ZEXAL_dream | ナノ

 u_03

 あのメイドの女が屋敷にやってきて数日が経ったある日、俺はいきなりトロンに呼び出された。映写機が幾つもの映像を照らし出す暗く、広い部屋の中。俺は一人でトロンの後ろへ立つ。トロンはいつものようにカトゥーン・アニメを鑑賞しながら振り向きもせず俺に言った。
「W、君に頼みたい事があるんだ」
「……なんだよ」
 胸中に込み上げた暗い感情を無理矢理押さえつけて俺は尋ねる。ほんの少し前、極東チャンピオンになったばかりの俺は、この部屋に立つとどうしてもあの日の出来事を思い出してしまって、トロンに対してどういう感情を向ければいいのか分からなかった。じくり、と疼く頬の傷をそっと指先で押さえる。
「別に大したことじゃないよ。今までの命令の中で、これはとても簡単なことだ」
 そうトロンはいつもと変わらぬ口調で、振り向きもせずに言う。俺はその事に少しだけ安堵した。今、自分がどんな表情を浮かべているのか俺には分からなかったのだ。どうして、と責めたくなる気持ちを抑え込んで、痛む心を押さえつけて、無理矢理自分を繕っている今の俺を、この人には見られたくなかった。
 けれど俺の胸の内などトロンは知る由もなく。……否、きっと、恐らくは全てを理解した上で興味がなかったのだろう。ただ、事も無げに俺に告げた。
「明日から毎日、雪を起こしてあげてよ。これが君の、明日からの仕事の一つだよ、W」



