*一応series設定「リシャナ」
やけに熱っぽい声音で呼ばれたと思った。
しかし何の前触れもなく主人──ギラヒム様にそんな呼ばれ方をする時、待ち受ける未来は大抵碌なものではない。悪いお遊びを考えたか、欲求が溜まったか……あるいはお仕置きをされるか。
今回がそのうちの何に該当するのか、咄嗟に思いつくものは何もない。
だがそんなことを考えても、結局拒否権など最初からない。私に許されているのは大人しく振り向くことだけ。
だから私は例に倣い振り返ろうとして──それは呆気なく、制止された。
「……マスター?」
私を制したのは、背後から柔らかく体を包んだ温もりだった。
両腕を回されて、身長差の分頭におそらく頬を乗せられて。軽く引き寄せられた体は彼の胸の中へ緩く沈む。
……何が、何が起きているんだ。
傍から見れば何気ない愛情行為でしかないのに、主人のその行動は見かけ以上に大きく私の魂を揺るがせた。
「どうし、たん、ですか……?」
声にならなかった単音がいくつかこぼれ、ようやく口に出来た言葉は不自然な区切れ方にしかならない。しかしそれに突っ込むことすらなく、私を抱き締めたまま彼はその吐息に熱を滲ませ囁く。
「……温かいね、お前は。いつまでも抱いていたい」
「はぇ……?」
追撃を食らった私の思考は、さらに混迷を極めた。
……これが優しく抱かれるのではなく文字通り力を入れて抱いて締められているならわかる。
邪悪な笑みを浮かべ悠然と「食事の時間だ」とか訳のわからないことを言われた方がまだ納得出来た。実際先日はその流れだった。
なのに、こんなに優しい抱き方、なんて、
「ま、マスター、どうしたんですか……?」
「どうもしていないよ。ただお前を抱き締めたくなっただけだ」
「……だけ、です、か、」
その言葉を体現するように、主人は私の体をさらに強く引き寄せる。強くといっても力加減はいつもの半分以下。私が潰れてしまわないよう配慮し、頭に頬擦りまでされている。
そこまでされてなお主人の行動の真意が全くもってわからない。もはや私はまともな反応すら出来なくなってしまった。
「耳、随分赤くなっているね……?」
「へ」
私の困惑を知ってか知らずか、艶然とした声が降ってきて身が強張る。そうして耳朶を微かに上気した吐息が撫でたと思えば、
「ぃひゃぅ……ッ!?」
柔らかい唇で、耳を軽く食まれた。
普段なら容赦なく歯を立てられるはずが、私の反応を素直に楽しむよう甘く、包むように咥えられる。
身に染みた経験からガブリとくることを予期していた私は、いつもと真逆の柔らかな感触に襲われ対処出来ず為されるがままになる。
そのまま耳の輪郭に沿って唇が這い、時にぬるく息を吹きかけられて、そのたび私の奇声が上がる。与えられるのは生温い熱だけなのに、慣れない感覚に無意識にも体が弛緩してしまった。
そして私の反応を見たギラヒム様は、低く歓喜に濡れた笑い声をこぼす。
「ああ……そんなに可愛い声を出して……たまらないね、リシャナ」
「…………」
……かわいい?
あの、奇声が?
本来ならば喜ぶべき場面なのだろう。あの主人が、ギラヒム様が──大好きだけど、私を罵り嘲り蔑むことが主な趣味のマスターが。
おねだりもしてない私の奇声を「かわいい」と、言った?
