make your garden grow_6.謁見と、伝えるべき事
極限にまで冷やされ肉体の芯を凍て付かせる氷は、濃密な死の匂いがする。
「──ッ!」
当たれば息の根ごと氷結させる散弾を躱して弾き、砕いては細かな欠片へと変えていく。
膨大な数で降り注ぐ氷の弾丸を迎え撃つ短刀。頭上でそれらが交わり甲高い音を立てては粉砕し合った。
その光景に視線を走らせながら間隙を掻い潜り、魔剣を片手に先で待つ獣の元へと向かう。
「────」
一度の飛躍で即座に間合いを詰め、龍の懐へと飛び込んでいく。そしてその勢いに乗せ下から斜め上へ心臓を狙った斬撃を叩き込んだ。しかし、
「させぬッ……!」
「!」
魔剣はまたも肉を断つ前に受け止められる。次に斬撃を防いだのは氷の盾ではなく、水龍が瞬時に水を氷結させ生成した槍。穂先から柄まで透き通った氷で出来たそれが火花を散らして魔剣を弾き、押し返す。
魔力を余分に注いだのか、氷弾や氷柱に比べ明らかにその硬度は増していた。
「チッ……!」
数度、剣閃は交わされたがいずれも互いの体に届くことはない。魔剣ごと体を貫こうとする氷槍の追撃を躱し、受け流し、真横に掲げられた槍の柄を蹴りつけて後方へと飛び退く。
そのまま身を捻り、再び龍を視線で捉えながら短刀を召喚。瞬時にそれらを、放つ。
「煩わしいッ!」
降り注ぐ刃の雨を前に龍は短く唸り、槍を持たない手を空中にかざすと水の膜が生まれた。向かう短刀はその中であえなく勢いを殺されバラバラと地に落ちていく。
だがその結果を見届ける者はおらず、自ら造った水の壁を突き穿ちながら龍が巨大な槍を薙ぎ払う。その重圧を魔剣で受け止め、耐え切った後に弾き返す。後退する身を追う氷弾を短刀で全て相殺し、双方の間合いは振り出しへと戻った。
「……しぶとい奴よ。結果は見え透いているというのに、無様に足掻いて何になろう」
氷槍を片手に龍が剣呑な視線を送る。その声音は刃を交えていた時の獰猛さをいくらか鎮めたかわりに、ひどく渇き切ったものだった。
「妾の魔力が尽きることを待っておるのか。……それとも、」
龍は一つ区切り、黒の双眸を深く歪める。そうして向けられた敵意に、魔族に対する憎悪とは別の感情が紛れていることに気付いた。
「氷柱に入ったあの小娘が封印の中心にたどり着くまでの、時間稼ぎか」
「…………」
問いに対し、返すのは沈黙のみ。しかしそこから示されるのは肯定の意。
やはり魔力を使い小細工をしたところで、内部への侵入者の存在はすぐさま勘付かれてしまうようだ。
龍はその内心すら見透かした目を向け、答えは待たずに口を開く。
「どのような手段を使って空の人間を手に入れたのか知らぬが無駄なこと。封印の支配権を握る妾があの空間にいなければ呼吸の剥奪自体は免れよう。しかしどちらにせよ、妾の魔力に満ちた空間で人間風情が生きていけるはずがない」
黒の視線は不愉快げに歪められたまま背後の氷柱へと注がれる。濁った壁面の先で今も彷徨う少女を睨み、低い声で続けた。
「魔物共と同様……小娘の死体が氷像となるのみ」
「────」
「半端者の血を使ったところで、魔族の手は悠遠の封印に決して届かぬ運命じゃ」
──運命。
こうもわかりやすく単純なまでに、自身を含めた一族の過去と、今と、末路を表わす言葉が他にあっただろうか。
吐き気を覚えるその言葉を、敵対する勢力に聞かされる時はいつだって苛立ちが抑えきれない。
だが、衝動のまま反駁の声が上がることもない。根拠もなく無粋極まりない妄言だと一蹴すべきなのに。
そう思いながらも唇は結んだまま、自身を見下ろす眼へ魔剣の切っ先を掲げ、戦意のみを表わす。
「……お前は」
その意志に対し氷槍を振りかざす前に、龍が目を細める。数瞬間を置き、紡がれた声音はやけに無味乾燥とした響きを持っていた。
「──あの娘が何故“あのように”なったのか、知っておるな?」