 トロンの部屋から出て、俺は思い切り壁を殴りつける。加減もせずに殴ったせいで拳の皮が捲れて痛いが、そんなことは些末なことだった。くだらない命令。何処の世界に、主人に起こされるメイドが居やがるのか。そもそもどうしてこの俺がよりにもよってあの女を起こす係などをやらなくてはいけないのか。こんな事、俺じゃなくたって出来る仕事だ。VかXにでも任せれば良い。
 だが、そう言った所でトロンが決めたことを覆すなど出来る筈もなかった。
「これは、君の役割だよ」
 そうトロンが言えばそれまでなのだ。俺の反論も、感情も、トロンには届きやしない。理由など与えられることもなく、俺はあの女と毎日顔を合わせなければならなくなってしまった。この数日、ずっと避け続けていたのに。否、だから、なのかもしれない。俺が、トロンの選んだ女を拒絶したからこそ、トロンはこんな何の意味も無いようなことを俺に任せたのだろう。拒絶などさせないと。――逃げさせなどしないのだ、と。
「くそッ……!」
 もう一度、壁を殴る。どうしてこうも思い通りにならないのか。俺は、あの女と関わりたくないのだ。会話も、視線も、あの女とは何も交わしたくない。気に入らない。気に食わない。ただ傍に居るだけで苛立ちが募り、殺意が湧く。この数日関わらずにいても問題がなかったのだから、これから先だって支障はないだろう。
 ぎり、と唇を噛み締める。口内に鉄錆びの味が広がった。
 不意に向こう側から此方へ歩いてくる人影が見えた。歩く度に揺れるモノクロームのスカートを見れば、それが誰かは否応なしに理解させられた。俺は視線を逸らす。退いてなどやらない。別に俺が道を譲らなくても通れる位にはこの屋敷の廊下は広いのだから。
 存在を無視して足を進める。けれどアイツは俺に気が付くと足を止め、あの大袈裟な位に恭しいお辞儀を俺へと向けた。ただの挨拶だ。このまま何も見なかったことにして通り過ぎる。――つもりが、擦れ違った俺にアイツから声を掛けてきやがった。今までそんなこと、一度も無かったのに。
「W様」
「……何だよ」
 聞こえないふりをして通り過ぎる事は容易い。けれど明日から一つ増えた厄介な仕事を思えば、下手に互いの中がこじれて面倒になるよりはマシだろう。仕方なく言葉を返す。
「唇に、血が」
 目敏い女だ、と舌打ちを逃がすより先にアイツの手が俺に伸びる。白い、人形のように滑らかな手。
(ッ……!)
 反射的に、俺はその手を力の限り振り払った。ぱん、と乾いた音が響く。
「――俺に、触るな」
 牽制。しかしアイツがそんなものに気圧される筈もなく、振り払われた腕の痛みに眉一つ顰めずにアイツは俺を見た。正確に言うなら見下ろした、という方が正解だろう。相手がブーツを履いているせいもあるかもしれないが、俺とアイツの身長差は大きい。
 俺の言葉にアイツは隠そうともせず、呆れたように溜息を吐く。そうして、俺の唇へ触れた。
「どう、されたのですか」
 傷口に白い指が優しく触れる。ぞくり、と寒気にも似た感覚が脊髄を駆け上った。人形のように美しく、あれらよりもずっとずっと柔らかく、仄かな熱を持つ、しなやかな指。――ほしい、と、こころが。
「ッ……触、るんじゃねェ!」
 力の限りその手を振り払う。それからアイツの肩を思い切りドンと押し、壁にその身を叩きつけた。ギリ、と唇を噛む。止まりかけていた血が再び滲んだ。だがそんな事はもうどうでもよくて、俺はただ目の前の女にあらん限りの苛立ちをぶつける。両手をその細い腕にかけ、圧力をかけた。俺よりも身長の高いアイツを下から睨み付ける。
「俺に、触れるな。俺に、関わるな。俺に、――不必要に近付くンじゃねぇ」
 憎しみを込めて言葉を吐き出す。けれどアイツはただいつものように冷めた目で俺を見下ろしていた。セピア色の、瞳。何一つ揺らがない、宝石のような其れ。――乱される。心が、思考が、理性が、掻き乱されて堪らない。
「ムカつくんだよ。テメェのその澄ました顔も、態度も、何もかもが気に入らねぇ。――トロンの、人形の癖に。俺に気易く近付くな」
 そう、吐き捨てる。これで、良い。そう、これで良いんだ。別に何も問題無い。目の前の女は違えようもなくトロンの人形で、使用人で、俺達とは異なるのだ。替えの利く、人形。だから何を言っても構わない。どれだけ傷つけようが、どうだっていい。こうやって俺に無闇矢鱈に心ない言葉をぶつけられて心を摩耗していけばいい。そうして俺を嫌えばいい。人間のようにどろどろとした汚らしい、憎悪という感情を抱けば、いい。
 不意に、アイツが笑う。愉しそうに目を細めて、アイツは美しく笑って言った。
「人形はお嫌いですか、W様」
「ッ……!」
 不意打ちに、言葉を失う。――笑うな。そんな顔で、笑うんじゃねぇ。怒れよ。嫌えよ。傷ついて、みっともなく顔を歪めて、逃げ出せよ。心の中で言う。それを口に出す代わりに、俺は俯いてまた唇を噛んだ。じくり、と傷口が、心が、疼く。
「……明日から。俺が、テメェを朝起こしてやる事になった。全部トロンの命令だ」
「おや、そうですか。主の手を煩わせるなど使用人としてあるまじき行為だとは承知しておりますが、助かります」
 問いかけへの答えへは答えず、別のことを口にした。アイツはそれを咎めもせず、淡々と言う。俺はアイツの顔を見ないまま腕を掴んでいた手を離した。アイツの腕を握り締めていた左手がやけに痛い。まるで金属でも掴んでいたかのような感覚。けれど今はここから立ち去る方が先だ。
「それだけだ」
「畏まりました、W様」
 踵を返し、部屋へと向かう。後ろから足音は聞こえない。恐らく俺が見えなくなるまで見送ってでも居るのだろう。だから俺は一度も振り向かず、そのまま部屋に入った。明かりをつけると、ケースに飾ったドールの姿が目に映る。硝子の瞳。宝石のように光を受けて輝く青が、今はくすんで色褪せてさえ見える。――あの、セピアの瞳。薄く口元に描かれる弧。あの女を形容する全てが、俺の持つドールを色褪せさせていく。
「……気に、入らねぇ」
 ドアに凭れ掛かり、そのままずるずると絨毯の上に座り込んで顔を両手で覆う。胸の中で渦巻く感情を上手く言葉に出来ないまま、消化不良に眉を顰めた。

 ――いっそ、殺してしまえれば。

 過る思いに、俺は一人小さく笑った。


【加速する感情は、】(120625)

prev / next


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -