされたことにより現実味を帯びていった。

 ……わたしは当事者でもなければ、ロフトバードを所有していないため事件に関わりすらない。
 しかし握った手のひらにはじわりと汗が滲み、内側から殴られているかのようにこめかみが痛んでいた。

 脳裏に過ぎるのは、何度拭いても染められるあの赤色。
 関係ないと自身に言い聞かせても、ずっと指先は震えたままだった。


 *


 ──産声が聞こえる。
 泣き声は悲鳴にも似ていた。
 子をあやす親はどこにもいない。


 その日を境に島内の警戒の色は急激に濃く変わっていった。平和の楽園、なんて言葉はもはや誰もが忘れてしまったことだろう。

 人々の不安を嗅ぎ分けたかのように、島内に現れる魔物の数も増えていく。
 衛兵はもちろん騎士学校の上級生ですら昼夜問わず警備に駆り出されるようになった。

 ──そしてそれすら嘲笑うかのように、ロフトバードの死体はまたもや発見された。
 今度は現役の衛兵が持ち主で、鳥は市街地を外れた茂みで捨てられるように息絶えていたらしい。

 女神に祝福された証。人間の翼となる守護鳥。
 その命が二度も奪われ人々は味わったことのない恐れを抱きながら生活をすることを余儀なくされた。

 一番の恐怖はその脅威がいつ人に襲いかかるか、ということだった。


「──戸締り、出来てるな」
「うん。後は寝るだけ」
「よし。……確認終了、と」

 せんせいは手にした管理簿に何かを記入し、疲労感が滲んだ息を静かにこぼした。

 寄宿舎の管理はもともと教師たちの仕事だったが、最近はより一層負担の重いものとなってしまったのだろう。
 特に騎士学校の生徒はロフトバードを外に出す機会も多い。普段ならば空に放していても何の問題もないが、今は目を離すこと自体にリスクが伴う。
 人間とロフトバードの保護、その二つが課せられた教師たちの苦労は生徒側のわたしですら想像に難くない。

「大変だね、せんせい」
「仕方のないことだ。何かが起きてからでは取り返しがつかないからな」

 わたしはベッドに腰掛けたまま、せんせいの横顔を盗み見る。
 「取り返しがつかない」と口にしたせんせいの表情は隠しきれない不安の影を宿している。
 そして彼の言葉の響きに含まれた重みも理解してしまう。

 わたしと、おそらくせんせいも。奥深くで猜疑心を抱いている。
 もしかしたらもう……取り返しはつかなくなっているんじゃないのか、と。


 不意に、見つめていたはずのせんせいがこちらに振り向き視線が交じった。

「……不安か?」

 ぼんやりと考えに耽っていたわたしを、せんせいが心配げに覗き込んできた。
 不意に押し黙ったからそう見えてしまったのか……あるいは自覚していないだけでわたしも見えざる恐怖心を抱えているのか。

 いずれにせよ、わたしは首を横に振り小さく笑いかける。

「大丈夫だよ。ほら、わたしにはロフトバードいないし。それにせんせいが毎日見回りしてくれてるしね?」
「……お前が言うと大丈夫だと聞こえないのが気になるが」
「相変わらずわたしに信用ないなぁ、せんせいは」

 わたしが口を尖らせると、せんせいが呆れながらも穏やかに口元を緩めた。
 久しぶりに見た、せんせいの笑顔だ。
 束の間互いに笑い合うと胸の奥につかえていた蟠りが軽くなった気がした。

 せんせいはそのまま、空いた片手でわたしの頭を柔らかく撫でる。

「……とは言え過度に不安がるのも良くないからな。幸いこの寄宿舎は夜から朝にかけても衛兵による見回りが行われている。スカイロフトの中で最も安全と言って良いくらいだ」

「──そう、だね」

 夜から朝。衛兵による見回り。
 ……せんせいの言葉が断片的に脳へ響き、わたしは言葉を詰まらせた。

 わずかな間だったはずなのに、不自然に途切れた返答に対しせんせいが怪訝な目を向け、わたしは慌てて取り繕う。

「そ、そこまで騎士学校の警備が厳しくなってるって知らなかった。これじゃもう前みたいな脱走は出来ないね!」
「…………」

 せんせいの返事はない。
 さっきまで自然に笑えていたはずなのに、今返すことが出来るのは抱いた疑念を必死に誤魔化そうとする乾いた笑みだけだった。

 *

 せんせいとおやすみの挨拶を交わして、彼が出て行った扉を静かに閉める。
 扉に置いたままの手をするりと下へ滑らすと冷えた木材の感触が指に伝った。自身の指先を見つめながら、わたしはせんせいの言葉を反芻する。

