長編5-4_辺獄
──わたしはその場にしゃがみ込み、じっと黙祷をする。やがて息をこぼし、この子を埋めるための地面を探した。
こんなところまで衛兵がやって来る可能性は限りなく低い。が、わたしはどうしても魔物の死体を彼らに見つけられたくなかった。
彼らに見つかったなら、その死体は“どこか”へ持って行かれてしまうからだ。
数メートル離れた場所に柔らかな地面を見つけ、一つ呟く。次いでわたしは途中で拾った太めの木の枝で土を掘り返し始める。
湿った土の匂いを嗅ぎながらわたしの脳裏に浮かぶのは、過去に見た魔物たちの亡骸を運ぶ衛兵たちの姿だった。 ◆◇◆◇◆◇
「……女神像」
舌にその名を乗せると、ざらつくような、砂を噛むような不快感が口の中一杯に広がった。それは私自身の精神性ゆえか、それとも魔族としての本能的な拒絶なのか。結論を出す気にはなれない。
そんな私の心持ちとは裏腹に、月の光に照らされた女神像は昼間とは違った神聖さをたたえ、湖のように澄んだ静寂を保っている。
慈愛の微笑みを浮かべてスカイロフトの眠りを見守る女神像の姿を、私は両の眼で睨んでいた。
女神像の島へはスカイロフト本島から橋を一つ渡ればたどり着ける。
そこは空の住人にとっては祈りの場であり、神聖な聖域だ。……対し、『半端者』である私にとっては近づくだけで全身の血が逆流する感覚に襲われる忌み地である。
だからこそ、あの場所には空を離れてからも滅多に近づくことはなかった。必要最低限の情報収集を無理やり済ませ、マスターの命令が無ければ目を向けることすらしなかった。
なのに、今私はスカイロフト本島と女神像の島を繋ぐ橋を目の前にしている。
主人からの命令は受けていないし、大精霊との決戦前にわざわざあんなところに訪れる必要性もない。
ただあの占いを引き金に、記憶の奥底に眠る長年の疑問と、わずかに刺激された好奇心に背中を押されて来てしまっただけだ。
そう、それは──、
『──もしかしたら女神像にもまだまだ謎が隠されてるかもしれないって。例えば中に入れるとか……後は、島の中にも秘密の入り口があるのかも、とか』
遠い、鈴の声音の記憶。
それを聞いたのはたしか、私が空から落ちる一年くらい前。騎士学校の同級生四人で、真夜中の肝試しに出かけた日のことだ。
結局、あの噂の真相と出所は今でもわからない。鈴の声音の持ち主も、あくまでも小耳に挟んだ程度に聞いた噂話だったのだろう。それ以前に真相なんて存在しない、島の子どもたちが作った空想のお話の可能性だって充分にある。
それでも私がその噂を忘れられなかったのは、あの夜に見た光景が未だ脳裏に焼き付いているからだ。
その光景を目にしたのは女神像の島。……いや、
「────」
──女神像の、下層部。
音もなく吹いた風が全身を撫でて、手のひらがじんわりと嫌な汗をかいていることにようやく気づいた。……私は何をこんなに恐れているのだろう。
空の世界よりも大地の方が危険に満ちているし、そもそも死ぬような経験だって何度もしてきたはずだ。万が一思わぬ敵に出会したとしても、今の私には戦う手段がある。
だからただ、この好奇心と長年の疑問に何らかの形で句読点が打てればいい。
あの場所に行って、何もなかったと確認する。……それだけでいい。
「……うん」
私は脳内で冷静な判断を下すもう一人の自分に頷き、一歩踏み出す。
キシリと音を立てた木の橋は、私を誘うようにゆらゆらと揺れていた。
*
女神像がいくら巨大な建造物とは言え、スカイロフト本島に比べると島の広さ自体は半分程度だ。だから、早歩きで進めば時間をおかず女神像の敷地が見えてきた。
一方で空の人間としての血と魔族の血がせめぎ合い、血流に反する感覚──聖域酔いは、予想していたよりも酷く、私の平衡感覚を侵し始めている。
