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真影編2_暗影



 昨晩の大雨が幻だったかのように、大地は暖かな陽気に包まれていた。
 何事もなかったのなら、ただただ穏やかな昼下がりだと言える気候だ。

 しかし私が行き着いたその場所に満ちていたのは、生々しい血臭と止まない苦鳴。両手を強く強く握り締め、指先からは温度が失われていく。

 負傷した魔物たちの喧騒が絶えず、雑然とした室内──魔物部屋を見回しながらようやくたどり着いたのは部屋の片隅。

「なに湿気った面してンだよ」
「…………、」

 そこには簡素なベッドに腰掛ける一匹の魔物がいた。
 その呆れ混じりの苦笑に、普段反射的に出る軽口は喉奥に詰まり、不快感を残したまま消えていった。
 そして口に出さずとも彼──リザルには、私の内心が伝わってしまったらしい。

「……起きてて大丈夫なの?」
「トカゲ族は夜行性なンだよ。寝たくても寝らンねェ時間なンだ」

 私が空から大地へ戻った時、フィローネの森は降り頻る大雨に苛まれていた。
 明け方まで足を阻まれ、帰還したのはつい先ほど。主人に状況を聞いてすぐさま駆けつけたため、私の姿は全身泥まみれだった。

 そんな状況で待ち受けていたのが、目の前の惨状だった。
 リザル率いる魔物の小隊は昨晩フィローネの森の偵察から帰還する途中、突如何者かの襲撃を受けたらしい。
 リザルを含む上位の魔物は辛うじて一命を取り留めたけれど、下位は全滅。しかも襲撃者はあえて数体を生かすよう手加減していたという。

 回復兵による治療が施された後だというのに、リザルの体に巻かれた包帯からは血が滲み、刻まれた傷の深さを物語っていた。

「ッたく、ようやく雷龍に受けた傷が治ったッてのにこの有様だ。腕がいくつあっても足りねッつの」
「……うん、そうだね」
「ンあー……、冗談も通じねェテンションか」

 見ようによっては私よりも生気のある表情をしてみせているのだから、この先輩にはいろいろな意味で敵わないと理解する。
 リザルはそんな私を一瞥し、短い嘆息を落として口を開く。

「……まあいいや。お前は聞きにきたンだろ。俺らを襲撃した奴のこと」
「…………、」

 先手を打たれ、私は反射的に頬を強張らせる。
 口を噤んで何も言い返さない私を横目にリザルは続けて、

「ちなみに、ギラヒム様には何て言われたンだよ」
「何にも。皆んなが襲われたこと以外は教えてくれなかった」
「なるほどなァ」

 上位の魔物も複数体含まれていた小隊がほぼ全滅。しかもリザルのようにあえて生かされた者もいた事実に鑑みると、敵は相当な実力の持ち主だ。考えたくないけれど、弄ばれただけという可能性すらある。

 そして私に状況だけを伝え、何の命令もせず一人どこかへ去った主人。その意図を察せないほど私も鈍くはなかった。

「そりゃアレだな。来ンなって言われたようなモンだろ」
「だと思う。……でも」

 そこで言葉は途切れた。彼が続きを促すことはない。
 私が胸中で抑えてつけているものも、そもそもここへ来た理由も、彼は端から察していたのだと思う。

 私は意を決し、正面を向いて彼の視線を受け止める。

「リザル」

 固い声音がトカゲ族の長の呼称を呼ぶ。
 そこにあるのは、親しい先輩後輩という関係性ではない。魔族長の側近から下位の者へ。拒絶することを許さない、“命令”の構図だ。

「……知ってること、全部教えて」

 室内を満たすざわめきが、やけに大きく耳に響いた。


 * * *


 ぬかるんだ地面にぐしゃりと足が浸かり、泥を含んだ飛沫が跳ねた。それを意に介さず、彼は黙々と森を進む。
 日が傾き、世界は黄昏に包まれていく。暗闇の森に立ち入る危険を本能が知らせるが、彼が引き返す理由にはならない。

 ──壊滅状態のリザルの隊を見届けた後、ギラヒムは一人、フィローネの森の深部へと向かっていた。

 リザルは重い口を開いて告げた。『襲撃者の狙いはリシャナだ』と。
 それを聞いた途端、ギラヒムは反射的に拠点を飛び出し、襲撃者を探しに森へ訪れていた。

 リザルには箝口令を敷いたが、それが無意味だということは理解していた。あの馬鹿部下は是が非でも状況を知り、主人についてくるはずだ。
 だから、リシャナが到着する前に決着をつけるとギラヒムは決めていた。

