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天廻編3話_Purgatorium



 ──黒に満ちた新月の夜に戦火の華が咲く。

 女神ハイリアの地に踏み入った魔物の大群は数日間に渡り侵攻を続け、ついに聖地を囲う城下町へと到達した。
 最初に崩落したのは侵入者を拒む城壁の一角。それを戦端として、魔物たちは街の四方から一斉に内部へと攻め入った。

 女神軍も魔物の血が最も活発になる夜間の襲撃は予期しており、厳戒態勢が敷かれた街の中で双方は衝突をし始める。
 魔族が目指す場所はただ一つ。陽炎の先に浮かぶ女神像、その真下にある“聖地”だ。
 魔族が──ひいては魔王が求め続けていたものがそこにある。


「────」

 ところどころで火の手が上がり昼間のように明るい街の全貌を見遣りながら、ギラヒムは城壁の上に一人佇んでいた。
 空に投げされる金属音が悲鳴のように響き渡り、眼下で繰り広げられる争いの激しさを物語っている。
 やがて彼の視線は城下町を越えた先に立つ巨大な聖母──女神像の元へと誘われた。

『──貴様ら魔族は、必ず『勇者』が討ち取る。それが、『運命』だ』

 耳奥で再生されるのは、フィローネ戦線で邂逅したあの騎士が語っていた言葉だ。
 死ぬ間際の人間が残した空虚な戯れ言に過ぎないとわかっていた。だが奥底に閉ざしていたはずの残響は、最後の戦場を前にし反芻されてしまう。

 この戦いの果て、主の願いが叶った後。自分はどうなるのか。
 そんな感情は必要のないものだというのに。……今だけではなく、これからも。

 頭の片隅で繰り返される妄言と、自覚せずにはいられなかった寂寥感の残滓を押し留めるようにギラヒムは瞼を一度下ろす。
 目先に広がる自身の行く末を覆い隠すことで、足元に広がる戦場に降り立つための覚悟を決める。

「──すべきことは、何も変わらない」

 喉を震わせ、手にした魔剣の剣先を彼方の女神像へと掲げる。
 あの場所までの障壁を全て払い除け、あの方のための道を切り拓く。為すのはそれだけだ。

「使命を、果たす」

 静謐なる誓いを紡ぎ、ギラヒムは大きく地を蹴り城壁から飛び降りる。
 地上にいた兵士たちが気配を察してその存在に気がついた時。彼は音もなく戦場へと降り立っていて──、

「────!!」

 兵士たちが剣を手に取り踏み込む前に、一瞬にして彼らの体は上下に分かたれていた。

 刹那にして遂げられた殺戮。生き残った兵士の誰もが惨状に身を震わせ、その男が魔物の中でも上位の者なのだと判断する。
 上官の怒号にも似た指示が下り、兵士は決死の覚悟で剣を握る。

「おおォッ!!」

 奮迅の勢いで唸り声を上げ、波濤のごとく突撃する兵士たち。
 しかしギラヒムが掲げた刀身は一切の迷いを見せることはない。対抗心どころか愉悦すらも示さず、無感情なままの薄い唇が一言命じた。

「そこをどけ」

 細身の体が軽く地面を蹴った、次の瞬間。
 剣風そのものとなった彼は鮮やかな一閃と共に敵陣を切り抜ける。
 断末魔と血霧の幕を貫くその姿は誰の目にも捉えられず、閃く太刀筋だけを網膜へと焼きつけた。

 文字通り先陣を切ったギラヒムに続き、控えていた魔物たちも喊声を上げ一気に街へ攻め入る。
 双方ともに最大の兵力を投入された戦場は既に混沌とした戦況を見せつつある。が、じきに均衡は崩れるとギラヒムは予想していた。
 ここが女神側の本拠地だと言えど、これまでの戦線で敗走を重ねた女神軍の戦力はそう多く残されていないはずだからだ。

 その事実を体現するかのように、兵士の抵抗も虚しく城下町は魔物の波に呑み込まれていく。
 これまでの戦線と同様、人間たちは一方的に蹂躙され食い荒らされるのみだと、魔族の誰もが思っていた。

 *

「いたぞ!! 一人だ!!」
「怖気づくなッ! 統率者を討てば光明が見えるはずだ!!」

 味方を鼓舞する怒声を上げながら、兵士たちは数の力で逃げ道を阻み、確実に敵戦力を潰そうと押し寄せる。
 その人間たちを一瞥するギラヒムの視線は興が乗らず、ひどく冷めたもので、

