series


過去編5_Birth



 その日は朝から島全体に暗澹たる空気が満ちていた。
 昨晩降り続いた雨は明け方にはようやく止んだようだ。けれど太陽を隠す灰色の雲は依然晴れておらず、強風が吹くたび建物全体がガタガタと揺れている。いつまた雫が落ちてきてもおかしくない空模様だ。

 昨晩の宣言通り自力で目を覚まし、外を眺めていたわたしは街を包む不穏な空気に眉根をひそめた。

「う……ひっどい顔……」

 鏡で確認した自分の顔は二日連続の睡眠不足に加え号泣までしてしまったからか、見ていられないくらいに酷いものだった。
 さすがに何も知らない同級生に驚かれてしまいそうなので、自室を出る前にケープを羽織り、フードを深めに被って外に出た。

 騎士学校へ向かう道すがら、強烈な風が駆け抜けるたび体ごとなぎ倒されそうになる。
 そこかしこで作業をしている慌しげな大人たちの話に耳を傾けると、スカイロフトに嵐が近づいているそうだ。ロフトバードたちも異変を察知し朝から落ち着きがないという。

 たしか昨日の時点では明け方に雨が止んでその後は青空が広がる……と気象学者が話していたらしいのに。唐突な異常気象というやつなのだろうか。

 なんてどこか他人事のような感慨に耽りながら、わたしは自分の教室へと足を進めた。


「……ん、」

 早めに登校したせいか、教室には同級生の姿が全く見当たらなかった。
 ──が、何やら作業をしているアウールせんせいがそこにいて、短い吐息と共にわたしの足が止まる。

 一瞬引き返そうか悩んだけれど、答えを出す前に双方の視線は重なっていた。
 わたしは音もなく深呼吸をして教室に踏み入る。せんせいは数瞬何かしらの考えを巡らせた後、再び作業の手を動かしながら口を開いた。

「眠れたか?」
「うん……まあまあ」

 決して眠れた顔はしていなかったけれど、普段通りの返事をすることが出来た。せんせいも「なら良かった」と返し、二人の間で無言の笑みが交わされる。
 互いに、昨晩のことを掘り起こそうとはしなかった。

 それからしばらく経っても、同級生は誰一人として教室に訪れなかった。
 せんせいの話によると、皆自身のロフトバードの保護や、実家の補強に時間がかかっているらしい。
 そういうわけで、午前中の授業は遅れてくる生徒がほとんどとのことだった。

 無言で二人きりというのも気まずいので、わたしはせんせいの作業を手伝うことにした。
 教室の外でも大人たちは慌しげだ。少なくとも今日一日はずっとこのままだろう。

「大変そうだね、みんな」
「ああ、唐突な嵐と聞いて早朝から皆慌てている」

 嵐がくるなんて滅多にないことだから街中が混乱しているのだろう。既に補強をし終えた教室の壁ですら、不安を掻き立てる軋音が立つ。

 スカイロフトがこれからどうなってしまうのか、誰にもわからなかった。


 結局、午前中の授業は全て中止になった。
 スカイロフトの皆が嵐の対策をしていたが、それでも人手の足りない箇所が出てきたため、衛兵だけでなく騎士学校の生徒たちも手伝いに駆り出されることになったからだ。
 わたしはロフトバードの小屋に近づけないため、建物の補強の手伝いを任された。その間も気を抜けば島の外に飛ばされるんじゃないかというくらい凶悪な風が何度も吹いていた。

「…………、」

 手を動かしている間、わたしの思考はずっと上の空だった。
 胸がざわざわする。朝から……いや、昨晩から、頭の中で響く声が強くなっている。

 嵐に乗って声の主が来ようとしているのだろうか。もしくは既に来ているのだろうか。
 根拠のない予想をたてては打ち消して、作業に集中した。

 纏わりつくような湿度と温度を保った生ぬるい風は、途切れることなく島を撫でていた。


 午後になる頃には皆の作業も落ち着き、あとは普段通りの授業の時間となった。
 嵐は午後から夕方にかけて通り過ぎる見込みらしく、生徒たちは下手に家へ帰すよりも大きく頑丈な作りの騎士学校から出ないほうが安全だと判断された。
 既に建物内へ避難しにきている住民もいるらしい。

