幕間_旧ハイリア騎士団フィローネ支部見張り台にて
火の魔石を豪快に燃やして沸かせた熱湯。それを頭から浴びて、体の芯までしっかりと温まる。普段より時間をかけてシャワーを浴びて、澱のように溜まった疲労感と血と汚れを流す。
そうして後は、主人の就寝まで束の間の気ままな時間を過ごすだけのはずだった。
──なのに、数十分後。
私はせっかく温めた身体に冷たい夜風を浴びながら、一人拠点の周りを歩いていた。
「はい……リ……ア、 戦士……じゃない、騎士かな、これ……」
誰に話している訳でもない呟きは、夜の森の騒めきに紛れて消える。
私はある目的地に向けて足を動かしながら、手の中の錆びれた鉄板をじっと睨んでいた。
「“フィローネ”は読めるけど、その後が読めない……区域か、地方……違うかな」
その鉄板は拠点のどこかの壁から剥がれ落ちていたところを偶然私が蹴り飛ばし、拾い上げたものだった。
板の表面は劣化が目立つものの、辛うじて判別出来る程度の凹凸が刻まれている。
それがスカイロフトが出来る以前に使われていたとされる古代ハイリア文字であり、雰囲気的にこの拠点のもともとの正式名称を表す文字だと気づいて、解読を試みていた次第であった。
とは言え、騎士学校時代の授業で得た知識レベルの簡単な読み書きなら出来るものの、実際の文字を解読できるかどうかはまた別の話。いくつかの単語は読めたものの、意味はさっぱりだった。
詳しい意味はギラヒム様に聞けばすぐにわかるのだろうけれど、もう少し自分で解読してからにしよう。
「さて……」
そうして古代ハイリア文字と戦っている間にも、私は目的地に到着する。
この拠点に幾つか存在する建物。たどり着いたのはそのうちで最も背の高い、やぐらのような建造物だった。
かつてこの拠点が女神軍の砦として使われていた頃から建っているようで、支柱も梯子も黒く変色している。
私は冷たい鉄の感触を確かめながら、慎重にそれを登っていく。
「……ふぅ、」
時折風に煽られながらも行き着いた最上層からは、夜のフィローネの森を一望することが出来た。
昔、ここは見張り台として使われていたのだろう。
今では拠点への襲撃など滅多に起こらないため、私にとっては主人の寝室の次によく訪れる場所となっていた。
「さむ……」
梯子を登って高まったはずの体温を吹きつける風が奪っていく。
澄んだ空気は心地よくて、考え事をするにはうってつけだけれど、体が冷え切ってしまわない程度にすべきだろう。
私は冷たい柵に身を預け、一面の夜の空を網膜に映した。
思考を虚空に投げ出すと、代わりに存在感を訴えてくるのは治療したばかりの脇腹の傷だった。帰還次第、すぐに回復兵の手により治癒魔法をかけられた患部は時間をかけずとも塞ぐことが出来た。
痛みもかなり引いていて、あとは自然回復を待つだけ。たぶん、跡は残ってしまうだろうけど。
拠点で待機していた先輩魔族──リザルフォスのリザルは、「お嬢の向こう見ずは予想してた」と半ば呆れながらも治療を手伝ってくれた。相変わらず面倒見のいい先輩である。
「…………、」
そこまで考え、その後見送った親しい大トカゲの姿を思い返し、小さくため息が落ちる。
魔族長の命を受けた彼は、各地の魔族の統制を図り、次なる指示を出すため既に出発をしている。
その目的は逃げた巫女の捜索。ゼルダちゃんにはあの老婆か、それに代わる護衛がついているはず。そうは言えど、各地で縄張りを持つ魔族の目を完全に掻い潜ることは難しいだろう。
──それでも、彼女は必ず次の目的地へ向かう。
森で一つ目の禊を終え、また別の地で二つ目の儀式を行う必要があるからだ。
おそらく、新たな戦地へ私たちが向かうことになるのもそう遠くない未来なのだろう。
「うー……」
恐れているわけでも抵抗があるわけでもない。なのに、胸の内に蟠る不穏な予感は静まってくれず、私は柵にもたれて項垂れていた。
──だから、背後に音もなく現れた存在に、肩に触れられるその瞬間まで気づけなかった。