不意に向けられた問いかけ──否、断定にぴくりと肩が揺れた。
その言葉は具体的な何かを指し示してはいないはずなのに、刹那思考は静止する。
それが再び動き出したのは、無意識な薄い笑みがこぼれた時だった。
「さあ、知らないね」
短く返せば、後は唸る風の合唱を背景に鋭い視線だけが互いに交わされた。
先にそこから目を逸らした龍は氷柱へと振り返り、低く鼻を鳴らす。
「まあ良い。仮に小娘が封印の中心へたどり着いたとて、迎える末路は変わらぬ。……封印を壊そうとする限り、のう」
「……!」
意味深に付け加えられたその言葉に、次こそは完全に自身の両眼が見開かれる。
緩慢に持ち上げられた視線を迎えた龍の眼差しは、勝ち誇ったものでも憎悪に燃えたものでもなく、仄かな哀れみが浮かんでいる。
龍はこちらが問いを向ける前に、答えを告げた。
「──あの場に妾の氷の力を一部置いてきた。封印に一度でも触れたなら、その者を内側から氷結させる呪いよ」
……まさか。
咄嗟にそれだけを思い、部下の姿が脳裏に過ぎる。
その瞬間に為せたことは、他に何もなかった。
「故に」
次に龍が口を開いた時には己の眼前にまでその体躯が攻め込んでいて、
「──ッが、」
鋼のそれと同じ硬度を持った氷槍が──ワタシの胸から腹部にかけてを、両断したからだ。
ガラスが砕け散るような、鎧が剥がれるようなけたたましい金属音と共に、世界が動きを止める。
明滅する視界で撒き散らされるのは血液ではなく、精霊としての体を構築する欠片。瞠目し、全身が軋む感覚に引き摺られ、遠のく意識の中で一つの声だけが残った。
「ここでお前たちが敗れる運命は覆せぬ。──妄執に溺れた魔の者共め」
*
「…………あった」
白い吐息と共に掠れた声音が呟いたのは、何度も意識が途切れかけ、自我さえも見失いかけた時だった。
深い暗闇の中へ何度も落としそうになりながら、必死に手繰り寄せた魔力の糸。その果てが終に、目の前に現れたのだ。
「封印の、石柱……」
無限の白の世界。その中にポツリと佇む古く黒ずんだ石の杭。
目に見える境界がある訳ではないが、杭の周辺は風も雪も止み、ただただ無音だけを保った空間が広がっている。
決して聖域と同じように澄んだ空気が満ちているわけではない。どちらかというとその周辺は、どのような空気であれ干渉を許されていないと言った方が正しいだろう。
故に、杭に近づきすぎれば寒さで弱り切った思考が容易く刈り取られてしまうことはすぐに理解した。
私はその空気に呑まれないぎりぎりの距離を保ち、呼吸を整えながら杭を見遣る。
……こうして真正面から見れば、それはあまりにも小さな杭だった。
目で見るだけなら、この下で一族の王がはるか昔から縛られ眠り続けているなんて、到底思えなかっただろう。
だが、周囲に満ちた厳粛な無の空気がそれは紛れもない事実なのだと告げている。
「……ふぅ、」
背筋を伸ばし、一度だけ深呼吸をする。緊張感を孕む吐息がこぼれたが、酸素を取り入れても四肢の感覚が全く戻らないことを同時に悟った。
私の体はおそらく限界を迎えている。残された時間は少なく、一刻も早く氷の封印を壊さなければならない。
けれどそれをする前に。
目の前の存在へ、真っ先に伝えるべき事があった。
「────」
姿勢を正して杭と向き合った後に、深くお辞儀をする。私はその存在へ最大限の敬意を示しながら、引き結んでいた唇を解いた。
「お初にお目にかかります。──魔王様」
返ってくる声も、音もない。
先ほどまで吹き荒れていたはずの風の音すらその地からは切り離され、耳が痛くなるほど張り詰めた静寂が支配していた。
無意識にも指先は震えていて、本能が理由もなく逃げ出したいと囁いているのがわかる。
しかしそれを押しとどめながら、私は続ける。
「半端者の身で貴方の前に立ち、勝手な言葉をお伝えする無礼をどうかお許し下さい」
答えはやはり無く、紡いだ声音が彼方に響く訳でもない。向ける言葉全てが防音壁へ吸い込まれていくように、返されるものは何もない。
それでも私はゆっくりと顔を上げ、沈黙する杭を真っ直ぐに見つめる。
伝えるべきは、自分の名でも一族のことでもない。
「──貴方に、ずっと会いたがっている人がいます」
もし、幾千もの年月ここに縛られたままの魂が、氷の外の世界のことを全く知らずにいるとするならば。
「何百年も、何千年も……貴方に会えるまでずっと。その人は願って、戦い続けています」
この魂が最初に知るべきは、最もこの存在を望む彼のことであるべきだ。
「だから……その時を、貴方も待っていてください」
返事はない。空間に満ちる空気も、杭の下で眠る魔力も、何の変化もない。
私に出来るのはこの魂へ彼の願いが伝わるよう、祈ること。そして、
「────」
杭から数歩下がり、音もなく腰の魔剣を抜く。そのまま軋む腕を振り上げて、剣先を天へと掲げた。
目に映すのは女神と龍の魔力が及ばない杭の周辺。雪と風に侵されない境目。つまり、封印の力が一番弱い場所。
再び目先の杭を一瞥する。
呼吸を止め、私は一筋の黒い刃をそこに向かって──振り下ろした。
瞬間。
「ッ──ぁ、」
見えぬ壁に魔剣が受け止められたと認識すると同時に、焼かれるような痛みを伴った冷気が全身を駆けて、巡る。それは意志を持ったように私の体を侵し、神経を食い破っていく。
痛い。
痛い、冷たい。痛い。
痛い。冷たい、痛い痛い冷たい痛い冷たい痛い痛い痛い痛い熱い痛い痛い痛い痛い痛い熱い熱い痛い痛い熱い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
たった一度のみ走った冷気によって体の半分が凍った。いや、凍ろうとしている。雪と風がもたらす寒さとは比べ物にならない、熱さと錯覚してしまうほどの氷の魔力が、魔剣を持つ手の内側を伝って筋肉を、骨を、血管を、内蔵を、魂を──。
「か、ふ」
喘ぐように求めた酸素の通り道が塞がれ、不自然な呼吸音だけが漏れ出る。
腕も足も感覚が凍て付いて、脳からの命令が途切れたのか糸が切れたように体が崩れ落ちる。唯一手から魔剣が離れなかったのは奇跡としか言いようがなかった。
それでも命を食う冷気に脅かされる一方、杭の下の魔力が濃くなったことを肌で感じた。封印に小さなひずみが出来たのだろう。しかし、まだ足りない。
おそらく龍は多少封印に傷がついてもすぐに修復出来ると目論んで、この冷気を仕掛けていたのだろう。場違いなまでに冷静な分析が頭の中にするりと落ちていく。
加え、その分析は自身の状態についてもひどく冷徹でいた。
──私はきっとこのまま、しんでしまう。
死んで、終わって、また雪が降る。
そうしたら、この外で、
彼は、
「────」
彼は、どうなる。
「ま、だ……」
ずり、と体が地を這い、朦朧としていた視界が色彩を取り戻す。だがそれは遠巻きに自身の状態を悟る、頭の片隅にいる私自身の認識にすぎない。
何故、どうやって、神経が切断されかけた体を起こし、感覚が残っていない腕を持ち上げているのか。自分でもわからなかった。
「……、ろ。こわれ、ろ……」
響かないはずの喉を鳴らし、顔を上げる。もう片方の手で青い石を握りながら、一気に魔剣を振り上げる。
命を氷結させる魔力が再び身を襲うとしても、止めはしない。
──見せたい景色が、あるから。
「──壊れろぉォォォオオッ!!!!」
咆哮。そして、何かが砕けた音が、した。
風が白の世界を吹き抜けて、雪も氷も、全て全て奪い去る。密閉されていた空間のどこかに穴が空き、一直線にそこを抜けていく。
数秒その風に煽られながら体を庇い、ふとそれが止んで、完全なる静寂が訪れた。
