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make your garden grow_9.From Birth



「────」

 視線を巡らせ見つけた姿は、かつて氷柱が佇んでいた外縁からさらに距離を置いた地面にあった。近づいて目にしたその顔は決戦前と変わらず、穏やかな眠りについたままだ。

 体を抱えると、呪いの侵食は既に止まっていた。
 しかしその肌には、体温が感じられない。
 くたりとこちらへ委ねられるその身からは呼吸音が聞こえなかった。

「……リシャナ」

 部下の名前を呼ぶ。
 そうする理由はもう無くなったとわかっているはずなのに、こぼれ落ちた声。何一つ返されない反応は何よりも如実にその行為の虚しさを物語っていた。

「リシャナ。……リシャナ」

 譫言のように、縋りつくように、名前を繰り返す。
 腕の中に柔らかな感触があって、手で触れた箇所には微かに体温が宿る。
 けれど返事がない。瞼が開かない。呼吸音がしない。

「──リシャナ」

 そう、手放すように落とした声に滲む感情の正体が何なのかはわからなかった。
 間に合わなかったのだと諦めはついている。そもそも結果はこの地に来る前から予見していたはずだ。それでも、

「────」

 ──こいつが見せたいと言っていた景色を見てやった。
 それをこいつの耳に伝えて、不躾な頼みを聞いてやったことに対する感謝をさせて、きっと不満げな顔を見せるから躾をしてやって。
 そうしてやらなければ、気が済まなかった。

 その生意気な表情すらこいつは返さない。
 今まで持ったことのない虚無感にも似た感情に打ちのめされながら、胸の中にその体を抱えて項垂れた。


 だから、気づけなかった。

「────、」

 一度、二度。閉じられ、動かなかったはずの睫毛が小さく揺れて。

 やがてその瞼が、うっすらと開いたことに。

「──ぎら、ひむ……さ……ま゛ッ!?」
「ッぐ、」

 そのことにワタシが気付いたのは固い何かが額へ直撃し、鈍い痛みに呻いた瞬間。
 ……起き上がったリシャナが、主人へ頭突きをかました時だった。

「い、痛……じゃなくて、ご、ごめんなさ……!」
「…………殺す」
「ひぃッ!?」

 鈍痛が尾を引く額を片手で抑え、殺気の孕んだ呪詛を吐くと半泣きのリシャナが悲鳴を上げる。温度の下がった視線で睨んでやれば、肩を震わせその表情が絶望に染まった。

「幼気な主人を欺くだけでは飽き足らず、まさかいたぶってくれるなんてね……? 相当な覚悟が出来ているらしい」
「ちっ、違うんです! 本当に今! たった今目が覚めて! まさか当たるなんて思わなくて……!」

 必死に弁解を重ねるリシャナ。その狼狽具合から見て、今目覚めたというのは本当なのだろう。
 恐怖に染まっているからでもあるが、体温は未だ戻り切っておらず頬は仄白いままだ。

 ……けれど、生きていた。
 生きて、手元に戻ってきた。

 それならそうと手を煩わせた上、数瞬胸中にさざ波をたてた部下に対して様々な罵倒の言葉が頭に浮かんだ。
 が、それらが吐き出されることはなく、一つの深いため息に溶けて消えていった。

「……悪運だけは強いね、お前は。本当に人間なのかどうかを疑うほどに」
「せ、せっかく無事だったのに疑わないでくださいよ……! 魔族ですけど人間ですし、同じくらいの耐久力です。……たぶん」

 言いながら自信なさげに肩を竦め、リシャナの目が泳ぐ。
 実際のところ、こいつが一命を取り留めたのは氷結の呪いが命を食いきる前に龍を無力化したことに加え、あの石柱が氷の中から解放されたことが影響しているのだろう。

 石柱が剥き出しになった封印の地。その環境を揺るがすほどの変化は今のところない。
 それでも存在していたはずの女神の気配は石柱を中心として薄れ、魔族にとって幾分か吸いやすい空気が周囲に満ちていた。それもまだ、ほんの些細な変化でしかなかったが。

 数秒瞑目した後、部下の体を地面に下ろして座らせる。そうして体から手を離したと同時に息を呑む音が聞こえた。
 視線を寄越せば、リシャナは眼前の主人の姿に目を見開いていた。