 ……寄宿舎は夜から朝にかけても見回りがされている。
 ならば何故、あの血の跡はわたし以外の誰にも見られておらず犯人の足取りも見つからないのだろう。

 体を支配する嫌な胸騒ぎのせいで、頭はいつも以上に冴えてしまっている。おそらくベッドに入って瞼を閉じても寝付くことは出来ないだろう。
 ──だから、知るなら今しかない。

 わたしは一つ決断をした。
 今日は眠らないまま窓を見張っておくことを。
 毎朝見せつけられるあの血が何なのか、知ることを。

 今まで出来なかったのは怖かったからだ。
 もし夜通し起きていたとして、永遠に物音がせず不謹慎な来訪者も現れなかったら……その意味するところを考えたくなかった。
 しかしいつまでも見えぬ恐怖に怯えたままでいられるほどわたしの精神は強くない。
 ……誰かが夜な夜なやってきて、血をべたりとつけ悪戯に去っていく。嫌な気分にはかわりないがそれが一番救いのある結末だ。

 わたしは一度だけ窓に近づいてそこに何の異常もないことを確認する。それから部屋の灯りを落とし、ゆっくりとベッドに乗った。


「────」

 膝を抱えながらじっと暗闇に視線を溶かす。
 時間の感覚が無くなるのは思いの外すぐのことだった。

 月明かりに薄く照らされた部屋をじっと見つめながら夢想するのは……あの嵐の日のことだ。

『──リシャナ』

 あの日、わたしを呼んだ声。
 空に帰って以来聞こえなくなっていたけれど、あの声の主はどんな人で、何故わたしを呼んでいたのだろう。

 記憶の中にある声質は低く、おそらく男性のものだ。名前を呼ばれただけで安心感を抱く感覚はせんせいのものと似ている。
 ……違うのは、あの声にわたしを従おうとさせる明確な意志があるということだ。それでもその意志に拒絶や恐怖を抱いたりはしない。

 あの声に呼ばれるままスカイロフトから落ちていたなら、わたしは。
 ……怖かったはずなのに、その空想にまるで夢物語を描くような心地よさを感じてしまうのは何故なのだろう。

『リシャナ』

 会ってみたいと思うのは……何故なのだろう。


 *


「朝……」

 招かれざる来訪者を待ち続けて数時間。ようやく窓の外の世界にうっすらと赤みがかかり、雲の向こうから太陽を迎えようとしている。

 思考を巡らせている間はぼんやりとしていたものの、生き物の存在を察知するための感覚は完全に眠っていなかったはずだ。
 しかし昨夜部屋の灯りを消す前から今まで、不審な物音は何も聞こえていない。ベッドから見る限り窓には何の違和感もない。

 わたしは脈打つ心臓を抑えながらゆっくりと立ち上がり……窓に近づく。

「…………」

 一歩、また一歩と足を進めるとガラスや木の枠の細かな箇所まで見えてくる。未だに赤い物質は見当たらない。

 ……何も、ついていない?
 自身を脅かす存在の気配がないことに懐疑的になりながらも、わずかに気が抜け自然と視線が下りる。

 そのままわたしは窓の外を──見た。


「──!!」

 恐怖で喉笛は潰れ、悲鳴すらあげることが出来なかった。

 窓を越えた、真下の地面。
 そこにはぬらぬらと濁った光を反射させる赤黒い血溜まりと、
 液体を吸い上げて変色しきった夥しい量の鳥の羽が、在った。


 *


  ──産声が聞こえる。
 ずっと、泣いている。


 その日の夜。わたしはアウールせんせいの部屋で介抱されていた。

 ──日が昇った後の記憶は曖昧だ。
 朝教室に姿を見せなかったわたしは、自室で倒れていたところをせんせいに発見されすぐ医務室に運ばれたらしい。
 時間をおかずわたしは目覚めたものの、部屋に戻ることを青ざめた顔で拒絶したそうだ。
 かわりにせんせいの部屋に連れてくると錯乱状態はようやく治まりそのまま夕方まで眠っていた……ということだった。
 わたしが憶えている光景はいずれも途切れ途切れだ。

 せんせいが数回検温をしてくれたが以前のような熱は出ていなかった。おそらく純粋な寝不足も祟ったのだろう。
 今ではもう何事もなかったかのように体調に別状はなかった。

 そして、今朝見たものがどうなったのかはわからない。
 けれど周りの様子を窺う限り、あの血溜まりは島の誰にも目撃されていないようだ。
 あれは……わたしだけにしか見えていない幻覚だったのだろうか。もはやそれを確かめる気にはなれなかった。

「昨日、眠れなかったのか?」
「……うん、ちょっとね」

 せんせいはベッドに腰掛けるわたしを訝しげな視線で見つめる。
 前までならそこで夜の脱走を疑われたが、わたしの最近の様子に鑑みてその可能性は持たれなかったみたいだ。