「──みつけた」
「ッひぃ!!?」
鼓膜を直に揺らす低い声と吹き込まれた生ぬるい吐息に、喉奥から引き攣った悲鳴が迫り上がる。
そして思わず柵を乗り越えかけた体は、すんでのところでバランスを保ち、ぎりぎり落下を回避した。
首を捻って背後の人物を睨むと、眠気と不機嫌が入り混じったジト目が返ってくる。
「主人の世話を放り出してこんなところで安逸を貪っているとは」
「オネムの時間にはまだ早いじゃないですか……!」
今しがた部下を突き落としかけた主人──ギラヒム様は、普段の恰好ではさすがに寒いと踏んだのか、温かそうなローブを纏って立っていた。
おそらく瞬間移動を使ってここまで登ってきたのだろう。寒がりな彼がこの見張り台まで私を探しに来るのは珍しい。
「このワタシに探す手間までかけさせておいて不躾な目をするものだね」
「……眠くなったならそう言えばいいのに」
「お前をここから突き落として永遠に眠らせてやりたい気分ではあるが」
「嘘です! こんなところで人生初の空を飛ぶのは嫌です!!」
寒さも相まってご機嫌斜め加減の主人なら、本当に私をここから放り投げかねない。
もう少しゆっくりしたい気持ちもあったけれど、こうして迎えに来られたら降りないわけにはいかないだろう。
小さく肩を竦め、私は主人に向かって振り返ろうした──が、そうする前に真横から白い手が伸びてきてそれを阻まれる。
「へ……」
その手に導かれ、寄る辺なく引き寄せられた私の体は、主人の懐に緩く落ちる。
背中は彼の胸の中にぴったり収まり、困惑する私の耳元に彼の唇が寄せられた。
「……大して抱き心地も良くなければ温かくもないね」
文句を言われながらも、主人のしなやかな腕が私の腰に回される。
ほんのりいい香りがする彼のローブに包まれながら背後から抱きかかえられ、ものすごく恥ずかしい体勢が完成した。
そうしたまま、ギラヒム様は顔を上げて私が眺めていた景色を見遣る。……どうやら、ここで一緒に過ごしてくれるらしい。
そう理解した私は緩みそうになる頬の内側をやんわり噛んで、同じように夜の森へと目を向けた。
「……あの光、夜でも消えないんですね」
普段なら黒一色であるはずの森。しかし今、視界に飛び込んでくるのは雲を貫く白緑色の光だ。
雲の隙間から薄く差し込む月明かりも相まって、夜の森は音もないのに雑然として見える。
「フン、煩わしいことこの上ないね」
「同感です」
ギラヒム様が心底鬱陶しげに鼻を鳴らし、私も顔をしかめて同意する。
綺麗な光景ではあるのだろう。それでも素直に受け入れられないのは魔族としての本能なのか、好きだった景色が無用な装飾で彩られてしまったからなのか。
そして意識せずとも視界に入り込んでくる光の柱は、この数日間で起きたことを私に想起させる。
「……本当に、始まったんですね」
何が、とまで口にするにはあまりにも多くのことがありすぎた。
同じ光を目にしている主人にはすんなりと意図が伝わったのか、頭上からため息が降ってくる。
「一度斬られておいてまだ実感が無いなんて、お前の鈍さも極まったね」
「……自覚はあるはず、なんですけど」
彼の言うことは最もだ。あれだけの敵意を向けられ、血を流して──未だに実感を持つことが出来ていない。
私は自分が思う以上に、変わらない日常の安寧に浸りきってしまっていたのかもしれない。
始まった戦いは、いつか終わる。空から落ちて以来、幾度となくそれを繰り返してきたはずだ。
唯一違うのは、この戦いの終わりが、主人の悲願の果てを意味するということ。
夢想するのは彼が報われる瞬間だけであるべきなのに、自分の行く末を同時に思い描いてしまうのはあまりにも烏滸がましくて、だからこそ実感を得たくないのだろう。
「マスター」
夜闇に向けて、主人の敬称を口にする。
返ってくる言葉はない。けれど私は体を抱える彼の腕に指先を添え、静かに続けた。
「戦争は……長く、続くものですか」