「光明、ね」

 人間の言葉を舌に乗せ、軽蔑の意を込めて鼻を鳴らす。
 同時に掲げられた魔剣は肉眼では捉えきれない速さで兵士たちの間を疾駆し、軍の勢いを一瞬にして吹き消した。

 為す術なく倒れ伏した兵士たち。生き残ったうち一人は、自身の首元に誰かの足が添えられていることに気づき、びくりと肩を跳ね上げる。

「虚しすぎて、喉を潰したくなってしまう言葉だね?」
「あ、ぐぇ……ッ!!」

 肉ごと骨が潰れる感触を足裏で感じ、ギラヒムは悠然と嘆息をこぼす。
 それも束の間。仲間の死にいきり立った兵士を再び目で捉え、その全てを斬り伏せた。

 ──既にギラヒムが単独で走破した防衛線は他の魔物の倍の数に至っていた。
 彼の剣筋は衰えを見せないまま、着実に聖地へと近づいていく。

 だがその一方で、彼の胸中にはある違和感が燻っていた。

「……薄すぎる」

 周囲に視線を巡らせながら、彼は小さく顔をしかめる。
 聖地を囲う最後の壁でもある城下町。戦力差の予想はついていたものの、魔物たちが街に侵攻し切るまでそう長く時間はかからなかった。
 戦局は拮抗すら見せず、魔族が圧倒的優位に立っている。──不自然なほど、明白に。

 その上、立ち向かってくるのは玉砕覚悟の兵士ばかりで、この地に住まう市民や女神に手を貸す亜人の姿が見えない。
 監視の魔物から人間たちが外部へ流出したという報告は上がっていない。となれば、市民は女神と共に聖地へ逃げ込んだ可能性が高い。
 その場合はここにいない亜人たちが聖地を守っていると考えるのが妥当だ。だが、何かが引っかかる。

「────」

 不穏な予感が積み重なり、得体の知れない胸騒ぎがする。
 戦場を巡りながら、ギラヒムは女神側の動きに警戒を高めていた。

「ッオオ──!!」
「……鬱陶しい」

 体ごと突っ込んできた兵士の剣を受け止め、弾き返すと共に剣圧でその身を穿つ。
 甲冑を纏い重量があるはずの兵士の体は軽々と吹き飛ばされ、外壁ごと家屋の中へと叩きつけられた。

 中に人間がいたなら瓦礫ごと押しつぶされていたはずだが、無人の屋内に転がる死体は一つだけ。避難した後ならば運が良いと言えただろうが──、

「──まさか」

 そこまで考え、ふと脳裏に過った予感にギラヒムが目を見開いた。

 足早に兵士が吹き飛ばされた家屋の中へと踏み入り、室内を見回す。
 一見すれば何の変哲もない質素な室内。が、家具の隙間に押し込められていた異様な物体がギラヒムの目に留まり、瞬時にその正体を理解させた。

「!!」

 巧妙に隠されていたのは、堆く積まれた黒い石や中身の詰まった麻袋。──大量の、火薬。
 ただの民家の備蓄というにはあまりにも異質な光景。それが持つ意味を察したギラヒムは、弾かれたように家屋の外へ飛び出て視線を走らせた。

 そして探していた存在はすぐに視界の端に留まる。
 屋根から立ち昇る白煙の先に目を凝らせば、先程までギラヒムが立っていた城壁の上で赤い光が明滅していた。一つ一つは小さなものだが、数は少なくない。
 それらは城下町を囲うように灯され、徐々に強い光を宿し始めていて──、

「──下がれッ!!!」

 叫声となった命令が魔物たちの耳に届くことはなく、返されたのは鼓膜を劈く破裂音。
 城下町に向けて一斉に放たれた赤い光──火の魔術はそこら中の家屋に隠されていた火薬へと一直線に降り注がれて、


 視界は一瞬にして、赤一色に染まった。


 * * *


「──げほッ、」

 土地を丸ごと焦がし尽くされ、残骸そのものとなった焼け野原をギラヒムは一人歩いていた。
 女神側でも、魔族側でも。どの目から見ても惨たらしい光景がそこには広がっている。