 かと言って何があったのか伝えることは出来ない。犯人がいるならともかく、全てわたしが見た幻という可能性すら出てきてしまったから。……それに、せんせいにこれ以上の心配はかけさせたくない。

 見つめられても頑なに口を開こうとしないわたしに対し、せんせいは少し考え込むように腕を組んでいた。が、ふと何かを思いついたように立ち上がった。

「せんせい?」
「待ってろ」

 一言だけ残してせんせいは部屋を出て行く。
 何事かと驚いていたのも束の間、隣室であるわたしの部屋の扉を開く音がして、またすぐ扉の開閉音と共にせんせいが戻ってきた。
 その手の中にあったのは、わたしがベッドで使っているタオルケットだった。

「ベッド、使え」
「…………え、せんせいまさか、」
「言っておくがお前が考えていることでは断固としてない。だからその顔をやめろ」

 そうだろうとは思ったけど先手を打たれてしまった。こういう時くらい冗談を聞いてくれたらいいのに。……二割くらいは素だったけど。
 気を取り直すようにせんせいは一つ咳払いをする。

「私はソファーで寝る。お前は何も考えず横になっていい。……一人で眠るよりはマシだろう」

 目を見開いたわたしの頭に大きな手のひらが乗せられた。その手に諭されるように、わたしはゆっくりと横になる。
 ベッドに入るのも布団を被るのも緊張で変な汗をかいたけれど、不思議な安心感があった。そしてせんせいはその隣に座り、寝転んだわたしの頭を撫でてくれた。

「……なんか、恥ずかしい」
「昔はよくやっていただろ」
「そうだけど……」

 それ以上は撫でるのをやめてほしくなくて、口に出来なかった。
 集まった顔の熱はせんせいの手の温もりに身を委ねているうちに治まっていき、わたしは彼が口にした“昔”を想いながら穏やかに瞼を閉じる。

「ねぇ、せんせい」
「なんだ」
「わたしがまだ小さい時……女神像の下の岩場で倒れてて騒ぎになった事件、覚えてる?」

 ぴくりとせんせいの手が動きを止めた。
 しかし一拍おいて彼の手は再びわたしの頭を柔らかく撫でる。

「覚えてるよ。島中……は言い過ぎだが、当時夜の見回りに参加していた人間は皆覚えているだろう。大事件だったからな」
「そっか、せんせいがまだ騎士学校の上級生だった頃だっけ。……大事件は言い過ぎじゃない?」
「言い過ぎなものか。今ほど物騒ではなかったとはいえ小さな子どもが一人で倒れていたのだから。見回り当番の者はこっぴどく叱られていた」
「あー……それはごめんなさいだねぇ……」

 あれはわたしが騎士学校に通う以前のことだった。
 ある明け方。わたしはどういうわけか女神像の島で一人倒れていて、偶然朝の習慣でお祈りに来ていたお年寄りに発見されたらしい。
 魔物に襲われたのではと大騒ぎになったものの、結果大きな怪我も無かったためわたしと寄宿舎への注意喚起だけで騒動はおさまった。
 幼い自身が起こした事件ではあるが、当時の記憶はかなり朧気だ。

 そして今では倒れていた理由もわかる。
 いつも通り夜の散歩と称し脱走したわたしの向かった先が運悪く女神像の近くで、聖域の空気に耐えられなくなりその場で倒れてしまったのだろう。あの頃は自分が何なのか、知らなかったから。

「で、その後しばらく引きこもりになって」
「……ひどい時は部屋からも出ようとしなかったらしいな。寄宿舎長が愚痴っていた」
「わー……それも知ってたんだ、せんせい」
「たまたまだよ」

 鼻を鳴らすわたしにせんせいが苦笑を返した。

 事件以来、わたしはしばらく女神像がトラウマになっていた。
 というより外に出るのがこわくなってしまったのだ。
 大袈裟かもしれないが、幼い頃は狭いはずの世界がそれだけ大きく見えていた。