 ホーネル先生の声を思考の端で聞きながら、灰色の空に視線を寄越す。
 朝よりも一段と暗くなった空。まだ昼になったばかりなのに、すぐに夜を迎えそうだ。

 時折強い風が吹いては建物中がガタガタと揺れる。細かな雫が窓を濡らし、雨が降り始めていることがわかった。

『──リシャナ』

 声が、聞こえる。
 眠気は感じないはずなのに夢の中にいるように頭がふわふわしてる。
 姿が見えずとも、すぐそこで呼ばれているような感覚。声の主の吐息すら聞こえてしまいそうな。

「──!」

 その思考を遮断するように、一際強い風が吹き付けた。
 建物全体がガタンと大きく悲鳴を上げ、不安を感じた生徒の何人かが外を見遣った。

「……?」

 するとその時、斜め前の席の同級生の視線がどこかへ縫い留められていることに気づいた。現実味のない光景に目を見張り、口はぽかんと開かれている。
 視線を巡らせれば他にも同じような顔をした子や、「おい、あれ……」と仲間の肩を叩いて外を指差す子もいた。
 わたしもつられ、皆の視線をたどってゆっくりと首を捻る。

 瞬間、稲妻が走ったような叫び声が教室中に響き渡った。

「──竜巻だッ!!」


 * * *


「竜巻……!?」

 騎士学校のバルコニーで外の様子を窺っていたアウールの口から、驚愕の声がこぼれ落ちた。

 普段鳥乗りの授業で使う広場。その空の向こうに、本来目に見えぬ風が一堂に会したような渦が生まれていた。

 目測でスカイロフト本島から数千メートル離れた場所といったところか。しかしそれは進路にある風を集め、少しずつ成長しながらこちらへにじり寄ってきていた。

 反射的に駆け出し教室へ向かうと、先に異変に気付いた職員が声を張り上げて生徒たちを避難させていた。
 外に面した部屋は危険だ。なるべく窓が少なく大きな部屋に逃げなければならない。

 アウールもそこへ合流し、不安げな表情の生徒たちを落ち着かせながら誘導に徹した。
 が、口では「大丈夫だ」と言いながらも、彼の胸中は得体の知れないざわめきに侵されていた。

 あの竜巻がスカイロフトを襲ったとして、果たして建物や人々は無事で済むのだろうか。
 そしてそれ以上に、何か恐ろしいことが起きようとしているのではないだろうか──と。

 判断が早かったこともあり生徒や寄宿舎に住まう者、騎士学校付近の住民と、各々の避難は完了した。
 それでも成長規模が未知数のあの竜巻に対しどこまで耐えられるのか、あとは神頼みでしかない。

 外に出て様子を確認したい衝動を抑え、生徒たちの方へ視線を戻した──その時だった。

「……?」

 ふと目にした光景に、違和感を覚えた。
 ざわざわと速まる鼓動を抑えながらもう一度室内を見回す。見回せば見回すほど、心臓は早鐘を打ち、嫌な汗が伝う。

「まさか……!」

 アウールは彼と同じく生徒の引率をしていたホーネルのもとへ早足で歩み寄り、祈る思いで尋ねる。

「ホーネル。誘導の時、リシャナはいたか?」
「リシャナ……? いや、見ていないな」

 同じ顔立ちをした彼は双子の兄弟の焦燥に戸惑いながらも答えを返す。
 間違いであって欲しいという願いが絶望に浸り、脈拍が加速していく。

 気づいた時にはその場をホーネルに押しつけるように任せ、アウールは騎士学校を飛び出していた。

 何も考えられぬまま広場に飛び出し、少女の姿を探そうとする。
 だがその前に、逃れようのない運命は無慈悲にも視界へ映り込んできたのだ。

「なんだ、あれ……!?」

 こぼれ落ちた声音は震えを隠しきれていなかった。

 その竜巻は──スカイロフトを飲み込む巨大な生き物のように成長し、島の目前にまで迫ってきていた。
 まるで両手を広げた巨人のように、島を丸ごと食らい尽くしてしまうほどの風の化け物がすぐ、そこに。

「!!」

 そして、見つけてしまった。
 巨大な竜巻に魅入られるように、島の淵に立ちつくす小さな人影を。

 彼はその名を、叫ぶ。


「──リシャナ!!」


 * * *


 小屋にいるはずのロフトバードたちのぎゃあぎゃあという甲高い鳴き声が風に乗って彼方へ響く。それは全てを飲み込む竜巻の轟音に掻き消され、わたしの耳に届くことはなかった。

 その中で、直接脳髄を揺らすようにわたしの頭へ声が反響する。

『リシャナ』

 ──わかってしまったのだ。
 あの竜巻から、声が聞こえると。

 わたしは導かれるように、感覚の全てを絡め取られてしまったように、そこから目が離せなくなっていた。
 その人は優しげにも愛おしげにも聞こえる声色でわたしの名を呼び続けている。

『リシャナ』

『──帰っておいで』

 ……帰る?
 この竜巻の先に、帰る場所が、ある?