「ギラヒム様、その怪我……!」

 全身に刻まれた亀裂と砕けた肌。彼女の目に映る主人の姿は凡そ無事とは言い難いものだろう。今ほど体中に損傷を重ねた姿をこいつに見せるのは初めてのはずだ。
 ワタシは動揺に言葉を詰まらせている部下を一瞥し、鼻を鳴らして低く返す。

「……どうせワタシにしか治せないのだから放っておけ。魔力さえ使わなければ何ら問題はない」

 そう言い切ると、リシャナは喉まで出かけていたであろう言葉を押しとどめた。
 戦いを経て損耗した体が元通りになるのか、もしくはどこまで回復するのか。ここで知る術はなく、知ったところでどうにもならない。
 彼女もそれは理解しているのだろう。口を噤んだままさらなる追及をすることはなかった。

「……それに、」

 束の間の沈黙を置き、再び唇を解くとリシャナが顔を上げる。
 その視線を受けながら、首を捻って背後に広がる光景を見遣った。

「ようやく辿り着けたんだ。……安いものだろう」
「────」

 主人を映す瞳が揺れて、倣うようにリシャナがその光景に視線を送る。

 二人が見つめる先にあるのは、淡い陽光に照らされ佇む小さな杭。
 ただの始まりに過ぎない光景なのだろう。しかしそれを目にして抱いた感情は自身の存在そのものに刻んでおくべきだと思った。……本当に見たいのは、この先の光景なのだから。

「ギラヒム様」

 ふとリシャナが主人の名を呼び、一度その目を伏せた。
 そしてゆっくりと瞼を開き、柔らかな笑みを浮かべて、

「──おめでとうございます」

 小さな小さな祝辞を、送った。
 その声音が、今だけは喜びを抱いて良いのだと告げている気がして──、

「……いたっ、」

 やはり生意気だと思って、部下の額を指で軽く小突いた。ほんの少しだけ、口元を緩めながら。


 *


「……あれ、?」

 束の間手にした安息の時間を終え、この地を去るべく立ち上がろうとしたその瞬間。不意に傍らの部下から小さく疑問符がこぼれた。
 見れば、何かの違和感を覚えたのか彼女は自らの足を手で撫でつけていた。だが何も解決しなかったのか足に手を添えながら目をしばたたかせた後、戸惑いに染まった双眸がこちらを見上げた。

「立てない、です……足に力、入らない……」

 地に足をつけようとしてもがくが、膝に力が入らず自由が利かないらしい。ぺたりと地面についた膝から下は、本人の意志に反して人形のそれのように放り出されたままだ。
 おそらく、氷結しかけた体に自身が思うほど体力が戻っていないのだろう。治療を施しさえすれば自ずと回復はしていくはずだが。──呪いの場合、後遺症が残る可能性は充分にある。

「…………、」

 一つため息を落とし、何も言わずにリシャナの体へ腕を回す。
 このまま担いで連れ帰るしかないだろう。魔力が尽きた今、瞬間移動すら使えず至極面倒ではあるが。
 下から視線を感じてそちらを見遣ると、やはり困惑した表情がそこにはあった。

「間抜けな顔だね」
「だ、だって……いいんですか……?」
「這いつくばってこの螺旋を登りたいというなら置いて行ってあげるけど」
「それは嫌です……」

 初めてではないとはいえ、主人から尽くされることに据わりの悪さを感じているのだろう。不躾にも依然半信半疑な様子でいる部下を、軽く睨んでやる。

「……ワタシは美しいだけでなく寛大な魔族長だからね。部下が手柄を立てればご褒美の一つや二つくらいくれてやる」
「────、」

 それだけ言うと、リシャナは唇を結んで何かを考えるように俯いた。
 反論でもあるのかと表情を眺めたが何も返って来ず、彼女の体を抱き上げようとした、その時。

「あ、の」

 リシャナの唇が、微かに震えた。
 再び顔を見遣れば、気まずそうに視線が逸らされる。だが、その唇はおずおずと言葉を続けた。

「……一つ、お願いしたいことが……あり、まして……」

 逡巡を見せながらも、リシャナはワタシの腕を引く。
 ……どうやら主人に追加のご褒美をねだるくらいの体力は戻っているらしい。迷いはしたが、今日くらいは生意気も見逃してやることにした。