 その後、いつのまにかわたしの周りから人が離れていった。
 人がいなくなり取り残された自身に違和感と疑問を抱いて……わたしはわたしが何なのか、知った。


「でも……その後せんせいがわたしの後見人になった」
「────」

 自分が何なのか理解して、静かに閉じていった世界の中で。
 味方だと、彼は手を伸ばしてくれた。

「こわくて出られなかった外の世界に、すこしずつ出られるようになった」

 今でも危険はたくさんあるけれど、
 嫌な思いをすることもあるけれど、
 それでも見られる空が広くなったのは、せんせいのおかげだ。

 ──そう思えば思うほどに、大切な恩人への罪の意識はわたしを蝕んでいく。
 だから……これで最後にしないといけない。


「せんせい」

 瞼を閉じたまま彼の名を呼ぶ。
 自身のその行為にすら、離れがたい安心感をおぼえた。

「助けてくれて、ありがとう」

「────、」

 頭を撫でていた手がぴたりと止まる。
 彼の表情は瞼を開かずとも描くことが出来た。だからそのまま……暗い世界に優しい彼を視たまま、わたしは続ける。

「……あの嵐の日だけじゃない。わたしを迎えに来てくれてから、ずっと」

 わたしの味方だと言ってくれた時から、ずっと。

「ずっと、ありがとう」

 ゆっくりと微睡み、落ちていく感覚。
 せんせいの手の熱がわたしを夢の中へ引きずっていく。今日は幸せな夢を見られるだろう。

 もう堕ちてしまおう。
 きっとぐっすり眠れる。

 だからわたしは、最後にどうしても伝えなければならない言葉だけ……溶けかけた自我を保って、口にする。



「──ごめんなさい」



 静寂が訪れた部屋に規則正しい寝息だけが響く。
 彼は少女の頭からゆっくりと手を離し、
 長く息を吐き出しながら項垂れた。


 *


 ──産声が聞こえる。
 呼吸のための慟哭ではない。
 何かを訴えるための、言葉としての叫び。


 目を覚ました時にはもうアウールせんせいはどこかへ行ってしまっていた。
 思いの外ぐっすりと眠れたおかげで頭はいつも以上に冴えている。ずっと胸の中に沈んでいた澱が消えていて、いつも以上に深く息を吸うことが出来た。

 日課となってしまった窓の外の確認も、せんせいの部屋だから覗く必要はないと気づきそれからは気にならなくなった。
 おそらく今夜わたしの部屋に戻ったとしても、再び悩むことはないだろうというほどに晴々とした感覚だった。

 悪夢はようやく終わったのだ。
 わたしはそれだけ思った。


 ──それから数日。
 空の島を覆う不穏な空気は相変わらず晴れないままだった。
 しかし対するわたしの足取りはとても軽い。
 熱がぶり返すことも悪夢を見ることもなくなり、足枷のようだった倦怠感は思い出せなくなるほどに消え失せていた。

 今日も一日の授業が全て終わった。
 学校での時間は相変わらず退屈ではあったけれど軽くなった体で通う分には苦労しない。

 せんせいが見つからず暇を持て余し、校内を行き先もなくふらついていると、夕陽が淡く差し込んだ空っぽの教室に人影が見えた。

「ホーネル先生?」
「ん……ああ、リシャナか」

 そこにいたのは探している人物の兄弟であるホーネル先生だった。
 先生は教室で一人、何かの資材に囲まれ作業をしている最中だった。

 近づいて見てみると、机上だけでなく足元にも布やら木材やらの様々な資材が散乱している。
 一見乱雑に見えるそれらにはところどころに正三角形と天に向かう鳥を象った紋が刻まれており、何らかの祭か儀式のための準備だとわかった。

「これ、どうしたの?」
「明日の準備だよ」
「明日って……なんかあったっけ?」
「あれ、知らなかったか。誕生祭さ」

 作業をしながらホーネル先生はその詳細を話してくれた。
 どうやら騎士の家系のお嫁さんが身篭った子が明日生まれる予定らしい。

 スカイロフトでは子が生まれる際、誕生祭という儀式がある。子どもが女神の寵愛を受け、健やかに育つように祈るためのお祭りだ。
 昔は生まれた子へ女神からロフトバードを授かるための儀式だったそうだが、今では形式ばったものではなく街全体でお祝いをするというささやかなお祭りとなっている。

「こんな状況だから中止も考えたみたいだけど、警備の衛兵が出せそうだし小規模開催なら大丈夫だろうってことですぐ準備することになったんだ」
「そうなんだ。……お嫁さん、喜んでた?」
「うん、生まれてくる子にとっても一回きりの祭だからね」

 ホーネル先生が手にしたのは縫合が済み几帳面に折り畳まれた衣装だった。赤子用のとても小さな作りで出来ており、よく見ると細部にまで金色の糸による刺繍が施されていた。それを纏う子が儀式の主賓なのだと一目でわかる。

 言わば女神に祝福を受ける者のための証だ。
 記憶にないものの、恐らくわたしは袖を通したことがないであろうその式服をじっと眺める。

 差し込んでくる陽の光をキラキラと反射する金色に魅入られながら……わたしはその衣に身を包んだ赤子と母親、そして祝うように翼を大きく広げる守護鳥を思い浮かべ、ゆっくり瞼を下ろす。