呼吸を整えるために深く息を吸うと、同時に湿った土の匂いが鼻を掠める。昼間はあんなに晴れていたのにここはいつでも湿っぽい。どことなく大地にある遺跡と雰囲気が似ている……のは、ここがもともと大地に存在していた地だからなのだろう。
スカイロフト本島に比べれば、この島は数千年前の遺物が多く残っている。それこそ女神像は──数千年前に魔王様とその剣が引き裂かれる瞬間を目にしていたはずだ。
「…………」
そこまで考え、余計に気分が悪くなってきたためその思考は無理やり打ち切ることにした。
冷や汗を雑に拭い、私は気を取り直してざくざくと地面を踏みしめ島の奥へと進む。
それにしても、スカイロフト本島に比べてここで思い出す記憶は嫌なものばかりだ。肝試しの夜も体調を崩してゼルダちゃんに介抱されてしまったし、本島に比べて面白いものもないし。あとは──、
「……ロフトバードに初めて襲われたのも、ここだっけ」
足を止めて短く呟けば、肩に刻まれた古傷が鈍くうずいた。
あれはまだ、自分がどんな存在なのかも知らず、ロフトバードとの出会いを夢見ていた頃だ。
覚えているのは、何故自分が襲われたのかもわからず、鋭く光るクチバシと爪にただただ怯えて、「誰か助けて」とひたすらに祈っていたこと。
そして──『わたしに空を飛ぶ資格はない』のだと、理解をしたこと。
思わず自嘲の笑みがこぼれてしまう。“祈りの場”で祈った結果、つけられたのは一生消えない傷跡だ。あの頃はまだ悪いことなんてなーんにもしていなかったのに、罰を先取りするには早すぎたんじゃないかと思ってしまう。
そもそも、幼い頃は女神像に近づいてもここまで気分が悪くならなかったような気がする。……年なのかなぁ。自分の年、知らないけど。
なんて勝手に妄想し、勝手に落ち込んでトボトボと歩いて数分。思いのほか目当ての場所を見つけられず、まさか見逃したのだろうかと思い始めた頃に、私はようやく“それ”を見つけた。
「……あった」
そこは参道から外れた道の、草が伸び放題に伸びた茂みの奥。不自然に草がかき分けられた先に、一本の獣道が伸びていた。
昔見た光景と同じだ。目的地である下層部は、あの道を下った先にある。
私は両手を握り、覚悟を決めてそちらへ踏み出そうとした──その時だった。
「……誰かいるのか?」
「──!」
近くない。でも決して遠くない声。私は咄嗟に背の高い草陰に飛び込み、姿勢を低くしたまま息を殺す。
数秒置いて女神像の方からほの明るい灯火と足音が近づいてきた。草の隙間から目を凝らすと、やってきたのは二人組の衛兵だ。
ともに簡素な鎧を纏い、一人は長剣と火の魔石が入ったカンテラを、もう一人は何やら大きな木箱を抱えている。考えるまでもなく、見つかれば面倒なことになるのは明白だ。
しばらく張り詰めた沈黙が流れた後、衛兵の一人が小さく息を落とした音によってそれは解かれた。
「……気のせいか」
「動物か何かだろう。早く行くぞ」
「ああ」
短く会話を交わし、衛兵たちの警戒が緩むのがわかった。
……と思えば、衛兵は参道に戻らず、こちらへ向かってくるではないか。
私は再び騒ぎ出す心臓を押さえ付けながら、冷や汗を流して息を止める。
そして衛兵たちは私が隠れる草陰のすぐ隣りを通り過ぎて──そのまま女神像の下層部へと続く坂道を降りて行った。
息を詰まらせながらも、私は彼らの一挙一動に視線を注ぎ続ける。
気になるのは片方の衛兵が抱える大きな木箱だ。彼の背丈の半分ほどある箱の中には一体何が入っていて、彼らはそれを持って何をしに行くんだろう。
「…………、」
衛兵たちの足音が遠ざかってから、ゆっくりと下層部への道の入り口に立つと、そこに生えている草だけが人為的に避けられていることに気づいた。
