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長編1-4_『勇者』



「……魔族長」

 単調だった老婆の声音が初めて動揺の色を滲ませ、その存在を口にする。
 老婆の背後で怯えきっている巫女も、ロフトバードにしがみつく手をぎゅっと握り締めた。

 魔族長──ギラヒム様は恐怖という名の脚光を浴びて、その視線すら心地よいと言うように鼻を鳴らす。

「使いっ走りの老兵でもワタシの存在を知っているとはね。そこだけは評価をしてあげようか」

 満足げに口角を上げ、彼はようやく私の首根っこを解放する。地に足がついた私は無音の吐息をこぼした。
 戦場だというのに間抜けな姿を曝した羞恥心もあったけれど、主人がこの場に駆けつけた安堵がそれ以上に深いものだったからだ。

 しかし、対する老婆の警戒心は一層濃いものとなる。老婆は再び片手を上げ、金の針の幕をつくり出すことにより精一杯の抵抗を示した。
 先ほどまで変化を見せなかったはずの表情は固い。一度吹き飛ばされてしまった攻撃手段が通じると思っていないのだろう。

 それでもその姿からは背後にいるゼルダちゃんの不安を掻き立てまいとする気概が見えた。
 ……使命とはいえ、初めて出会った少女へ迷わず命を懸ける老婆の姿は、敵だというのに気高く映る。

 だがそれは、主人が手を緩める理由にはなり得ない。

「……たったそれきりの力で足掻いても、互いに得はしないだろう」

 視線を細める魔族長の言葉に老婆は何も答えない。結ばれた唇からは焦燥が滲んでいる。

 老婆が手を翻すと、抗うための覚悟を示すように金の幕が鈍く光る。
 そして間を置かず、一斉に魔族長へ向かって放たれた。

「軽い」
「っ……!!」

 こぼされた一言と共に、主人の手の黒い刃が真一文字に軌跡を描く。ほぼ同時に、金の針は細かな欠片となって砕け散った。
 剣閃はほんの数瞬空気を振動させるのみで、後に残ったのは巫女が悲鳴に代わり息を呑んだ音だけ。

 舞い落ちる金の粒の下で、ギラヒム様は魔剣の刃先を獲物へ向ける。
 彼の鋭い視線は排除すべき障害物のみを捉え、そこから先ほどまでの悦に浸った表情は消え失せる。老婆が次なる幕を召喚する前に間合いが詰められようとした──その時、

「──!!」

 敵を見据えていたはずの主人の目は、この場の誰よりも先に“異変”を察して大きく見開かれた。

「…………え?」

 ──鐘、鐘の音だ。

 直感的に思ったのはそれだけだった。
 この戦場だけではない。その音は森中に鳴り響き、私たちへ何かを告げている。

 今なお生命の危機に瀕している老婆と巫女、それらを追い詰めていた魔族の思考すらも奪う。
 この場にいた誰もが、もしくは大地に生きる全ての者が、突如現れたそれに目を奪われていた。

 空から降り注ぎ──分厚い雲を穿つ、巨大な光の柱に。

「雲を……貫いてる……」

 鈴の音の声が微かに震え、その光景を言い表した。
 淡く大地に注がれていた月明かりとは比べものにならない存在感を見せる、白緑色の光。
 本来質量を持たないはずの光の集まりは、唯一その行為を許されたかのように分厚い雲へ巨大な穴を空けている。
 数千の時、天と地を隔て続けた封印を貫いている。

 ──まるでそこから、何者かを通そうとするかのように。

「あっ……!」

 誰もがその光に圧倒されていた時、最初に動くことが出来たのはあの老婆だった。
 私が声を上げた時、老婆は背後へと引き下がって光の皮膜を作り出していた。

 私は反射的に魔剣を握り、彼女たちの元へと駆け出す。地を蹴り両手の魔剣に自重を乗せ、皮膜ごと斬りかかろうとして──、

「なっ!?」

 唐突に老婆が片手をあげ、その手に仕込まれていた物が私の視界に飛び込む。
 黒くて小さな木の実と石。──デクの実と、火薬……!!