「……生まれてくる子は、どういうふうに生きるんだろう」

 答えを求めることのなかった呟きにホーネル先生の手が止まった。
 少しの沈黙を置き、ふと口元を緩めた先生がわたしの頭に柔らかく手を乗せる。

「きっと……その子が決めるべきことなんだろうね」

 ──羨ましいと、素直に思った。
 無い物ねだりだとわかっていても、わたしには与えられることのない選択肢だったから。

 かわりにと言うように、頭を撫でる手の感触へ少しだけ身を委ねる。似てないところもたくさんある双子だけれど……その手の温かさはとてもよく似ていた。


「先生、わたしも準備手伝う」
「え? 嬉しいけど……リシャナ、体調は大丈夫なのかい?」
「うん、最近はすこぶる元気だから」

 ホーネル先生に向けて、小さくはにかむ。
 やっと笑顔を上手くつくれたと自分でも納得出来て、それだけのことにわたしはとても安堵をした。


 *


 ──産声が聞こえる。
 ずっと泣いている。
 ずっとずっと泣いて、鳴いて、啼いて、莫いて、哭いて、亡いて、失いて、号いて、無いて、凪いて、无いて、薙いて、罔いて、泣いて、泣いている。


 翌朝。誕生祭の日。
 結局昨日は作業の終わりまでホーネル先生に付き添って、その成り行きで祭りの間もお手伝いをすることにした。

 麻袋に入った大きな荷物を持って街の中を歩いていると、小規模開催と聞いてはいたものの普段より多くの人で賑わっていた。
 皆ここ最近不安や警戒の感情に縛られたままだったから、束の間のおめでたいお祭りを楽しみたいのだろう。

 空は今日も快晴だ。
 わたしは天気と同じく澄んだ心地で人々の間を潜り抜けながら、真っ黒に汚れた手で荷物を運ぶ。
 祭りの陽気に包まれて、わたしへ意識を向ける者は誰一人としていなかった。

 しばらく歩くと、市民の活気に溢れる住宅地を抜けて人気のない外れに出た。
 そのまま進み続けると明るい喧騒は遠い世界のものになり、いつのまにか耳に届くのは空の島を撫でる柔らかな風の音だけとなった。


「……ふう」

 じんわりと額に汗が浮かび始めた頃、ようやくわたしは目的地に到着にした。

 目の前にあるのは、巨大な女神像だ。
 儀式の本番はここで行う。昨日のうちに用意されていたのか敷地内には祭事用の装飾が施されていた。今は人がいないため、色鮮やかで豪勢な祭具たちがかえってこの場の寂しさを助長させている。

 わたしは一度地面に置いてしまった荷物を抱え直し、女神像の裏手に回った。そこには草木に覆われた獣道が伸びており、わたしは枝を踏みしめながら滑らないよう慎重に下っていく。
 数分経ちたどり着いたのは、女神像のちょうど真下にある大きな空洞だった。自然が作り出した空間には不揃いな穴がいくつか空いており、壁には蔦が絡まりあっている。

「……さて」

 陽の当たらない最奥。
 そこに黒い石や薄汚れた木箱が堆く積み上げられていた。静かに佇むそれは賽の河原の石山のようにも見える。

 わたしは持っていた麻袋をドサリとその脇に置き、最後の準備を行う。
 それを並べているうちに、ここまで集めるのは大変だったなぁと今までの苦労と達成感が込み上げてきた。

「よし」

 小一時間で作業は終わりを迎えて、文字通り肩の荷が下りた。うーんと伸びをして、あとはお祭りの始まりを待つだけだと解放感を噛みしめる。


 ふとわたしは振り返り、澄み渡った空を眺める。
 ……刹那、ずきりと頭の片隅が痛んだがすぐに何事もなかったかのように消え去った。

 大丈夫。わたしはもう“元通り”だ。

 いつもは近づくだけで気分が悪くなる女神像の島も、それがなければこんなに静かで心地よい場所だったのだとわかって不思議と嬉しくなる。

 ──最後に知れて、よかった。

 岩壁の向こうに見える小さな空を目に焼き付けると、くるりと踵を返しわたしはもう一度空洞の奥に向かった。

 荷物と一緒に持ってきていたそれを、麻袋から引っ張り出して両手で軽く包み込む。
 穴の中にいるはずなのに、深呼吸を一つすると風にのった草木の匂いが鼻をかすめた。


「ねぇ、女神様」


 自身の真上で今も微笑みをたたえる神様に、
 もしかしたら初めて口にするかもしれない存在に、

 わたしは答えの返ってくることのない問いを呟く。


「わたしは、いつまで償い続ければいいんだろう」


 答えの代わりに、一際大きな風がわたしの頬を撫でた。
 耳に届くことはなかったけれど、最後に思い出したのは……わたしを呼ぶあの声だった。


 そしてわたしは目の前の石山へ、
 ──火薬と爆薬の山に向かって、火の魔石を投げ入れた。


 *


「──どう、して」

 続く言葉は虚しく潰え、残らなかった。

 数週間前、嵐の爪痕が残る故郷を目にした時、自身の知る景色が変わり果ててしまうことの恐怖をこれ以上ないという程に噛み締めたと思っていた。
 しかし、無我夢中で飛び出し目の当たりにした光景は……それを軽々と超えてしまうほどに凄惨で、信じ難いものだった。