 襲撃者は夜の闇と大雨に紛れながらも正確に狙いを定め、魔物たちを翻弄したという。唯一得た情報は、ソイツが赤い目を持つ男だったということだ。

 ……随分と舐められたものだ。
 苛立ちを覚え、ギラヒムは拠点を発つ前リザルの傷口に触れた手を握りしめる。
 生々しい傷口を膿むように、意図的に残されていた微かな魔力。襲撃者は釣り糸を垂らし、到着を待っているという訳だ。

 募る憤りを舌にのせて一度弾き、むせ返るような土の匂いが漂う森を奥へ奥へと進んでいく。

「────」

 ややあって、ギラヒムは森の最奥部までたどり着いた。
 薄ら寒い空気に満ちたそこは、土に混じった血の匂いが漂っていた。地面には破損した武器の残骸や掘り返された土、そして切り裂かれた魔物の亡骸が転がっている。

 その異質な空間の中心に、一つの“影”が立っていた。

「──ああ」

 来訪者に気づいた影はゆっくりと振り返る。
 輪郭はくっきりと目に映るものの、闇そのものが動くような錯覚に陥る姿。それが持つ赤い瞳とギラヒムの視線が交わる。

「なんだ、飼い主の方が先に出て来るなんてなァ」

 驚いた口振りをしてみせながら、その顔は愉しげに歪んでいる。
 異質な空気と存在感を放ち、魔物以上の凶気を孕むその存在。

 そいつは、あの忌々しい『勇者』そのものの姿をしていた。

「……君は随分不愉快な姿をしているね。性格は随分異なるようだが」

『勇者』の影が具現化したような黒一色の容姿。加え、血のように真っ赤に染まった目と狂気を滲ませる低い声。これまで見たことのない、得体の知れない存在。
 影はギラヒムのその反応を楽しむかのように、犬歯をチラつかせた笑みを浮かべる。

「この見てくれはいろいろ訳ありでね。ただ俺は本物と違って女神に祝福されていない」
「……へぇ」

 通常、この世界の認識において“女神の祝福を授からない”ということは、魔族側に位置することを意味する。
 しかし、目の前の影は魔族ではない。近しい何かではあるが、似て非なる者だ。
 その異常性と『勇者』の姿を象る理由に興味はある。が、女神に関係のない存在ならば、長々と話を聞く道理はない。

「それにしても嬉しいねぇ、魔族の長が直々にお相手してくれるなんて」
「フン。生憎だが暇ではない。……さっさと潰させてもらうとするよ」

 短く結論づけ、ギラヒムが召喚した魔剣の切っ先を影へ向けると、飢えた獣の眼光が返された。
 鋭利な視線が交わり、張り詰めた空気が場を満たす。

「猛烈に、機嫌が悪いのでね……ッ!」

 開いた間合いを詰めるのは、一瞬だった。
 影が剣を抜く前に喉元へ刃を走らせ、断末魔すら聞かないまま終わらせる。そうして何も起こさせずに目論見を断つ。──そのはずだった。

「!」

 鳴り響いたのは肉を断つ音ではなく、鋼同士がかち合う甲高い音。
 ギラヒムが持つ魔剣と似た漆黒の刀身が、影の喉元を分かとうとした斬撃を防いでいた。多少読まれていたとは言え、速い。

「これだけで驚くなよ、魔族長サマ。すぐ終わるのはつまんねぇだろ?」

 影はぐにゃりと口を三日月型に歪めて、嗤う。嘲りを滲ませたその声に、ギラヒムの苛立ちが募る。
 ……お望み通り、泣きながら命乞いをさせてやろう。

 再び相手の間合いへ斬り込む。詰める速さに自重を加え、斬撃を防ごうとする影の剣を弾き、防御を崩していく。
 影は魔剣が体を裂く前にそれを受け止めるが、構わず第二、第三の追撃で攻める。刃先が影を穿とうとする直前に防がれては、火花が散った。

 傍から見ればギラヒムの一方的な攻勢が続く。それでも影は愉しげな表情を崩さないままだ。

「さっすが魔族長サマだなァ! 昨日戦った雑魚とは違ぇや!!」

 赤の瞳孔が細くなり、獣のような牙を剥き出しに影は笑う。
 いちいち癪に障る声だ。ならばその声ごと断ち切ってやるとギラヒムが大きく踏み出し、頭から一閃を下した。

「!?」

 しかし肉を断つ感触どころか、ギラヒムの手には虚しく空を切る感覚だけが残る。

 ……消えた?
 あの影を目で捉えて離さなかったはずなのに、姿は視界のどこにも見えない。どこかに潜んでいる気配はあるものの、巧妙に隠されているのか場所が掴みきれない。

