series


長編3-13_暗流の果てに



 浮上した意識が最初に受け止めたのは乾いた木材と砂埃の匂いだ。記憶の淵に残っていたむせ返るほどの血の匂いはそこにない。

 鼻と頬、唇。そして最後に、瞼。
 徐々に感覚が通い出し、夢と現の波間を揺蕩っていた意識が岸へとたどり着く。
 それはすぐ隣から発せられた「お、」という聞き慣れた声音によって、さらにはっきりとした形を掴む。

 やがて開けた視界に飛び込んできたのは青緑色の皮膚と、こちらを見下ろす黄色く大きな眼で──、

「起きたか、お嬢」
「…………リザル?」

 ようやく目を覚ました私に、顔を覗き込んでいたリザルが肩を竦めた。

 私は彼を見つめたままぱちぱちと瞼を瞬かせ、彼の背後へと視線を彷徨わせる。
 天井は決して高くない。粗雑に組み合わさった木製の骨に屋根代わりの薄汚れた布が張り付けられ、ところどころに空いた小さな穴からは外界の光が漏れ出ている。

「ここ、どこ?」
「見ての通り、荷台ン中だよ」
「荷台って……」

 すんなりと返された答えは私が予想した通りのものだった。しかし、本当に求めていた答えはそこにない。
 リザルの言う通り、ここが砂漠を移動する荷台の中だとして、記憶に残る光景と今の状況がどうしても結びつかないのだ。

 たしか、最後にこの荷台から降りたのは主人と共に時の神殿へ向かった日の朝。
 その道中で雷龍ラネールに遭遇して、私とリザルは一度地下空間へ落ちた。なんとかカタコンベへたどり着いた後に脱出し、私は一人マスターと合流をして、それで──、

「なんで私、荷台に…………え、」

 数多の疑問符に溺れ、それが言葉としてこぼれかけた瞬間、私の唇はぴたりと止まる。

 再び正面に戻した視線。それが捉えた光景に、思考の全てが吹き飛んだからだ。

「リザル、その腕ッ……!」
「ンあ、これか」

 私を見下ろすリザル。私はその右腕──正確には、包帯が巻かれた右肘から下に目を奪われる。
 あるべきはずの彼の腕が、そこに存在していなかったからだ。

「ま、割に合わねェ仕事しちまッたな」

 言葉を失った私に、彼は普段と変わらぬ呑気な口調で頬を掻く。

 腕の断面には赤色が滲んでいるけれど、丁寧に包帯を巻かれ、既に処置を施された後だとわかる。
 ……つまりそれは、回復兵の力をもってしても彼の腕を治すことは出来なかったということだ。

 さらに記憶の糸を手繰り寄せれば、彼が何と戦い片腕を失ったのか、すぐに答えにたどり着く。
 そしてその事態に誰が陥れてしまったのかも──、

「オラ、余計なこと考えンじゃねェよ」
「いひゃいいひゃい!」

 暗い思考の渦は、リザルが私の頬を緩く引っ張ったことによって半強制的に断たれた。
 鋭い爪で皮膚まで裂かれるんじゃないかと思ったけれど、うまく力加減してくれたらしく傷はついていない。
 それでもじんじんと痛む頬を抑える私を呆れ混じりの表情で見遣り、リザルは嘆息した。

「こンくらいでそーゆー顔すンなや。とっくに処置は済ンでッし、もう一本残ってンだから大したことねェよ」
「……大したことは、あると思う」

 四肢の一つを失ったというのに私の数倍はあっけらかんとしているリザル。
 とはいえ彼なりに気を遣ってくれているともわかってしまうから、追及をすることも出来なかった。

「そもそも今はお前の方がヤバい状態だかンな。これ以上魔力使ったらマジで死ぬぞ」
「魔力…………あ、」

 リザルのその忠告をきっかけに点と点が線で繋がり、ようやくここに至るまでの記憶が蘇る。

 時の神殿にたどり着いた直後、私はリンク君との戦いで魔力を使い果たしてしまい、今の今まで気絶していたらしい。
 これまでも元々薄っぺらな魔力を無茶苦茶に使い同じような状態に陥ったことはあったけれど、まさか意識を失うことになるとは思っていなかった。

 話によると、リザルは私が気絶をしている間に合流を図り、他の魔物たちと共に砂漠から撤退をしたそうだ。
 言われてみれば朧げな記憶が残っているけれど、それが夢だったのか現実だったのかそれすらも曖昧だ。