ゆっくりと瞼を持ち上げて、目の前の景色を見回す。
黒く小さな杭はそこに佇んだまま、無音の空間は変わらず保たれている。
「や……った?」
呆気に取られた声がこぼれて、数度瞬きをする。
そうして本能に促されるまま石柱に近づこうとして、
「──あ」
私の体は、長い爪を持つ手に背後から鷲掴みにされた。
その手が封印の崩壊を察し、ここへ引き返してきた水龍のものだということを最後に理解して、
後は全身を巡る冷気に抗えないまま、意識が深層へと沈んでいくことだけが、わかった。
*
「この魔力は……」
氷槍に引き裂かれた傷口を抑えながらも、眼前の光景から目を離すことが出来なかった。
水龍の背後に佇んでいた巨大な氷の柱。外からいかなる衝撃を与えても傷一つつかなかったその壁面に、たった今、大きな裂け目が生まれた。
その先から感じる複数の魔力。一つは封印の中に入ったリシャナのもの。一つは封印の異変に気付き、氷柱へ引き返した龍のもの。──そして、もう一つは。
「ッ、ぐ……」
衝動のまま氷に近付くことは叶わなかった。
胸から腹にかけて斬り裂かれた箇所には深い亀裂が刻まれて、精霊の本体が覗いている。命そのものがこぼれ落ちる感覚と共に、痛苦が熱を帯びた。
それでも氷柱の中で何が起きているのか見定めようと目を凝らしたその時、氷の壁の向こうに薄い影が見えた。
「!!」
反射的にそれが何なのか気付いた瞬間、傷口を庇ったまま瞬間移動で上空へと身を移した。
同時に氷柱の中から放り出された体を受け止め、再び地上へと戻る。
「ぎら、ひ、む……さま」
氷柱から外へ弾き出されたリシャナは、腕の中で主人の名を口にした。
微かに触れた指先は氷のように冷え切っていて、抱えた体に残るわずかな熱さえも奪われ始めている。
そしてリシャナの後を追うように、龍が氷の中から姿を現した。
龍は殺気を滲ませながら身の周りの全てを凍てつかせる冷気を放ち、こちらを見下ろす。
「余計なことをしおったな……小娘……」
鋭利な眼光に宿るのはもはや憎悪一色。魔に対する義憤は既に昇華され切っていた。
「まさか氷の魔力を受けてまで封印を破壊するとは。だが封印は完全に破られておらぬ。修復の傍ら、貴様らごとこの地を凍結させてやろう」
あれだけの戦闘をしたというのに龍の力が摩耗している気配は一切ない。
周囲の温度が肌で感じられる程急速に冷やされていき、宣言通りすぐにでも我々を氷漬けに出来てしまうのだと思い知らされる。
「己の無力を嘆きながら、眠るが良い」
龍はそれだけを言い残し、再び氷柱の中へと消えていく。
武器を手にせず背中すら見せられているというのに、その姿をただ見送ることしか出来ない。……再び剣を握るには、あまりにも無謀すぎるからだ。
「────」
そうして二人、取り残された地に雪が降り始める。
目の前の氷柱には巨大な裂け目が生まれているが、おそらく修復が終わるまでそう時間はかからないだろう。さらに、部下に残された時間も。
「────」
手の中にある温度は徐々に流れ出て、失われていく。
これが龍の魔力による呪いなら、龍を瀕死の状態にまで追いやれば助かる可能性はある。が、それをするための術も、魔力も、時間も尽きかけている。
「────」
もしここで魔力を使い果たせば、当然魔王様を復活させるという本懐は遂げられなくなる。自分が戦ってきた理由も、生きてきた時間も、全て全て水泡に帰す。
だから、それがわかっていたから。
……自身がここから逃げ出すための力は最後まで残していた。
「────」
終わる。
おわる。
また、この命も使われて、消費されて。
きえてなくなる。
「────」
自分がここで取るべき手段なんて、もう一つしか無い。
「──ここまでのようだ」
ようやく口にした声音は、ひどく落ち着いたもので。
「リシャナ」
あまりに穏やかな口調で、その名を呼んだ。