 ギラヒムは魔剣を構えたまま息を止め、周囲に意識を張り巡らせる。そして、

「──!!」

 空気の揺らめく気配と足元の水溜りが弾ける音を察知し、咄嗟にその場から退く。

 影は気づかぬうちに、ギラヒムのすぐ背後にいた。
 耳元で空気を切り裂く音が過ぎ去り、続けて振り下ろされる二撃目を魔剣で受け止める。

「あれは避けられるんだねぇ、やっぱ」
「っ……、」

 片手で受け止めたとはいえ死角から襲った速く、重たい剣撃にわずかに押され、ギラヒムの舌打ちが弾けた。

 だが攻守を転換させる気はない。振り下ろされる斬撃を敢えて往なし、ほんの一瞬出来た隙にすかさず斬り込む。
 影はわざとらしく声を上げ、背後に飛び退いた。

「…………」

 ギラヒムはその姿を目で追い、思考を巡らせる。
 ──姿を消す能力。たった今起こった現象から推測される影の力。『勇者』とこの影の関係性は不明だが、奴は独自の能力を備えているらしい。
 避け切れないほどではないが厄介ではある。封じておくに越したことはないだろう。

「ククッ……楽しいなァ」
 
 ギラヒムが薄く歯噛みをして睨みつけると、影は耳障りな嗤い声を残し、溶けるように消えていった。
 その消え方は姿を消して闇に潜む霊体の魔物を連想させる。が、影の攻撃方法はそれと微妙に異なる。

 考えているのも束の間、再び死角から影の斬撃が襲い掛かってくる。
 反射的に振り向き刃を振るうが、魔剣の刃に切り裂かれるのは空気のみ。そちらへ気を取られていると、反対側から影の黒剣が襲う。

「くッ……!」

 数度目の剣撃に防御が間に合わず、影の刃がギラヒムの二の腕を浅く裂いた。血液が散ることはないが、熱を持った痛みに刹那目を見開く。
 それを見遣った赤い目に悦楽の感情が走り、もう一太刀を浴びせようと一歩踏み込んでくる。──しかし、

「調子に乗るなッ!」
「!」

 次は影の剣が虚空を切る番だった。
 ギラヒムは自らの瞬間移動を使い、すかさず影の背後をとる。そのまま影が振り向く隙も与えず、一閃を斬り下した。

 影が先ほどまでのように逃げ消えることはなかった。
 魔剣の斬撃は避けきれなかった影の頬へ一筋の創傷を与え、刹那表情を歪めた影は追撃を躱し、即座に距離を取った。

「ハッ、同じ手を使ってくるとはなァ……」

 その頬から流れる血は、赤い。
 実体があり、人間と同じく血液を流す。……少なくともこの影は、幽霊や精霊の類ではないらしい。

 影は血を拭うことなくニヤリと口元を歪める。
 泥で濁った水溜りに、その頬から流れた血の雫がポタリと落ちた。

「俺も普通の存在とは言えねぇが……お前もフツーの魔族って訳じゃあなさそうだな」
「ご想像にお任せするよ。君と長く話す気分ではないからね」
「釣れないねぇ……」

 影が一度地を踏みしめ、再び姿を消す。

 ……やはりそうだ。
 闇に呑まれて消えた影を目にし、ギラヒムはある“確信”を持つ。
 片手で魔剣を構えたまま、彼はその時を待った。

 音も気配も感じさせず、闇そのものとなり影は潜む。
 静寂が訪れると、木々の騒めきに混じって泥濘の水が揺らぐ音すらも耳に届いた。

 ──そして音もなく真後ろに姿を現した影へ、ギラヒムは振り返ることもなく指を鳴らして、

「なッ……!?」

 パチンという小気味の良い音とともに、背後の影へ召喚した無数の刃が向けられる。
 保たれていた余裕の表情は崩れ、短刀の雨は容赦なく影の元へと襲いかかった。

「ちぃ……!」

 黒剣で弾ききれなかった数本は影の腕と地面へと突き刺さる。さらなる追撃は躱されたが、止むなく影は間合いを開いた。

 ギラヒムが悠然と振り向き、交えた赤の視線には微かな憎悪の炎が宿っていた。

「……気づきやがったか」
「単純な仕掛けだったからね。……ここにある数か所の水溜り。君が潜めるのはこの中なんだろう?」
「流石だねぇ」

 影が姿を消す直前、その足元には必ず水溜りがあった。姿を現す際も同じくだ。斬り込まれる度に水の揺らぐ音が聞こえたのも、影が移動の媒介に使っていたからだろう。
 昨夜の豪雨によりところどころに水溜りは出来ているものの、出てくる場所がわかれば先手は打てる。