 そうして、最後の最後に私は一番気になっていたことを彼に聞く。

「……マスターは?」

 当然、リザルもそれを聞かれるとわかっていたのだろう。
 それでもその答え方は最後まで結論が出なかったのか、彼は少し間を置いて静かに返す。

「……あの人なら心配ねェよ」

 返答はそれだけに留まった。
 そこからは聞きたかったことの半分も読み取れない。しかし、これ以上の深掘りをすることも私には出来なかった。

 彼は私の様子を窺った後、荷台の隙間から見える景色に視線を移して諭すように続ける。

「無理だろーケド、今は何も考えずに大人しく休ンでろ。どーせあと三日は着かねェンだ」
「三日……ってことは私、そんなに長く眠ってたんだ……」

 砂漠から拠点への旅程は約一週間ほど。つまり私は少なくとも四日程は朦朧とした意識の狭間を行き来していたようだ。

 正直、往路と同じようにのんびりとした心地でいられる状況ではない。
 が、リザルの言う通り今は心身共に体力を養っておくべきなのだろう。帰還したら、考えるべきことが山ほどあるのだから。

 せめて、今のうちに頭の中を整理しておかなければならない。
 記憶を遡り、あの時見たこと、感じたことを思い出して──。


 * * *


 視界の全てを阻んでいた砂の幕が乾いた風に攫われ、徐々に姿を消していく。
 巫女と時の扉を巡る争いの終焉。突如轟音とともに巻き上がった砂柱。おそらく時の扉へ飛び込む直前、インパが何らかの術を使ったのだろう。

 黄檗色の壁に遮られたその先には、魔族と女神の運命を切り分ける結末が待っている。
 私は襲い掛かる砂埃から両腕で身を庇いながら、徐々に払われていく視界に目を凝らしていた。

「────」

 あの幕の向こうで待っているものに自分が何を期待しているのか。
 答えを見出せないまま、無意識にも砂塵の向こうにその姿を探してしまう。

 やがて瞳に映り込んだ光景に、私はゆっくりと唇を解いて、

「────マスター」

 崩れ落ちた扉の前。一人立ち尽くす主人、ギラヒム様の敬称を口にした。

 その表情は見えない。ただの瓦礫に成り果てた遺物を見下ろしながら、彼は微動だにせず佇んでいた。
 あまりにも急な幕引きに、私はもちろん敵であるリンク君ですらも息を呑んで言葉を失う。
 凍てついた時を再び動かすには、目の前の事実は途方もなく重いもので──、

「──ッぁ、」

 途端、焼け付く激痛が這い上がり、内臓がひっくり返るような感覚が私の全身に襲い掛かった。
 思わず口元を抑え、指の隙間から溢れ出した血が砂地を赤く染める。
 千切れてしまいそうな四肢の痛み、急速に失われる体温。──生命の化身である、魔力を使い過ぎた、代償。

「リシャナ……!?」

 唐突に苦しみだした私に、リンク君が反射的に名を呼んで数歩砂を踏み締める。

 しかし彼がこちらにたどり着くよりも早く、私の体は誰かの腕の中に抱えられていた。

「……今回はここまでだよ、リンク君」
「!!」

 真上から降ってきた声音に震える瞼を持ち上げれば、焦点の定まらない視界でもそれがギラヒム様なのだとすぐにわかった。
 彼は淡々とした口調を保ったまま、言葉を継ぐ。

「我々はお前たち女神の一族への憎悪を忘れない。どれだけ犠牲を払おうとも、必ず巫女を引き摺り出してあの方への生贄として捧げてやる」
「ッ……!」

 主人の言葉を聞いたリンク君の敵意は一切の翳りを見せることはない。
 対し、ギラヒム様は冷徹な眼差しで彼を睨み返す。

「……人間の分際で不躾な目をするものだね。君の命など、今の状況においては容易く掻き消せてしまえるというのに」
「何……?」
「時の扉と巫女の消失により、魔族にとって害のある女神の気配が完全に失われた。……つまり、ワタシは今すぐにでも全力で君を潰すことが出来るということだ」
「……!」

 主人の言葉は嘘でも誇張された表現でもない。
 巫女──ゼルダちゃんが失われた影響なのか、女神の気配がこの場から完全に立ち消えている。
 つまり今なら下位の魔物たちを呼び寄せることが出来るだけでなく、主人も本来の力を発揮することが出来るという訳だ。──だが、

「安心するといい。君に構ってあげられる時間はもう残されていない。……この無鉄砲な馬鹿犬を連れ帰らなくてはならないしね」

 今の主人に戦意は見られない。此度の争いは、本当にここで終幕とするようだ。
 旧友の前で犬呼ばわりをされた私は抗議の意を込め小さく眉根を寄せたけれど、当然反応も訂正も返ってはこなかった。