おそらく私がこの場所を見つけられたのは、ああしてあの道を使って下層部に降りる人間が他にもいたからだ。
……何だか嫌な予感がする。
あの箱の中身が何なのか、不吉な予想が私の中で鎌首をもたげている。
しかしここで引き返す気にはなれない。私はきっと、この先で待つ光景を見なければならない。
そんな根拠のない確信に背中を押され、再び足を踏み出す。
暗闇のしじまは、私を音もなく包み込んでいった。
◆◇◆◇◆◇
──スカイロフトに現れ、衛兵に駆除された後の魔物たち。当然、その死体は放っておけば他の生き物たちと同じく腐り果てていく。
故に衛兵たちは切り裂いた亡骸を一度は兵舎へ持ち帰り、部分的に素材として活用するらしい。
だが使用された体の残り、もしくは素材として使えなかった亡骸。それらの行方は、衛兵たちしか知らない。
わたしが今しているように土に還しているならまだいい。しかしわたしは見たことがある。
──魔物の亡骸を埋めるわけでも捨てるわけでもなく、女神像のもとへと運ぶ人間の姿を、見たことがある。
◆◇◆◇◆◇
衛兵たちの背中にはすぐに追いついた。上層部に比べて自然に侵食された道は、慣れていない人間からすると進むだけでも一苦労なのだろう。彼らは木の根が張り巡った道を転ばないよう慎重に歩いている最中だった。
彼らの姿を見失わないよう、そして存在に気づかれないよう、私は彼らの影になったつもりで音を殺しながらその背を追う。
そうしている時間は決して長くなく、しばらくすれば上層部と同じように整えられた道が彼らを出迎えた。さらにその道の先にあるのは──無機質な岩壁にぽっかりと空いた、横穴。
「────」
抱いていた予想が当たり、私は低く喉を鳴らす。
あの光景には見覚えがある。……肝試しの夜に私が見た、あの横穴だ。あれはやっぱり、見間違いなんかじゃなかったんだ。
衛兵たちの目的地もやはりあの横穴だったようで、彼らは箱を抱えたまま穴の中へと進んでいく。
過去のわたしには、どうしても入ることが出来なかった穴の奥。当時の感情の全てを覚えているわけじゃないけれど、今の私もあの時と同じ恐怖を抱いているということはわかってしまう。
しかし、私の足が止まることはなかった。この先に待ち受けているものが何なのかわからないし、衛兵たちに見つかってしまう可能性だってある。
なのに、私の足は何かに誘われるかのように穴の奥へ奥へと導かれていった。
「……いつ来ても気味が悪いな、ここは」
「同感だ。……早く済ませよう」
「────」
前を行く衛兵たちの会話が洞窟内に反響する。私にとっての光源は彼らが持つカンテラが残す、ほんのささやかな明かりだけ。それでもこの横穴が想像以上に長く、奥に進むにつれて人の手で整えられた空間と化していく様が見て取れた。
無骨な岩の壁はいつしか平らに削られ、そこには幾何学的な文様が刻まれている。その中には見覚えのある正三角形が記されていて、不穏な寒気が私の背中を撫で上げた。
やがて衛兵たちが足を止めたのは、横穴の終点。突き当たり。──おそらく、位置的にはちょうど女神像の真下にあたる場所だ。
彼らは並んでそこにある何かを見下ろしている。私は陰から身を乗り出し、それが何なのかを見ようとして──、
「──女神様」
「……!」
“女神”を呼ぶ声音にびくりと体が強張る。
彼らの目の前に女神像はない。そのはずなのに、まるで女神様がそこに存在しているかのような説得力を持った声音だった。そして、
「今宵も、空の楽園の安寧を脅かす魔の魂をお持ちしました。どうかこの亡骸を清め、邪悪なる魂をお鎮めください」
「──!」
それは全ての答えだった。