「!!」

 瞬間。私の視界は真っ白に明転する。
 破裂したデクの実により両目と両耳の感覚が刈り取られ、耳奥から脳までをキンキンと支配する残響に侵された。

 麻痺した感覚で唯一理解出来たのは、ゼルダちゃんとロフトバードが老婆に連れられ戦場から姿を消したことだけだった。

「突っ込むな、馬鹿」
「……目と耳が痛いです」

 両目を手で覆って蹲る私の真上から、主人のため息が降ってくる。
 突撃する前にデクの実の存在に気づいて目を伏せたため、多少はダメージも軽減されたらしい。剥離していた目と耳の感覚は数秒経てば徐々に回復をしてきた。

 私はようやく戻ってきた視界に主人を映しながら、逃げた老婆の後ろ姿を脳裏に浮かべる。

「あのちっちゃいおばあちゃん、シーカー族でしたね……」

 老婆が消える直前、翻された赤い衣装の背面には大きな一つ目が描かれていた。
 暗部に生き、女神に尽くす一族──シーカー族のシンボル。

 あの老婆を使いっ走りと称した主人はそのことに最初から気づいていたらしい。これまで何度も辛酸を嘗めさせられてきた一族に対し、私は眉をひそめた。

「以前見た虚像と違ってあれは本物のようだね」
「ですね……しかも、倍は容赦なかったです……」

 ギラヒム様は何でもないことのように言うけれど、あの敵意に満ちた無数の金の針を思い返すと今更ながら冷や汗が伝う。

 一方で、私のことを知っているような口振りにはどこか引っかかるものがあった。
 記憶をたどってもあの老婆に出会った憶えはない。大地に落ちてからも、そして空にいた頃もだ。あの老婆が森を拠点に潜んでいたのなら、魔族に加担する人間として私を認識していただけなのかもしれない。
 気になりはするけれど、今は思考を巡らせるべきではないだろう。……それより今は、

「…………」

 私は森へ降り注ぐ光の柱に視線を移す。日差しや月明かりとは違い、消えることも薄まることもなく雲を貫く光。
 私たちにとってあれが良くないものだとわかっているのに、底知れぬ神々しさを誇示されているようにも思える。

「あの光、何なんでしょう」

 私が呟いた言葉に主人からの答えはない。ただ、私と同じく彼もその双眸へ光の柱を映し続けている。

「……少しだけ、こわいです」

 彼の横顔からはっきりとした感情は読み取れず、返ってくるのは変わらない沈黙のみだった。しかし否定をされることもない。

 私は気を取り直すように小さく吐息し、主人へと向き直った。

「これから、どうしますか?」

 当然、私たちがすべきは逃げた老婆と巫女を追うことだ。私が問うたのは、彼の次の行動についてだった。
 光の柱に注がれる彼の視線に、何らかの思惑を感じたからだ。

「……気になる用が出来た」

 彼は視線をとどめたまま半分予想出来ていた答えを返す。その用とやらに私は言及しなかった。

 やがて光の柱から目を逸らし、彼は振り返って歩き出す。その姿を追う私の視線に背を向けたまま彼は答えた。

「巫女と老兵はしばらく泳がせておけ。理由は……わかるね?」
「問題ナシです」

 主人の問いに私は片手で小さく敬礼を返す。
 そのまま彼の後ろ姿を見送ろうとした時、不意にその足が止まった。

「リシャナ」
「……?」

 振り向かず呼ばれた名前に私は目を見開く。
 私の返事を待たないまま、一拍置いて主人が続けた。

「その単細胞な向こう見ずは、ワタシが命令するまでとっておけ」

 その言葉に私は数度瞬きを繰り返す。金の針に腕一本持って行かれるつもりで突っ込んだことは、とっくにバレていたらしい。
 彼の声音には何の感情も乗せられていなかったけれど、それでも彼に対しての敬愛を抱き、ちょっとだけ反省した。

「……わかりました」

 部下の答えを聞き、黙ったままの主人は瞬間移動でその場から姿を消した。
 一人残された私はもう一度だけ光の柱を見遣った後、森に向かって歩き出す。

 黒の森は、あと数時間で朝を迎えようとしていた。


 * * *


 ──その話をしたのは、主人が争いの始まりを告げて少し経ってから。
 たしか、魔銃の練習に明け暮れていた頃だったと思う。

「結局……巫女って、何なんですか?」

 来たる聖戦の始まりに備えてギラヒム様と共に計画を練っていた時、ふと私の頭に浮かんだ疑問がそれだった。
 対する彼からは、部下の言葉が大して脳を介さずこぼれたものだと見透かした冷ややかな眼差しが返ってきた。