「さっさと言え」

 言い捨てた言葉に、リシャナが声に出さず驚きを見せる。
 数秒視線を彷徨わせ、やがて意を決したように主人へと向き直った。

 部下の双眸は真正面から主人を見据え、二人の視線は揺らぐことなく一つに交わる。
 ──その時得た感覚は、かつて自分があの方の前に立った時と似ているようで、少しだけ違う。

「……貴方のことを、」

 柔らかく吹いた風が部下の髪を撫で、透き通った瞳に主人が映る。そのまま音もなく唇が解かれて、
 ──ワタシはその声で紡がれる敬称を魂にまで響かせることとなる。


「──『マスター』って、呼んでいいですか」


 息が、止まる。
 部下の声音が、視線が、自分という存在の中に落ちて、溶ける。

 紡がれた敬称は彼女の目が覚める前、自身が主に向けて口にしたもの。
 それ以前にその敬称は──この世界において、永遠の主従として全てを尽くす者へ向けた誓いそのもの。

 こいつがその意味を知っていたか否かはわからない。何故その敬称で呼ぼうと思ったのかもわからない。
 おそらくこいつは敬称が示す意味を今初めて知ったとしても、その言葉を引き下げたりはしないのだろう。
 覚悟は出来ているのか、なんてもはやわかりきった問いかけでしかない。そう言い切るための根拠など、こいつの姿を見ていれば尽きることがない。

 何度か喘ぐように息を吸う。抱えた部下の体に、ないはずの温度が灯る。
 そうしてこいつに与える答えを探ろうとして──既にそれは出てしまっていることに、気づく。
 だから後は口にするだけなのだ。刹那の逡巡は、それを返すことにより自身の中の何かが変わってしまうことに対する憂慮。

 そしてそれすらも抱く必要のない感情なのだと理解する。
 ──こいつは主人と同じ命の使い方をし、証明して見せたのだから。

「……好きに、すればいい」

 目を逸らし、それだけを返す。主人の表情を窺ったまま、部下の目が見開かれたのがわかった。
 彼女は小さく息を吸って、再び唇を解く。

「──マスター」

 一度、耳にする。
 自分が口にする時と、違った響きがする。しかし不思議と耳に馴染む声音だった。

「マスター」

 二度、呼ばれる。目の前の部下と視線を重ねる。
 手を伸ばし、頭を撫でて柔らかな感触を肌で感じる。
 体を引き寄せ、抱え直して、腕の中の体温を確かめる。

 その温もりに──命の感触があった。

「マス……っん、」

 三度目は……耐えられなかった。
 彼女が言い切る前に、貪るように口付ける。
 何度も何度も口付けて、深く深く噛み付いて。こいつが生きていると実感して。温度を、体温を、熱を。全て全て手にして。

 それでもまだ、欲が疼く。足りない。まだまだ足りない。
 この温度を全て自分のモノにしたくて、自分の熱をこいつに刻んでやりたくて。

 欲しい、こいつが欲しい。──離したく、ない。

「──は、」

 不意に唇を離してやると酩酊状態のリシャナが深く酸素を取り入れ、濡れた瞳で主人を見上げた。

「ます、んむっ……?」

 戸惑いながら自身を呼ぼうとする口を、咄嗟に手のひらで塞ぐ。
 困惑の色を濃くし、目でどうしたのかと問うリシャナにワタシは息も整えないまま唇を寄せ言い放つ。

「……お前にわからせるのは、帰ってからだ」

 それだけを告げ、リシャナの口を解放する。呆けた唇は何の言葉も発さず開かれたままだ。

 ……正直、今すぐにでも食ってやりたかった。
 もう一度その敬称で呼ばれたなら理性は砕け散っていたと思う。
 何とか自身を押しとどめながら、それでも思ったのだ。

 こいつに、自身が誰のモノなのか理解させるのは──二人だけの空間に閉じ込めてからがいい、と。

 リシャナはしばらく瞬きを繰り返したのち、納得したのかわずかに顎を引く。
 そうしてふと口元を緩め、主人の顔を下から覗き込んだ。

「……耐えられます?」
「うるさい、犯すぞ」

 今度は額を強めに弾いてやると、呻き声を上げてリシャナが押し黙る。文句を言いたげな目をしていたが無視し、その体を担いで立ち上がった。

 今だけは部下の顔を見ずに済む方が、都合が良かった。