わかってしまった。あの箱の中身も、彼らの前にあるものも、彼らが何をしようとしているのかも、スカイロフトに出た魔物たちの亡骸がどこへ行くのかも。
──衛兵たちは、スカイロフトで狩った魔物の亡骸を眼前に広がる“穴”の中へと捨てているんだ。
「どうか、スカイロフトに久遠の平和を」
……助けなきゃ。本能が、同族意識が、義務感が、私に訴えかける。
そうわかっているのに動けない。衛兵に見つかろうが抵抗されようが、今の私はあの亡骸を取り戻す術を持っているはずなのに。魔剣を抜くどころか、ここから一歩も動くことが出来ない。
──あの穴に、近づくのが怖い。
あの穴の中に何があるのかわからない。浅いのか深いのか、それすらもわからない。ただ、ぽっかりと空いた暗闇が、私にはとてつもなく恐ろしいものに思えて仕方がない。
足が竦んで、呼吸が浅くなって、指の先から血の気が引いて。ただただ、何もできないまま。
魔物の亡骸は、暗い、暗い穴の底へ、堕ちていった。
◆◇◆◇◆◇
──女神像に近づくことが出来ないわたしには、そこで衛兵たちが魔物の亡骸をどうしているのか知る術がない。
たまたまそこに埋めに行っただけなのかもしれないし、見間違いだった可能性すらある。……けれどそれ以来、わたしがこうして魔物の死体を見つけた時はすぐさま土に埋めるようにしている。
「……おやすみなさい」
掘った穴に固くなった亡骸を埋めて、誰の耳にも届かない言葉を紡ぐ。
この子の魂が、せめて『天国』に行けるよう祈りながら。
◆◇◆◇◆◇
──気づけば私は女神像の島を離れ、スカイロフト本島の地面に両手をついていた。
「う、……ぐ、」
喉奥から迫り上がる熱と不快感を片手で抑え付け、なんとか堪える。代わりに目元に浮かんだ雫はやけに冷たく、頭の奥底がずきずきと痛んだ。
荒い呼吸を繰り返しながら、私は島の縁から眼下に広がる雲海を見下ろす。
あそこで見たものが、どうしてここまで私を動揺させるのか。わからないけれど、怖い。とてもとても、恐ろしい。
「……マスター」
その敬称を呟けば、乱れていた呼吸と心臓の鼓動が凪いでいくのを感じる。
そして同時に、ふとした疑問が浮かぶ。
女神像の下層。つまり、もともとは聖地の地下に存在していたあの場所の存在を。
──主人は知っているのだろうか、と。
立ち上がり、遠景に佇む女神像をもう一度だけ見つめる。
遍く命に平等に向けられていたはずの微笑みが、今はとてもとても、薄気味悪いものに思えた。
* * *
──そこは一言で表すならば、森の中に隠された生命の秘境、と言うべきなのだろう。
まるで血液のように大樹の中を満たす水。ここで森の生命は育まれ、連綿と続く命の系譜を繋いできた。
同時にここは、この大地において最も多くの生命が誕生する地。祝福を授かるに相応しい、光に包まれた場所。さらに、安定した気候ゆえに砂漠や火山といった遠方の地も見渡せる。
そう、だからこそかつての女神の一族はこの地に根を下ろしていたのだ。
女神はここを“聖地”と定め、逆に、遠い過去に魔物たちが這い出た場所を“地の底”と言い表した。
その“地の底”が何処なのか、彼女の口から明言されることはない。
何故なら魔物とは──“光の世界に住む者たちが持つ憎悪”を起源とした存在だからだ。
「……つまり、だ。生命の誕生の地であるここは、同時に君たちが毛嫌いしている魔族にとっての誕生の地でもある。……何とも、皮肉で滑稽な話だよねぇ?」
嘲るように鼻を鳴らし、白の絹髪がさらりと梳かれる。
長い前髪から覗く両の眼は艶やかに細められ、薄い唇が悠然と弧を描いて、
「君もそう思うだろう? ──水龍フィローネ」
魔族長、ギラヒムの嫣然とした姿を捉える黒の目は憎悪の炎を燃やし、憎々しげに歪められた。