 言いつけを守るように、付き従うように、わたしの足は無意識に声が誘う方へと吸い寄せられる。
 竜巻に向かって、足場の途切れるその間際まで──。

「──リシャナ!!」
「……え」

 そうしてあと一歩でわたしを支える地面が無くなろうとした瞬間、耳に飛び込んできた誰かの呼び声は取り憑かれていた思考を一気に現実へと引き戻した。

「せんせい……?」

 気づけば島の淵にわたしは佇んでいて、巨大な風の化け物は眼前にまで迫ってきている。早く逃げないと、巻き込まれてしまう。
 わたしは咄嗟に後退り、踵を返して彼の元へ戻ろうとする。──だが、

「ギャアッ!!」
「!?」

 引き返すことは許されなかった。
 せんせいの元へ駆け出そうとしたわたしの耳をけたたましい鳴き声が劈き、無数の爪とクチバシが襲いかかってきたからだ。
 どこかの小屋から抜け出した、ロフトバードたちだ。

 まるでこれ以上の島への侵入を妨げるように、彼らはわたしを攻撃する。たくさんのロフトバードに襲われ自分を守るのに必死で、鳥避けの銃を腰から抜くこともできない。すぐそこにまで竜巻は迫っているというのに。

 風が暴れる轟音がその圧力で体ごとを裂くように響き、見えない手で殴られたように大きく煽られる。

 ──そして、

「──リシャナ」

「あ……」

 はっきりと、その人がわたしの名前を呼んだ。

 息を呑んだ瞬間、わたしの体は宙に浮き、無数の見えざる手に引き摺られるようにして──落下していた。
 せんせいがわたしの名を叫び、手を伸ばしながら駆けてくる姿が網膜に焼き付いた。

「────、」

 スカイロフトの地面は急速に離れ、どんどん小さくなっていく。わたしがこれまで生きてきた島はこんなにも狭かったのかと刹那思った。

 唸る風の哄笑に聴覚を支配されながら、わたしは悲鳴を上げることもなく意識を手放すように瞼を伏せる。
 この竜巻に全てを委ねるように。眠るように。……消えてしまうように。

 ──その瞬間だった。

「──リシャナッ!!」
「……!!」

 耳を支配する風音の合唱の中、一つの声が鮮明に響き、わたしは再び顔を上げる。

 閉じかけた瞼を無理矢理持ち上げると、鳥に乗ったせんせいがわたしに手を伸ばしていた。
 風に煽られながらも、わたしの体を逃すまいと懸命に鳥を操り追いかけてくる。

「手を伸ばせ、リシャナ!!」

 わたしは風にもみくちゃにされながら手を伸ばし返す。
 わたしの後見が決まった時、差し伸べてくれたその手を、もう一度掴むために。

 わたしに追いついた指先が薄皮をかすめ、せんせいの顔に安堵が浮かぶ。──しかし、

「──!?」

 手を握ろうとしたその時。
 逃してあげないと言うようにゴオと竜巻が唸り、わたしの体は一切の抵抗も出来ず吸い寄せられていった。

 せんせいとの距離は一瞬にして遠ざかり、わたしの名を叫ぶ声だけが耳奥に残った。


 * * *


「リシャナッ!! ……くそッ!!」

 掠めたはずの少女の指の熱すら風に奪われ、アウールは爪が食い込むまで手を握りしめる。

 すぐさまロフトバードに命じ直し、吹き荒れる風と全身をかき混ぜられる圧力と戦いながらほとんど見えなくなってしまった少女の姿を追う。

 あの手だけはもう一度つかまなければならない。たとえどんな無茶をしたとしても──!