 城下町は、今や見る影もなくなっていた。
 瓦礫の山が積み重なり、そこから昇る黒煙が墓標のように立ち並んでいる。

 守勢に徹していたはずの女神軍は、最初から城下町を捨てるつもりで魔族を誘い込んでいたのだ。
 あらかじめ家屋の中や建物の裏など街の至る所に火薬を仕掛けていて、魔物たちが街に入り切った瞬間を狙ってそれらを爆破させた。

 おそらく、実際に戦場出ていたのは陽動の兵士のみ。作戦を悟られないよう、最低限に数を絞り魔族を迎え撃っていたのだ。
 女神に身を捧げる騎士たちは、その先に救いがあるのならば命すら惜しまないというのか。今となっては甲冑の下の本心は誰にもわからない。

「……チッ、」

 いずれにせよ、こちらの戦力はかなり削られた。城壁の外で待機していた魔物たちを呼び寄せたが、それを加味しても形勢は五分。……否、逆転されかけている。
 女神軍の戦力があの場で最大限だったとは考えにくい。反撃のため控えている者たちが必ずどこかにいる。

「…………」

 灰を踏みしめ、体を引きずり、濃密な死の気配に背を撫でられながら足を進める。
 道をつくる屍はもはや人間のものなのか同族のものなのかすらわからない。

 ──もし、自分がそこに加わるのなら。せめてあの方の助けとなってからがいい。
 今はその願いだけが、ボロ切れとなった体を動かしている。

 遠景に佇む女神像を見上げれば、その輪郭がはっきりと見て取れる距離にまで近づいていた。あと少しで聖地にたどり着く、はずなのに。

『貴様らの主が使命を果たした後──貴様ら剣の精霊は、どうなる?』

 今さらになって目を背けていたはずの言葉が頭の中で反響する。
 今は進むという選択肢以外ないに決まっている。なんとか生き長らえて、まだ戦える。それだけで、臆する理由など何もないはずなのに。

『誰かのために剣を握る人間も、誰かのための剣であり続けるお前たちも。あまりに脆く、弱く、壊れやすい』

 その言葉が示す事実は無意識下で自身の枷となり続けていたのだ。
 だからこそ、本来気づけたはずの女神側の謀略に最後まで気づけなかった。

『そうまでして行き着く果てに、意味などあるのか──?』

 このまま聖地にたどり着いて、あの方が野望を遂げて、世界を手に入れたとして。剣を手に取る理由がなくなったとして。
 願いが果たされ戦う理由が無くなった時、剣である自身は──。

「ッ……、」

 ひび割れた虚勢の殻の隙間から、仄暗い本心が溢れ出す。
 縋りつくように答えを求め、薄煙が閉ざす天を仰ぎ見た──その時だった。

「──ッが、」


 死角から放たれた閃光が、ギラヒムの体を貫いた。


「ぐ、う……、」

 一直線に体を狙った魔力の光はわき腹に穿孔を空け、彼の体はその場に崩れ落ちる。
 人間のように血が流れることはない。代わりに体から命そのものである欠片が剥がれ、バラバラと地に落ちた。

「貴様はここで終わりだ、魔族」
「……!!」

 朦朧とする視界に映り込んだのは、先程まで姿が見えなかった亜人の軍勢と騎士たち。
 城下町で対峙した兵士たちに比べ重厚な武装を施された姿を見て、彼らが隊長格の騎士や一族を束ねる戦士であると察する。

 そして自身を取り囲む兵の数を見て、女神側は最初からこの場所に戦力を結集させていたのだと理解した。
 魔族が最も欲しているものをその手から守るために、予想をはるかに上回る亜人たちが集まっていたのだ。

 ギラヒムがその理解に至ったことを見透かし、前に出た亜人の一人が剣先を向けた。

「皆、女神様とその子たちに未来を託すため集まった。希望を信じ、この大地にいずれ光を取り戻すために」

 亜人の言葉は街から消えた市民の行方を間接的に言い表していた。
 人間たちがいるのはおそらく彼らが守る先。亜人族は女神だけでなく、その血を継ぐ人間たちの盾になることを決めたのだ。

「魔は、我々の希望に打ち払われる運命だ」

 反駁の意志に促されなんとか立ち上がろうとするが、それすら阻むかのようにギラヒムの眼前に大剣が突き立てられる。
 傷一つない銀色の刀身が壁となり、願いへの道を断った。