 生まれ育った空の島は──たった数時間で、紅く燃え盛る炎の海に沈んでいた。

 きっかけは女神像の島で起きた原因不明の爆発だった。島中に響く轟音と共に火の手が上がったが、女神像の島は本島に比べ岩肌が目立つ土地のため本来ならば延焼はそこで阻まれるはずだった。

 だがその予想は呆気なく外れ、炎が島の繋ぎ目を伝い本島を侵すのはごくわずかな時間のことだった。
 衛兵の報告によると火の魔石などの燃料が何者かに意図的にばら撒かれていた可能性が高いという。

 スカイロフト本島に燃え移った赤の化け物は、街を火の海に変える。家屋を、木々を、全てを燃やしていく。
 そして……追い討ちをかけるように、身を隠していたはずの魔物が街へ現れた。

 即刻スカイロフト中の騎士たちに指令が下り、市民の避難が開始され……人々はようやく命の危機を自覚させられた。

 何もかも現実味がないまま生きるために、あるいは守るために走った。
 街から外れに向かう道中には、守りきれず手からこぼれおちた命が炎に焼かれ倒れ伏していた。
 どれも直視するのは、耐え難い有り様だ。

 それでも何かに導かれるようにただひたすらに、炎が喰い尽くそうとしている道を進む。


「──っ」

 奇跡的に残っていた地繋ぎの道を抜けて島を渡ると、木々を包む火柱の向こうに建つ女神像が目に入る。
 慈愛の微笑みを浮かべているはずのそれは、一望出来てしまう炎の世界を嘆いているようにも見えた。
 そして火元だと言われている下部は既に半壊しており、いつ倒れ朽ちてもおかしくはない。

 全身を舐めるような熱の壁を何とか越える。
 その敷地へ踏み入れ──ついに出迎えた光景に、進み続けていた足は止まった。

 そこにはもはや見知った風景の残骸すら残っていない。同時に意思を持って襲い掛かるような血生臭さが纏わりついて、吐き気を覚えた。
 しかし頭が拒絶しても身体はそれに逆らえない。

 煙と熱でジリジリと痛む目が捉えたのは、
 明らかに魔物と炎によるものではない傷を負い絶命した──刃で喉笛を切り裂かれた、ヒトの亡骸だった。
 
「……嘘だと……言ってくれ」

 かつて答えを返したであろう血濡れの口は、もう動くことはない。
 おそらく真っ先に女神像へ向かった衛兵たちだ。もともとどれだけの人数が向かったのかわからないが、切られているのは一人、二人ではない。
 感覚が麻痺してしまったのか、付近は不気味な静寂に包まれていて火の弾ける破裂音だけが場を満たしている。

 ……まだここに衛兵たちを切り裂いた者がいるのか。
 恐怖と使命感と混乱がない混ぜになった体を引き摺りながらも、血と灰の海を渡る。
 ここで引き返すべきだと本能が警鐘を鳴らしているのに、止まれない。


「────!」

 止まれなかったのは……見えてしまったからだ。

 焔の先、今にも燃えて無くなってしまいそうな小さな影。
 陽炎が見せる幻であってほしいと、荒い呼吸を繰り返しながら何度も願った。
 しかし炎は縋るような願いすら奪い去る。
 目の前の人影は紛れもなく本物で、


 そして一番目を背けたかった、現実だった。



「──せんせい」


 赤い血が、彼女の顔と体を染めていた。
 彼女自身の傷ではない。

 あれは……返り血 だ。


「リシャナ……お前、何故……」

 もはや自身の声はかすれ切っていて、そのまま言葉を紡げば血が混じると錯覚してしまう程の痛みが走る。身体と本能がこの現実を受け入れることを拒絶している。
 それでも少女に照り返る炎の明るさが、見せつけるように赤黒い姿を晒す。

 歪な線を描いて持ち上げられた彼女の目は、黒一色に染まり空ろなまま何も見ていなかった。

「わたし……やっぱり、許してもらえなかった」

 焦点の合わない瞳が揺れる。それでも自身に向けられた言葉だとわかった。
 少女は戦慄きながら唇を震わせ、涸れた喉を締めつけながら自身の罪を告解する。

「落ちなきゃいけなかった。帰らなきゃいかなかった。ここにいちゃいけなかった。逆らっちゃ……いけなかったんだ」

 彼女の血と灰で汚れた手が頭を抱えた。
 怯えるように震えながら喘ぐ姿に、幼少期の彼女の面影が重なる。
 それすら掻き消えて霧散してしまうのは……今目の前にいる少女が、血に塗れていたからだ。