「アウールさん!! これ以上は危険です!!」
「なっ……!」

 その決意で竜巻の中心へ飛び込もうとした彼を、パトロールの警備兵とロフトバードが止めに入った。
 アウールが乗るロフトバードも警備の職務を担う者には主を守るためにも逆らってはいけないと理解しており、その翼を止める。

 彼はそれでもなお、少女の名を叫んだ。

「止めないでくれッ!! リシャナが……あの竜巻の中に!!」
「今すぐここから離れないとあなたが危険です!! 生徒さんの捜索は必ず我々で行います! だからどうか……!」

 警備兵は市民の命を守るためにもここは引けない。それ以前に彼らを無理矢理押し切ったとしても、空を駆ける彼自身の翼である守護鳥は主の命を最優先に行動するため、あの凶悪な竜巻の中に彼を乗せて突っ込むことは絶対にしない。
 そこまでを理解し、止め処ない絶望と無力感が澱のように彼を支配していく。


 ──そして、彼と警備員が島に引き上げたわずか数分後。
 スカイロフトに上陸する直前に、竜巻は急激に勢力を弱め、何も残さず散っていった。

 まるで、一人の少女の存在を空から掻き消すこと、それだけが目的だったかのように。


 * * *
 

「────」

 わたしはおちていく。
 竜巻は一度わたしを食らったものの、風が永遠に人を抱えることはない。

 視界に広がるのは、いつも見下ろしていた果てしない雲の層。白一色の世界を、わたしはただひたすらに落ち続けている。
 ごおごおと鼓膜が破れそうな風切り音は一体いつまで続くのかわからない。もしかしたら、一生続くのかもしれない。

 この先にあるのは、何なんだろう。それ以前に先はあるのだろうか。
 声の主が示した帰る場所とは、この雲海のことだったのだろうか。
 暑くも寒くもない、感覚すら曖昧に消え失せる世界で。途切れかけた意識は、ぼんやりとした安寧に浸っていた。

 いっそ、このまま眠ってしまいたい。眠ったまま消えられたのなら、それはとても幸せなことなのかもしれない。
 手を伸ばしてくれたせんせいの無事だけを祈って、眠りにつけるなら……それで。

「──!」

 ──だが、雲に抱かれた安息の時間は唐突に終わりを迎えた。

 万物が吹き飛んだかのように、騒々しかった轟音が一瞬にして止む。
 同時に肌に触れたのは、風に包まれているというのに暖かく穏やかな空気。嗅いだことのない匂いと、心地よい無音の空間。そして、

「ここ……は……」

 視界に飛び込んできたのは──四方の彼方にまで広がる、果てしない大地。

 生命が芽吹き、温かな活力に満ちた深緑の森と、柔らかな草原。
 その先にはスカイロフトの広場を何千倍も大きくしたようなクリーム色の砂地が。また別の方向に目を向けると、うっすら黒煙を吹き出す雄大な山々が見える。

 空の住人からは神話の地とされ、分厚い雲に閉ざされていた世界。そこに陽光が届かずとも、懸命に生きる無限の命が満ちている。
 たとえ太陽が見えなくとも、それらはキラキラと輝き、わたしの目に映り込む。

 ──今まで生きてきた中で、最も美しい光景。
 空が狭く、大地が広いと突きつけられた瞬間。

 わたしはその大地に抱かれるような感覚に沈み、静かに意識を手放した。


 *

 *

 *


 抱いた疑問の答えは単純なものだった。
 わたしは目を開かずとも知っていたのだ。

 名を呼ぶ誰かの子宮に自身がいることも、名を呼び続ける胎児の正体も。
 自身の生まれる理由と、胎児に見えた血の色も。

 だから問いかけずとも、答えはわたしが持っていた。
 知っていたのに、目を閉じていたのだ。

 わたしが最初から問うべきは、あなたの名前。
 ただそれだけだった。

『私』はある朝、貴方と目を覚まし、何でもないふとした拍子に気づいたのだ。
 生まれた胎児が外の空気を吸い始めるように、自然に。

 
『わたし』がずっと目を閉じていた理由を。


 *

 *

 *


 いつのまにか、目が覚めていた。
 うっすらと開いた視界に映るのは籠の中の小さな魔石と、薄暗く照らされた天井。

 ──部屋だ。
 その認識を引き金に、わたしの記憶は徐々に蘇り始める。

 スカイロフトに近づいた嵐。竜巻の声。ロフトバードの爪に裂かれた肌の痛み。急速に離れていく故郷。手を伸ばしたせんせい。分厚い雲海。──見はるかす、広大な大地。
 そこまでを思い出し、無造作に投げ出された指先が固く平らな床を撫でた。地面ではない。完全な屋内だ。