 ギラヒム様は私の体を抱えて立ち上がり、何も言わず背を向け歩き出す。
 そうしてこの地を後にしようとした時だった。

「……リシャナを、どうするつもりだ」

 白銀の剣を構え、正義感を宿した空色が彼にとっての“悪”を射抜く。
 その声にぴたりと足を止めたギラヒム様は短く嘆息し、無味乾燥とした視線を彼に寄越す。

「まさか、ワタシがこいつのことを洗脳しているとでも思っているのかな?」

 リンク君の中に渦巻く疑念のうち一つに先手を打たれ、彼は思わず押し黙ってしまう。
 その反応に主人の興が乗ることはない。細められた目がそれは見当違いだと言外に示し、薄い唇が続ける。

「そう思いたいのなら思えばいい。どうせ、『勇者』にとってこいつは何ら関係のない『半端者』にすぎないのだから」

 継がれた言葉には先程巫女を追い詰めていた時とは異なる感情が滲んでいる。
 憎悪と似ていて少し違う。言うなれば、誰であっても手出しをすることを許さない、底無しの独占欲。

「……これは魔族に落ちるべくして生まれて、ワタシがこちらへ連れ戻した。こいつの命は最期の瞬間までワタシのためだけに使われる」
「そんな──ッ、」

 リンク君が反論をしかけた瞬間、それはすぐさま遮られる。ギラヒム様の温度のない眼光が、それ以上の言葉を制したからだ。

『勇者』を睨む両眼は皮肉げに歪み、静かに彼を圧倒して、

「──こいつは、ワタシだけのモノだ」

 その宣言と共に、息を呑む音だけ残った。

 主人は彼の返事を待たずに振り返り、沈黙を携えながら歩き出す。
『勇者』がそれを追う気配は、もうなかった。


「……マスター」

 遠く、彼方に遠ざかっていく意識の中、私は主人の敬称を口にする。

 本当にここで撤退していいのか。『勇者』を野放しにしていいのか。
 その疑問が言葉として投げ出されることはなかったけれど、ギラヒム様は私の顔を一瞥した後、再び目線を上げて静かに告げる。

「巫女がこの時代から失われた今、『勇者』がどう動くか探る必要がある。今あれを殺すのは得策ではない」

 彼の言う通り、巫女が過去の世界に逃げたからといって残された『勇者』や女神の一族が何もせず時を待つとは考えにくい。
 そうなれば、私たちにとってもリンク君のこれからの行動は手がかりとなるはずだ。

 霞がかった視界の中、主人がどんな表情をしているのかは読み取れない。だが彼は一拍置いて「……それに」と続け、

「……封印の地のあの方の気配が、また濃くなった」
「!」

 低く耳打ちされた言葉に、私の肩が震えた。

 オルディンでの戦いの後と同じ、封印の地の異変。しかも今回は、封印の地から遠く離れたラネールにいながら感じ取れるほどはっきりとしたものらしい。
 衝撃に言葉を詰まらせていると、主人の額が私の額に押し当てられ、掠れた吐息が耳朶に触れた。

「すぐに戻って何が起きているのか確かめる必要がある。……それが何を意味することであってもだ」
「────、」
「だから……今はワタシの元で大人しくしていろ。……馬鹿部下」

 何かを懸命に抑え込むような、どこか懇願をするような声音。
 唇が触れそうな距離でそれを受け止め、同時に私は迫り上がった自身の感情を彼に見せてしまわないよう、瞼を閉じる。

 今だけは、彼から目を背けなくてはならない気がした。
 覚悟も決意もしたはずなのに、やっぱり振り切れなかった思いの存在を自覚してしまったから。

 そう、私は。

 ──彼が過去に行かずここにいてくれたことに、安心してしまったのだから。


 * * *


「……どうせ、勝手で愚かな自己嫌悪に陥っていたのだろうね、あの馬鹿部下は」

 ──そうしてラネールから帰還し数日が経った現在。未だに拠点で静養を続ける部下を思い、ギラヒムは鼻を鳴らした。

 リシャナの魔力は未だに回復しきっていない。
 もともと自在に操れるほどの総量を持っていないくせに、散々使い倒した挙句気絶したのだから、本当に救いようのない無鉄砲だ。