 自分はどうするべきなのだろう。
 騎士としてスカイロフトを守るべきなのか、彼女を止めるべきなのか。もしくは彼女は何もしていないと……甘い香りのする幻想を、信じ込むか。

 ──その時。
 呪詛のような言葉を呟いていたリシャナがゆっくりと顔を上げ、互いの視線が交わった。

「せんせ、い」
「リシャナ……?」

 そしてリシャナは、今にも泣き出しそうで……しかしそれを自ら赦そうとしない表情で、小さく口にする。


「──ごめんなさい」

「……!」


 その既視感はつい先日聞いたばかりの彼女の懺悔とは重ならない。

 もっと昔。まだ彼女の後見が決まって間もない頃。
 守護鳥の爪に襲われた彼女が世界の不条理から逃げられず、ただただ受け入れざるを得なかった時。小さな彼女が見せていた恐怖と諦観と、自己嫌悪に満ちた嘆きと同じものだった。

 ……そうだった。
 私がすべきこともできることも、
 昔と何ら……変わりはないのだ。

 私のその記憶をなぞるように、リシャナは自らの罪の重さに縛られながら跪く。

「……わたし、何も覚えてないうちに、壊してた。ロフトバードも、女神像も。それに、」

「リシャナ」


 彼女の言葉の先を遮るために名を呼んだ。
 その目を真っ直ぐに見つめて少しだけ低い声で。
 ──過去の復元をしながら。
 もう一度、やり直すために。


「一緒に償おう、リシャナ」

「──あ、」

 彼女とすべきは、ずっと変わらない。
 全てが終わるまで隣に立っていること。
 そして一緒に帰ること。
 それだけで、良い。

「今までだってそうしてきたんだ。俺が何度だって叱ってやる。連れ戻してやる。一緒に謝って……償ってやる。戦ってやる。だから──!」

 後悔も、絶望も、願いも。
 燃えてしまう前に、雲の下に落ちてしまう前に。
 全部全部言葉にして、叫ぶ。
 

 希望が呪いに 変わる前に。


「──帰ろう」



 彼女の目が見開かれ、黒の中にほんのわずかな光が灯る。
 薄い唇が震え何かを呟いたが、炎に飲まれて音にならなかった。

 そしてリシャナは、ゆっくりと項垂れ瞼を閉じる。

「……せんせい、ありがとう」

 わずかに熱の宿る声に私は彼女の手を引こうと一歩だけ足を踏み出す。


 ──しかし次に開かれた瞳の色は、
 水の底のように……濁っていた。


「でも、もう……だめみたい」

 涙を浮かべた瞳のままリシャナは無理矢理笑顔をつくる。

 ──その足元で。
 影ではない、質量を持った真っ黒な何かが広がっていく。

 そこからずるりと、“手”が伸びた。
 彼女の四肢を、鋭利な爪と毒々しい色を持つ沢山の手が捕まえる。リシャナは抗うことなくそれらを受け入れ、支配されていく。
 求める手が増えていくたび、リシャナの瞳の光が失われていった。

「もし、生まれ変わったら……」

 リシャナを捕らえた幾重もの手が、ゆっくりと彼女の片腕を持ち上げる。
 その手に赤い飛沫のついた刃が握られていることに、私はようやく気づいた。


「もう一回せんせいに……頭、撫でてほしいな」


 最後に見た彼女の目は光の届かぬ深淵のような暗さをたたえ、
 刹那に瞬いた泡沫の願いは、彼女が手にした刃の鈍い輝きに奪われて……見えなくなった。


 *


「ホーネル先生!」

 煙と灰の匂いに包まれた地で一際明瞭に響く声が名を呼んだ。
 ホーネルが振り返ると、頬や髪を煤で汚した少年が人の群れの向こうで手を振っていた。
 目が合った少年は不安に包まれた表情の市民を上手くすり抜けようやくたどり着く。

「リンク、すまない。……街はどうだった?」

 衛兵からの要請で避難と消火活動の手伝いに出ていたリンクは、灰を被ってはいるものの目立った負傷はなく無事帰還していた。

 突如としてスカイロフトを混沌に貶めた災禍は、本来市民として扱われるべき騎士学校の生徒の手を借りなければならないほどその規模を広げていた。
 数時間に及ぶ避難と鎮圧により市民はようやく落ち着きを取り戻しつつあったが、未だ被害の規模は未知数だ。