浮かべた問いが、薄く白い息となって溶ける。
それを見送りながら、主従の間には数秒の沈黙が訪れた。
「……わかれば苦労しない」
低い声が予想通りの答えを告げる。
そのまま一呼吸を置き、彼は再び唇を解いた。
「少なくとも、戦場にいる間は時間の概念なんて考えるだけ無意味だよ。呆気なく終焉を迎える時も、果てが無いと思えるほどに続く時もある」
その声音に宿る意志は私には読み取れない。
それは気の遠くなる程長きに渡って戦いを重ねてきた主人だからこそ、説ける真理だった。
「──だが、」
そこで彼の言葉は途切れる。
刹那の静寂の間、夜の森の喧騒は耳に届かない。ただただ私の意志は彼に向けられていて、紡がれる声音を聞く。
「長かろうが短かろうが、失う時は一瞬だ」
「────」
小さく息を呑んだ私の表情は、彼からは見えないはずだった。
しかしそれすら見透かされ、言い聞かせるように耳元へ唇を寄せられる。
「全てが終わった後にもっと抗うべきだったと嘆く姿は……誰であれ、見ていられないほどに無様なものだよ」
そう囁く彼の脳裏に映る人物は、誰なのだろうか。
振り返ってその表情を目にすればわかるのかもしれない。けれど、それはあまりにも無粋な行為だ。
故に、私は唇を引き結んだまま彼の腕を握っていた。
そこで話は終わるかと思ったけれど、ギラヒム様は無言の私に応えるように一つ吐息し、片手を私の肩に置く。──と思えば、
「ッうぇ……!?」
不意にその手に力を込められて、不自然に抜けた声と共に私の上半身は後方へと仰け反らされる。
いきなり何の技をかけられるんだ──!? と身に沁みた経験から危機感を抱いた私が仰ぎ見たのは、部下の呆け面を上から覗き込む整った顔だった。
そして──、
「────、」
柔らかな唇が重なり、時が止まる。
耳に入る音は消え失せて、肌を撫でる風の存在も忘れ去って、胸を苛む灰色の感情は溶けて崩れる。
重ねるだけ。ただそれだけの行為に思考は溺れてしまう。
その行為に支配されていたのはほんの数秒ほどでしかなかった。
漏れ出る吐息が唇を撫でて、ようやく離れた主人の双眸が再び私の顔を覗き見る。
「………………」
彼に顔を窺われた私は、天を仰いだまま静止していた。
「死んだか」
「……しんでは、いません」
奇妙な姿勢で固まる部下に対し、ド直球で生死を問われて辛うじて否定を返す。
とは言え突然の彼の行動に正直息が止まりかけた。本日二度目の主人による殺人未遂に力尽きた私は、ふらりと彼の懐に倒れ込んで必死に呼吸を整える。
「……不意打ち且つ、久しぶりの普通のちゅーで、心臓が……たぶん一瞬止まりました……」
「そこで呆気なく呼吸も止まれば面白かったのにね?」
「これから頑張って戦いましょうって時に興味本位で部下殺さないで下さい……」
不規則な循環と動悸を繰り返す内臓を必死に抑えながら、私は部下の生命活動を止めようとした主人へ視線だけを持ち上げる。
彼の唐突な行為に、戯れ以外の意図を感じた私は一つの問いを向けた。
「……なんで、キスしてくれたんですか」
数瞬、思案げな表情を彼は見せる。
けれどすぐにその顔には艶然とした笑みが浮かんだ。
「馬鹿なことを考えている部下の思考を強制的に止めてあげようとしただけだよ」
その言葉を体現するように、私の頭に大きな手が乗せられる。
考えるのは今目の前にいる主人のことだけにしろ──と、彼の手は言葉もなく告げていた。
それだけの行為で、胸の奥に差した影は容易く晴れていってしまう。
「……荒療治ですね」
離れがたい温もりの中で放した呟きに返ってきたのは、いつもと変わらない嘲笑だった。
この先、どんな道を示されたとしても私には彼と共にいるという選択肢しかないのだろう。
行く果て──彼が主に再会した後に待つ自身の結末がどうあっても、選べるのはきっとそれだけだ。
そうしてたどった終わりに後悔はないはずだ。
──たとえ主従で見張り台に立つことが、この夜で最後になったとしても。