「この期に及んで部下の無知に頭を悩ませるワタシはなんて可哀想なのだろうね……」
「傷つくので本気で憂鬱そうな顔しないで下さいよ……」

 ギラヒム様の整った顔で嘆息されると傍から見て本当に私が虐めているような構図が出来上がって、余計に責められている気分になる。

 もちろん私もその存在について全く知識がないという訳ではない。
 女神の魂と役割を色濃く受け継いだ者である巫女は聖域──つまりスカイロフトに今も存在している、ということは以前ギラヒム様から聞いていた。

 しかしその存在が持つ役割の理解は、魔王様復活のために必要だという点に留まっている。
 特に、主人が女神の要地を侵す過程で知り得た情報は曖昧なままだった。
 女神の封印が施された地で得られるのは、女神の一族がいずれ大地へ還る子孫のために残した言葉だ。空には持ち込まれていない知られざる事実も多く眠っている。

 無論、女神について詳しくなったところで私がすべきことは変わらない。使命感とは裏腹に単純な興味も半分くらいはある、というのが本音だった。

 ギラヒム様も最初こそ呆れの表情を見せたものの、伝えておいて損はないと判断したのだろう。
 それ以上部下を弄ることはなく、静かに唇を解いた。

「──過去の聖戦の果て、魔王様は完全な消滅を免れ女神の封印によって眠りについた」

 そう紡いだ彼の声音はやけに無機質な響きを纏っていた。
 私は何も口を挟まずそれに聞き入る。

「その封印は完全なものではない。女神もそれは理解していた。……だから女神はいつかあの方の封印が解かれることを予期し、自らの身を人間のものへと成り下げた」
「…………、」
「力が失われぬよう、来たる時にその身を捧げるために、自身の魂を継がせ続けた。そうして出来たのが、『巫女』と呼ばれる存在だ」

 ただの生まれ変わりというだけなら、使命を自覚せずに生きられたのかもしれない。
 しかし魔王様の復活を止めるという明白な目的を持った転生体は、役目を果たすために必ず運命と対峙することになる。たとえ、その心が望まなかったとしても。

「巫女は既に生を受けている。おそらく、その身が本当は何のためのものなのかも知らずに。……やがて聖戦が始まれば、嫌でも使命を思い出すこととなるがね」

 人としての器を持つ女神の生まれ変わり。
 その身は予想通り、スカイロフトにあった。それが私の見知った誰かである予感は、この時から薄く抱いていた。

 彼は私の表情を一瞥すると、視線を細めて小さく顎を引く。

「そして……いずれ空から大地に下りるであろう存在はもう一つある」

 そこで区切った主人へ、私は顔を上げる。
 それまで皮肉と薄い憐みを浮かべていた表情は、ある存在を思い描いて両眼を歪ませていた。

「──その存在は、聖戦の果てに女神を護り、魔王様を討った。再び争いが始まる時、光に乗ってそれは現れるとされている」

 いずれ巫女と共に大地に訪れる存在。
 彼がその存在を語る時、滲む感情は部下である身が形容するにはおこがましいほどに深く、色濃いものだった。

「手には白銀の剣を携え、巫女と世界を護るべく空から降り立つ。女神はかつて、その存在をこう呼んだ」

 ──『勇者』 と。

「お前も巫女を求めて戦場に立てば、いずれ剣を交えることになる。女神の剣を手にした、『勇者』とね」

 ──そう、その存在を語る彼の目だ。
 雲を貫く光の柱を前に、主人は同じ目をしていたのだ。

 魔族が、私が、ギラヒム様が。これからたどる道の先で何度も剣を交えることとなる存在。それは巫女を導くシーカー族や亜人だけではない。

 あの光の柱が示し、導く存在。
 巫女としてゼルダちゃんを目の当たりにした時と同じように、私は抱いたことのない感情を胸に、その存在と対峙することとなるのだろう。

 そしておそらく、その人は。


 * * *


「……ここが、」

 争いの余韻は夜の足取りと共に薄れ、暖かな朝日が木々を柔らかく包み始める。
 固い地面に足をつき、その感触に戸惑う一つの声が森のどこかに落ちた。

 声の主は足に跳ね返る土の感触や耳を撫でる風の音、そして嗅いだことのない広大な森の匂いを一身に受け、両眼を大きく見開く。

 開かれた空色の目に、生まれて初めて見る光景を映して。

「ここが……大地……」

 その背に収められた白銀の剣が、応えるように一度瞬いた。