「たった一人で何が出来る」

 冷たい声音が落とされ、磨かれた鋼に映り込む自身の醜態をギラヒムは目の当たりにする。
 亜人は瞳孔を細め、無味乾燥な口調で淡々と続けた。

「見てみろ、今の自身の姿を。誇り高き剣の精霊ともあろうものが、魔の王などに狂った末路がこれだ。使われるだけ使われて、何も残さず消え行く運命だ」

 茫漠とした世界で紡がれる言葉が示すのは歴然とした事実。
 聖地にたどり着いたとして、主の野望が果たされたとして。その先の自分に何も残らないまま終わるのなら、何も為さずにここで散ったとしても結末は変わらないのかもしれない。

 大剣に映り込んだ姿を見遣る。
 そこにいる自身はみすぼらしく、無様で、とても鋼だとは言えない姿で。剣としてあるまじき姿をしていて。

 いっそ、ここで消えてしまった方が楽だとすら思えて。

「────」

 瞼を伏せ、最後に夢を見るかのように主の手で戦った自身の姿を脳裏に映す。

 ──何故、自分はここまで戦ってきたのか。
 それが剣の精霊としての使命だったからだ。
 忠誠を誓い、感情を殺し、ただ与えられた命令をこなす、それだけが求められていたからだ。

 それで良かった。それだけで良かった。
 自分という存在の意味は、そこにあったのだから。
 だから使命に準じた結果の死であるなら、その運命を甘んじて受け入れるべきなのだ。

 そう、納得した時。

「────、」

 脳裏に描いた主の姿に、体の奥底で奮い立つ何かの感情の存在を感じた。
 やがてそれは、一つの答えを知らせる。

 ──自身が抱く、本当の願いが何なのかを。


「…………フッ、」

 不意に、短い笑みが彼の唇からこぼれ、微かな驚きが亜人たちの間に走った。
 周囲の視線を集め、ギラヒムは鋼に映り込む己の姿を目にしたまま小さく口元を緩める。

「美しいね。……あの方の剣である、ワタシは」

 紡がれたのは、あまりにも場違いな自己陶酔の言葉。大剣を手にした亜人は片眉を上げ、目に宿る驚愕を深める。

「……何を、言っている」

 これだけボロ切れのような姿をしていて、剣と言えない姿をしていて。ついに世迷い事を嘯きだしたのかと明白な呆れを亜人たちは滲ませる。
 彼はそれらの眼差しを、艶やかな笑みを浮かべ一蹴する。

「美しくないわけがないだろう……?」

 妄言だと嘲笑う視線に対し、敵ですら魅入られる端整な笑みを彼はたたえる。

 そう、最初から心の在処は決まっていた。
 目の前の鋼に映る自身を、誰かのためのものとして在り続けた一振りの剣を見て、頭を満たしていた迷いは呆気なく消え失せた。

「あの方のためだけに生きる剣に、ワタシはようやく成り得たのだから」
「──!」

 使命も、運命も、関係ない。あの方のための美しき剣であることが己の全てだった。
 向かう先に何も残らなくても、自身の果てが決まっていても。この矜持が自身をここまで生かしてきたのだ。

 ──あの方の剣であることが、魔剣の精霊ギラヒムにとっての最大の幸福だと、ようやくわかったのだ。

「あの方の剣が、こんなところで負けるはずがない。向かう先に何が待っていようと、ワタシはあの方のための美しき魔剣であり続ける」

 笑ってしまう。迷っていたところで、自分の願いはあの方のもとにしかなかったのだ。
 かける命が一つだけであったとしても。剣の精霊の抱える運命が、どれだけこの体を無下にしようとも。命がこぼれて体が砕けて、どれだけ自身が失われようと。どんな姿で果てに行き着いたとしても。

 結局自分は、あの方の──魔王様の幸福だけを願っている。そう願う存在で在り続けることを望んでいる。

「誰にも、邪魔はさせない」

 あの方のために戦う自分が誇らしかった。
 あの方のために、絶対に敗れることはなかった。
 あの方と共に戦って、共に死ぬと信じて疑わなかった。

 今だって、信じている。


 ──いつまでも、あの方の助けになれる自分であることを、信じている。


「世界を手にするのは、我がマスターだ」

 宣告と同時に、黒い光が彼の全身を包む。魔物としての殻を捨て、願いをかける漆黒の精霊の姿へと羽化をする。

 ──魔剣の精霊ギラヒムの、本当の姿。
 威容を誇り、見る者を圧倒させ、心を奪う、その姿へと。

「ッ──討ち払え!!」

 そして我に返った指揮官の号令が空気を引き裂き、即座に反応した騎士と亜人の群れが突撃をしてくる。
 四方八方から押し寄せる軍勢を目にし、ギラヒムは両手に魔剣を召喚した。