今起きていることが全く理解できなくて、得体の知れない不安が湧いてきた。苛め抜かれた私のハートはもはや罵られることすら望んでいる。……ここで素直にドキドキ出来ないのは他でもないマスターによる日頃の行いの結果ではあるのだが。
そうしている間にも彼は一つ愉しげな笑みを向け、一旦私を解放する。と思えば、再度回された腕は丁寧に私の体を抱え直した。
──所謂、お姫様抱っこ、というやつで。
「た、たか、高っっ!!」
もう女の子らしい反応、というのは私には不可能なのだと後々思った。しかし高身長のマスターに受け身のとれない体勢で抱えられるのは恐怖でしかない。
よって私も落とされないよう必死に彼の体へしがみつくことしかできなかった。
「ほら、着いた」
「あ、ハイ……」
が、私の警戒に反して抱えた体をベッドに下ろす主人の手付きはとても穏やかで、だからこそそのまま体に乗りかかる彼を制止することすら叶わなかった。いつもなら部下を何だと思っているのか容赦なく放り投げられるのに。
動揺に塗れた私をよく眺めるように、主人の手のひらが頬を柔らかく撫でる。
向けられる顔はいつも通り整っていて、綺麗で、魅入られてしまう。
でも……その表情を染めている色は明らかにいつもと違う。
私の目がおかしくなったのでなければ、自惚れでなければ。
──見惚れている。そう言ってもおかしくない熱を孕んだ、情欲。
かつてこんな目を向けられたことがあっただろうか。
行為の最中ならともかく、二人で同じベッドに乗っただけで今みたいな視線を向けられたことはたぶんない。
意志をしっかり保たなければ、すぐにでも絡めとられてしまいそうな視線だ。
「ああ……本当に可愛いね、お前は。すぐにでも食べてしまいたい」
「い、いつも食べてると思いますけど……」
「いいのかい? 食べてしまって」
「…………」
……私は今、何を目にしているんだ。
あの、私に一切の拒否権を与えないマスターから、意志を問われている……!?
おそらくここで「嫌です」と言えばあっさり解放してもらえるのだろう。しかしかえってこの目で見つめられて拒絶を示すことは出来ず、「お、お手柔らかに……?」と使い時があっているのかいないのかわからない返事をすると、それはそれは幸せそうな笑みが浮かんだ。
そしてそのまま、優しげながらも離したくないという意志が顕われている手付きで頭を抱えられ、音もなく唇を奪われた。
食すのではなく形を楽しむように唇を咥えられ、啄まれて。額や頬にも唇を落とされて、くすぐったくて恥ずかしくなる感触にどんな顔をすればいいのかわからなくなる。
私が戸惑っている間にも彼の唇は首を伝い鎖骨にまで至る。
つけられるのは噛み跡ではなく所謂キスマークというやつ。ただ、主人が本来持つ独占欲は健在なのかおそらく濃く赤く染まったものを何か所にも残された。
「……リシャナ」
慣れない気恥ずかしさで無意識にも閉じてしまっていた瞼を、ギラヒム様に呼ばれてゆっくりと開ける。
……やっぱり綺麗な顔がそこにいて、情欲に濡れながらも慈しみを滲ませた視線で見つめられていた。
「美味しいよ、どこを食べても」
「お粗末、さまでした……?」
「それにとても甘い匂いがする。……すごく興奮する」
「……ん、」
長く、こぼれた吐息は微かな興奮に揺らいでいる。次いで緩く両頬に手を添えられ、再び唇をふさがれた。
生温い舌が唇を濡らして、軽く音を立てて吸われて、一呼吸を置いて深く舌を絡められて。
角度を変えながら時間をかけてじわじわと愛でられて……私の頭は、もはや思考を放棄しかけていた。
明らかにいつもと違う主人だった。
それでもこうして無条件に愛でられて、彼の腕の中で安らぎの時間を過ごせることに私は抗えぬ幸福感を抱いてしまう。
ずっとこのままではいけない。
しかし、もう少しだけ束の間の夢のような幸せを味わっていてもいいのではないだろうか。
「────、」
そうして甘やかな思考に決着しようとしていた私を、
他ならぬ主人の視線が引き留めた。
「リシャナ」
先ほどと同じ、私を縫い付ける上気した目線。
そのはずなのに、何故か私は……自身の名を呼ぶ主人の声音に薄く警戒心を抱いてしまった。
緩く、弧を描いた唇に視線も心音も釘付けにさせながら。
主人は次の言葉を、紡ぐ。
「お前を──愛し、」
「──ッ!!!」
瞬間。
本能に突き動かされるまま……私の体は動いていた。
「……それ、だけは……ダメです、」