 刹那、今蘇った記憶の半分は偽りで、ここはもうあの世なんじゃないかと思った。わたしがあの大地に落ちたとして、生きていられるはずがない。
 仮に生きていたとしても、大地に住む人間なんていないはずだ。それなのに今わたしが倒れている場所はどう見てもヒトの住処のようだった。

 ……おそらく前者だ。死んでしまったわたしが見ている夢なのだと、無理やり思考を終えようとした。
 しかし、その終止符を一つの声が強制的に引き留めた。

「……目が覚めたようだね」

「!!」

 低く囁かれたその声に、わたしは横たわっていた身を起こし、曖昧に揺れていた脳を覚醒させる。
 それは今まで聞いていた近くにいるようで姿がない、つかみどころのない声ではない。はっきりとした肉声だった。

「────」

 ──わたしの目の前には、一人の男がいた。

 男は楽しげに、幸福に満たされた笑みを浮かべていた。
 乱れのない白髪に整った顔立ち。片目は長い前髪に隠れていて見えないが、もう片方の黒目はわたしの放心した表情を映し、愉悦を滲ませていた。
 血の色をした赤いマントを纏い、華奢なようで筋肉がついた男性的な腕がその下から覗く。すらりと伸びた細く滑らかな指が、自身の姿を目に焼きつかせようとわたしの顎を掬った。

 一見紳士的に見える手つきには、決してわたしを逃そうとしない意志が見え隠れしている。直感的に彼が“普通でない”と、悟る。

 何より、数秒前に耳にした男の声は、聞いたことがある。いや、ずっと聞いていた。

 そこまでわたしが認識するのを待っていたかのように、男の赤く長い舌がぺろりと舌舐めずりをする。蛇を思わせる獰猛さがわたしを射抜き、素直に恐怖心を抱く。

 ──しかし、それ以上に、
 わたしは彼が口にする言葉を、待っていた。期待をしていた。 
 彼が何を伝えようとしているか、知っていた。

 彼はわたしにたった一言、告げる。


「──おかえり」


 ああ……やっと、“かえった”──。

 砦が決壊したように、涙が溢れ出す。わたしはそれを留めることが出来なかった。
 体を満たしていく奥深い安心感を理由に、涙を拭うことは叶わなかった。

 わたしの涙すら予想通りだったと言うように男は嫣然とした笑みを深め、細い指をわたしの輪郭に沿ってなぞらせる。頬に伝った滴が彼の指を濡らした。

「恥ずべきことではないよ。ワタシの美しさと麗しさを前にして同じように涙を流す者も多い。……ただお前の場合、それ以上に安息を得たという意味合いが強そうだ」

 彼もわたしと同じ理解をしていた。

 ずっと名を呼ばれていた理由も、わたしがここに来た理由も、自身の命の理由さえも理解する。
 目の前の男が言葉を継ぐ度、それは確信から事実へと姿を変えていくのだ。

「ああそういえば……お前はまだワタシの名を知らないのだったね」

 男の指が白い髪を梳き、前髪で隠れていた瞳にわたしが映る。
 薄い唇が弧を描いて、わたしはその声で紡がれる名を永遠に魂へ刻むこととなる。

「ワタシは魔族長──ギラヒム。この大地の魔族を統べる者」

 魔族長。
 心臓が鳴り、指先に巡る血すら騒めく感覚。わたしの中の血の一滴一滴が意思を持ったように。

「そしてリシャナ。お前は──ワタシのために生まれてきた。ワタシに尽くし、ワタシのために戦え。それがお前の、生きる理由だ」

 ようやく知った、『私』の生まれた意味。
 乾いた大地に水が染み込んでいくように、心地の良い納得感が体を満たしていく。
 その理由は空への敵愾心や憎悪ではない。彼への恐怖心でもない。

 “かえること”を成した、安心感。ただそれだけだ。

「はい。──ギラヒム様」

 私は一度頷いて、涙を流す。
 生まれたての赤子が産声をあげながら涙を流す、それと同じ行為。


 そして、胎児の夢は──終わりを告げた。


Birth