「──ッ!!」

 一対の魔剣は彼にだけ見える道筋をなぞり、鮮やかな太刀筋で敵を撫で切る。
 繰り広げられるのは、それまでの戦場で見せていたものをはるかに超える、至高の剣戟。

「おおおおォ──ッッ!!」

 一閃が振るわれるたび、剣舞を飾る赤い花が咲き、散る。
 量産される屍の山と血の海。凄惨なはずのその光景は、無駄のない動きで戦場を踊り狂う魔剣のための舞台となる。

 土塊が舞い鮮血と共に全身を染めても、精彩を欠くことのない剣筋。
 獲物たちにとって命を奪われるという絶望は、眼前の剣戟への驚嘆へと塗り変わっていく。

 ただの鋼を剣とするのは騎士の技術であり、経験であり、想いであると人は言う。
 だが、そんなことは彼にとって関係がない。彼という騎士無き鋼が何をもって剣たり得たのか、そんなものに彼は興味がない。

 自身の行く末の迷いを断ち切り不純なものを捨て、主のために振るわれる。
 彼だけの潔白な願いを形にした、大切な人のためのたった一振りの剣。

 ──それを美しいと形容せず、何と言い表すというのか。

「潰されろォッ!!」
「────、」

 荒れ狂う剣風の嵐の中を、硬質な巨躯を持った岩の亜人が怒声と共に突撃した。
 地を二つに分かつほどの拳圧にギラヒムの片手の剣が弾き飛ばされる。
 それを勝機と捉えた亜人が再び拳を振り上げその体ごと圧し潰そうとする。──だが、

「ぬぅッ!!?」

 細身であるはずの彼の片手が振り下ろされた拳を受け止め、亜人が驚愕に目を見開く。
 ギラヒムの体は即座に巨躯の懐へと潜り込み、直後、真下から膝を突き上げて亜人の顎を貫き、仰け反った巨躯を回し蹴りで吹き飛ばす。

「──遅いッ!!」
「がァッ……!!」

 着地したと同時に再び魔剣を召喚し、死角から振り下ろされた騎士の剣を絡め取り、腕ごと斬り落とす。
 生温い返り血を浴びながら、一斉に押し寄せてくる軍勢を睨み、再び飛び込む。

 剣を交わした全ての相手を亡骸へと変えながらも、多勢に無勢。ギラヒムの身に刻まれる傷は交錯を重ねるたび確実に増えていく。
 何十人もの血を浴びて、全身に傷をつくり、命を使う。それでも彼の足を止める理由はここに存在しない。

 その気高さを、輝きを、矜持を。信じて、守り抜いて。
 美しき魔剣は風を纏い、戦場を駆ける。
 中空で身を翻し、漆黒の魔剣を閃かせ──戦場を廻る。


「──ァアッ!!」

 そして最後の一人、あの大剣を持った亜人と鍔迫り合い、刃を交わす。
 振りかざされる巨大な刃が深く腕を斬り込んだが、地を踏みしめ全身を捻って縦一閃を振り下ろし──、

「────」

 大剣が砕かれ、糸が切れたように亜人は地面に崩れ落ちた。

 ギラヒムは手にした魔剣を地に下ろし、一人だけ生き残った戦場でゆっくりと天を仰ぎ見る。

「……これで、」

 遠い空では朝焼けが迫っているのか、赤紫色に染まった雲が切れ間を見せている。
 あの方の元にたどり着く頃には、澄み渡った蒼穹が広がっているのだろう。

「これで、もう──、」

 あとは、たどり着くのみ。
 一番行きたかった場所へ、向かうのみ。

 その実感に心地よい安息を覚え、彼は身を委ねるように穏やかに瞼を閉じる。
 深く呼吸をし、その地に向けて一歩を踏み出そうとして──、




「────ぁ、」


 死の淵から這い上がった亜人の一閃が、

 彼の胸を真っ二つに切り裂いた。