伸びた私の手は、主人の口元を覆う。部下の手により物理的に次の言葉を差し止められたギラヒム様は、微かに目を見開いて驚きを隠せずにいた。
それは私も同じだった。
紡がれた言葉の続きを聞きたくない訳ではない。むしろ私も同じ事をいつだって思っているのに。……でも、
「……貴方の口から、それは……ダメ、です、」
その言葉を彼が口にするのは。
主人から部下へ、愛の言葉を送られてしまえば。
──私たちは主従ではない何かになってしまいそうな気がして、とても怖かった。
「私はまだ──ギラヒム様の“部下”で、いたいです」
いつかは言われたいのかもしれない。恐怖すら乗り越えてありのままその言葉を受け取ったほうが、幸せになれるのかもしれない。
それでも今は、私が彼の部下でいることに縋って生きている間は……このままで。
「…………、」
沈黙が訪れたことによって急に冷静さを取り戻した私の背筋に嫌な汗が流れる。
気まずさに負け、手で捕らえた彼の顔から視線を逸らした状態のまま数秒の制止を経た後、私は彼の口に当てていた手をゆっくり引っ込めた。
……いろいろ考えたものの、さすがに無礼が過ぎてこの変な状態のマスターも機嫌を損ねるのではないだろうか。
が、完全に彼を解放した私の手が下りても、罵倒の言葉もなければ反応すらない。
体に乗っかられているから逃げることも出来ず、恐る恐る主人の顔を覗き見る。
そして、待っていたのは、
「やはりお前は──ダメな部下だね」
呆れながら部下を見下ろす、いつも通りの主人の笑みだった。
*
*
*
次に私が認識したのは、深い水の中から抜け出したような浮遊感だった。
感覚としては眠っていた時のものと近い。しかしついさっきまではっきり目を覚まして頭も起きていた感覚が残っていて、とても奇妙な覚醒だった。
そんな感覚に揺蕩いながら瞼を開き、私を待っていたのはやはり主人だった。
「……マスター」
「目が覚めてしまったね? リシャナ」
意味深な笑みを浮かべ、ギラヒム様は私を膝に乗せ体を抱えていた。
手が柔らかく額を撫でて、ひんやりした心地よさに身を委ねたくなる。
──が、今回ばかりはそうする訳にはいかない。
私は自身に喝を入れながら主人の手から身を捩って逃れ、わずかに目を見開く彼を下から睨んだ。
「……マスター、私に何かしてましたよね。さっきまで」
「……ほう?」
部下の問いに、主人の視線が細まる。
その妖艶な表情に少しだけ怖気付きながらも見つめ返すと、彼は愉快そうな笑みを浮かべた。どうやら誤魔化す気は最初から無いらしい。
「なに、大したことではないよ。主人の膝の上で呑気な顔をして眠気に襲われているお前で幻惑の魔術を試してみただけだ」
「…………は」
何でも無いことのようにさらりととんでもないことを言ってくれた主人に対し、私は続く言葉を見失った。
……幻惑というより、見せられたのは淫夢というか悪夢だったような。
いずれにせよ自分の身に起きていたことの顛末を全て理解し、心労やら何やらで一気に体の力が抜け私は項垂れた。
諸悪の根源である主人はと言うとそんな私を見下しご満悦なご様子だ。
「それで? お前が見たのはどんな幻だった?」
「どんなって……」
不意に向けられたその問いに対して顔を上げ正直に答えようとして──主人の顔を見た私の口が止まる。
私を見る視線。愉しげながらも、見透かすような。
……これは絶対、わかって聞いてる。
珍しくそんな主人に対して小さく憤りを覚え、ささやかな反抗だと理解しながらも露骨に顔を背ける。
「ぜっっったい教えません」
あまりにも不躾な態度だったが、それすら予想通りだというように彼はくつくつと喉を鳴らす。部下の些細な反発が楽しくて仕方ないらしい。
「逆らえば何をされるかわかっていてそう言うとはね?」
「そうです、重々承知の上です。地獄まで持っていきます」
「ふぅん? ……なら、地獄へ行った時に無理矢理口を割らせるとしようか」
「────、」
……来てくれるんだ。地獄まで。
直感的に抱いてしまった感慨に私はハッと我に帰り逃げるようにそっぽを向く。
が、そうしながらも彼の膝上から下りることは出来ず、紡がれる言葉にもまだまだ惑わされてしまう。
それでも、私を制する枷を私自らが取ることが出来るまで。
──与えられかけたあの言葉は幻だったのだと、そう思い込んでおこう。
幻でも嘘でも、“この場所”にまだ……縋っていたい。