「中心部の火の手はだいぶ治まってきたみたいだよ。まだ女神像はかなり燃えているけど、手の空いた衛兵隊が消火と魔物の討伐に出始めてた」
「そうか……」

 不安を隠せない表情はしているものの、今目の前にいる少年は自身が教鞭をとった生徒でなく、違う何か──喩えるなら、“勇者”としての片鱗を見せている。そのことにホーネルはわずかな違和感を覚えた。

 しかしその疑念は、現状を聞く限りこれ以上酷いことにはならないはずだという目先の安堵ですぐさま掻き消える。
 ──今もなお衛兵に混じり避難誘導をしているであろう兄弟の安否が気になったが、生徒の前でそれを見せるわけにはいかないと頭の片隅に追いやった。


「──?」

 ふと耳に入ってきた声に、リンクが青い瞳をホーネルの背後に向ける。
 避難所の奥に建てられたテント。数人しか入室を許されていないそこから、泣き声が聞こえてきたのだろう。
 時折吹く風に乗り、懸命な泣き声はスカイロフトそのものの慟哭のように木霊していた。

「もしかして、生まれたのか?」
「……ああ」

 テントにいるのは今日誕生祭を行う予定だった妊婦だ。街に火が回る前に避難をしており、彼女は無傷だった。そしてつい先ほど……その子を出産した。
 避難所に待機していた医療チームの手が空いていたため、出産自体はこの災害の影響を受けることがなかった。

 ──だが、


「……先生?」

 空色の瞳が真っ直ぐにホーネルを射抜く。

 どこまでも澄んだその目に……大人は、何を伝えるのが正解なのか。
 ホーネルが何も言えずにいると、少年は不穏な空気を察したかのように声を曇らせる。

「何か、あったのか……?」

 言いたくない。
 しかし、彼は……知らなくてはいけない。

 根拠もない使命感でホーネルを諭したのは己の内側の、誰かの声だった。


「生まれた子は、」

 誰が悪かったのだろう。
 誰が望んだ結末だったのだろう。

 何をもたらすために、望まれた運命だったのだろう。



「体の半分が──魔物に侵されていた。
 母体にいた時から……半分が、喰われていたんだ」



 ──産声が聞こえた。



 *

 *

 *


 『ハルシネーション』

 彼方の記憶。とある文献に載っていた、名前も知らない遠い異国の言葉。
 それは『病的な幻覚』を意味するという。

 ──さて、彼女に聞こえていた声は、見えていた世界は。
 果たして病による幻覚なのか。真実なのか。はたまた神の意志なのか。

「運命に逆らう者へ、神の罰は重い」

 手の中の豪勢な魔鏡に、血塗れの少女が写った。
 ワタシが空から落とすはずだった少女。どこを見るわけでもなく虚空を映す瞳は色彩を失いただただ黒く、暗い。

 あの日落ちなくともいずれこの手に還ることはわかっていたが、まさかこのような形で堕ちてくるとは。

「ヒトや動物ごときが抗えない、ということか」

 空に残った少女の中にある魔族の血。
 それはあの日を境に彼女の理性を蝕み、聖域の空気を汚染し、呪いを生んだ。

 暴走の原因は誰にも、ワタシでさえわからなかった。
 狂ってしまうまでの彼女の意志が本物であったのか、それすらも。

 そして彼女が見ていた空が、人間が。一部あるいは全て幻覚だったとしたら、
 彼女は“何に”それを見せられていたのだろうか。

 運命に背いた対価は、果たして『病気』なのだろうか。対価を課すのは、誰なのか。

「巫女と住人の一部は勇者と聖剣が守ったようだね」

 魔鏡に手をかざし聖域の別の場所を写し出す。
 剣を手に取った騎士や怯える市民、守護鳥。
 それらに紛れ無意識に目を引かれる少年と少女、そして透き通った空色の精霊がそこにはいた。

 彼らの役割は予定されていた目覚めから随分先回りとなったことだろう。
 燃えさかり朽ち果てていく聖域を目にする彼らの表情には絶望しか残されていなかった。


「……まあいい、面白いものを見せてくれたんだ。ワタシの可愛い子を迎えに行ってあげようか」

 ワタシは立ち上がり外の世界へ目を向ける。
 大地を覆う分厚い雲を抜けたその先で、焼き尽くされた聖地を目指して。

 目覚めた彼女の自我が残されているのか今はまだわからない。

 どちらにせよ、今からワタシがすべきは両手を赤く染めた少女を迎えに行くことだ。  


 それが幻覚だったにせよ、故意だったにせよ、
 『殺人』を覚えた少女を、迎えに行くこと。


「──ワタシだけの、哀れな子」


 ワタシの手に堕ちる運命しか持てない、可哀想で可愛い──リシャナ。



──ハルシネーション fin.