 ──しかし、時間をかけすぎた。リシャナがここにたどり着いてしまうまで、猶予は残されていない。

 影は再び低い嗤い声を残してその場から姿を消し、戦場に数度目の静寂が訪れる。
 懲りず同じ手を使うつもりならちょうどいい。次で終わらせてやる。

「────、」

 そう考える一方で、影が消える直前に見せた深い笑みがギラヒムの胸中で燻っていた。未だ余裕すら含む、得体の知れない笑みが。

 やがて訪れた静寂を裂いたのはギラヒムと影、そのどちらが動く音でもなかった。

「──マスターッ! 後ろですッ!!」

「ッ!?」

 戦場に響き渡ったのは、部下──リシャナの声。
 考える前にギラヒムは背後へと振り向き、目先にまで迫った剣を間一髪で受け止める。

 影の足元に水は存在しない。奴が媒介にしていたのは先ほどギラヒムが召喚し、地面に刺さったままの短刀。
 数瞬遅ければ、影の黒刃はギラヒムの身を斬り裂いていた。

 そして獲物を仕留め損ねて奇襲に失敗したはずの影は、これまで見せなかった満たされたような笑みを浮かべていた。

「……やっと、来たな」

 その視線が捉えるのは、たった今ここへ来た、部下の存在。

「え……」

 赤い視線に絡めとられたリシャナが小さく声を上げる。咄嗟にその目的に気づきギラヒムが進路を断とうとするが、間に合わなかった。

 影は姿を消し、一瞬にしてリシャナの目の前にまで迫る。
 そのまま──リシャナの両眼を、片手で覆うように鷲掴みにした。

「──ッ!!」

 唐突に視界を閉ざされたリシャナは一瞬呆気に取られたが、一拍置き、彼女の喉奥から声になり切らない悲鳴が上がる。
 同時に、両眼を覆う影の手からは黒い光が散り弾けた。

 ……まさか。
 リシャナは無我夢中で魔剣を抜き、横一閃に剣を振るう。が、刃が影を捕らえることは無い。
 両眼を覆った拘束から解放されたリシャナは逃れた影を追うことも出来ず、指先を震わせながら俯いていた。

「リシャナ……!」

 主人が名を呼ぶ声に、リシャナはゆっくりと顔を上げる。しかしその目がギラヒムを見つめることは、なかった。

 焼けつく熱から守るように、リシャナは両眼を手で覆っている。指の隙間から覗く見開いた目は焦点が合わないままふらふらと彷徨っていた。

 それを見た影は笑みを浮かべ、リシャナは震える声で問う。

「何を、したの……?」
「お前の身に起きてること、そのままだよ」

 その異変を、ギラヒムは理解した。
 瞼は開かれているはずなのに、リシャナは見えない覆いを被せられているかのようにペタペタとそこへ触れている。何度それを繰り返しても、リシャナが真っ直ぐに視線を上げることはない。

 ──リシャナの世界から、光が盗まれたのだ。

「視力を、奪ったのか……!」

 半ば確信を持ったギラヒムの問いかけを、影の低い嗤い声が首肯する。

 次の瞬間、ギラヒムは愚者への嘲笑を浮かべる影を魔剣で斬り裂いていた。

「遅いな」
「!」

 影は姿を消し、追撃の及ばない距離を保った場所へ現れる。
 荒い呼吸を繰り返し、跪いたリシャナの目の周りには黒い痣が浮かび始めている。魔力により、呪われた証だ。
 
「さあ、遊びの準備は整った」

 影は宣告をする。
 ギラヒムはその姿を睨み、リシャナは声を探りながら息を詰める。

「そこの半端者の視力を返してほしければ、俺を追ってこい。方法は、わかるよな?」
「ふざけるな……ッ!」

 魔剣が振り下ろされる前に、影の姿は溶けるように歪み、やがて霧散した。今度は気配も足取りも、何も残さずに。

 争いは唐突に幕を閉じる。
 静まりかえった戦場には、絶望の香りだけがただただ漂っていた。


(230920改稿)