 そのくせ自身の肉体よりも主人の様子を窺おうとするリシャナを強制的に寝かしつけ、ギラヒムは一人、封印の地へと赴いていた。

「────」

 ──結果として、帰還直後に駆けつけた封印の地に大きな変化は見られなかった。
 それは繰り返し訪れた数日の間も同様だった。

 こうしてこの地の異変を感じ取ったのは二度目だ。オルディン火山での戦闘の後に封印が緩んだのは、巫女が禊を終え、女神の魂が目覚め始めたことがきっかけだろう。
 そして、今回は時の扉が開かれたことが関係している可能性が高い。

 あの巫女を過去の世界へ逃してしまったことは魔族にとって大きな痛手だった。だがその一方で、魔王様の気配は失われるどころか徐々に色濃いものとなっている。
 一見すれば、これは魔族にとっての“希望”と言える兆しなのかもしれない。そのはずなのに、あまりの状況の不鮮明さに、暗澹とした予感を抱いてしまう。

「……何が、足りない」

 考えれば考えるほどに深みに陥り、抜け出せなくなる。らしくない思考の悪循環に吐息をこぼすと、ふといつもは隣にあるはずの騒がしい声音が聞こえないことに思い至る。

「……普段は主人に考えさせる間も与えないほど騒がしいくせに」

 舌を弾き、拠点に残してきた小煩い部下への恨み言を呟く。
 純血の魔物であれ、半端者であれ、失われた魔力を取り戻すには少なくない時間がかかる。
 回復した暁には溜まった鬱憤を晴らし、主人に尽くさせ、今後の方針を練らなければならない。

 ──だから、とっとと普段通りの能天気な間抜け面を主人に見せに来ればいい。
 このワタシに対し、背中を任せろなどと大口を叩いてみせたのだから。

「……フン」

 とにかく、今は封印の地における異変の正体を掴むことが先決だ。
 部下の存在を一度頭の片隅に追い遣り、ギラヒムは足早に湿った森の道を進んでいく。

 やがて木々の隙間から封印の地の大穴が覗き見えた瞬間、ギラヒムはその違和感に気がついた。

「……?」

 封印の地を満たす空気が、やけに澄んでいる。
 それは女神の聖域のものとは似て非なり、魔族を退ける清冽な空気ではなかった。どちらかと言えば、そこに満ちているのは大気の振動すらも統御する無の気配だ。
 それどころか普段ならば森中から聞こえてくるはずの生命の喧騒が、何かに怯えるかのように静まり返っている。

 ギラヒムは不穏な胸騒ぎを覚えながら、ゆっくりと螺旋の淵にまで近づいて底を見下ろし──その両目を見開いた。

「何だ……?」

 大穴の底に穿たれた封印の石柱。
 その根元から這いずり出るように、黒い影が溢れていた。

 変わり果てた光景に視線を奪われ、思考の全てが打ち止められる。
 あの影の正体が濃密な瘴気なのか、それとも得体の知れない物質なのか、まるで見当もつかない。
 一見して魔族が好む暗闇のはずなのに、魂を内側から縛り付けられるような窒息感が身に襲い掛かる。

 だが、このままここにいたところで成す術はない。
 奥歯を噛み締め、意を決して螺旋の底に飛び降りようとした──瞬間。

「……!?」

 杭の下から一斉に影が溢れ出し、乾いた大地を瞬く間に闇色一色へと塗り替えた。

 魔族であるギラヒムの目から見ても、災厄の前触れのような光景。
 やがて螺旋の底を満たした漆黒の海は沸々と湧き立ち、そして、

「──!!」

 ──暗闇の底から飛び出したのは、黒く巨大な“怪物”だった。

「あれは……!?」

 その怪物の体は二本の足と、巨大な口で成り立っていた。
 目や耳、腕にあたる器官はなく、体の半分以上を占める口には凶悪な牙が生え揃っている。
 さらに全身は黒い鱗に覆われていて、一つ一つに生命が宿ったかのように脈動している。その全長は数十メートルをゆうに超えているだろう。

「────ッ!!」

 怪物は言語を持たないのか、けたたましい雄叫びを上げた後、ゆっくりと螺旋の上層を目指して歩き始めた。

 長い長い時を生きてきて、初めて目にする異形の存在。今目にしているあれが、魔物と呼ぶべき存在なのかどうかすらもわからない。

 しかし、

「何故……だ……」

 あれが何なのか、自分にとってどういう存在なのか──わかってしまう。
 疑念も、戸惑いも、全て全て吹き飛んでしまうほどにはっきりと理解してしまった。

 何故なら、そこにあったのは紛れもなく、

「──魔王、様?」

 ずっとずっと追い求めていた、主の魂だったのだから。