ZEXAL_dream | ナノ

 i_05

「雪、紅茶を淹れてくれないか」
「畏まりました、X様」
 広いリビングの中、ソファへと腰掛け何やら小難しそうな本を読んでいたX様に声を掛けられる。見れば彼のティーカップの中身は空で、飲み終えて声を掛けられるまで気付かなかった自分を恥じた。良き召使いというものは主が声を掛ける前にその意向を汲んで先に動くべきだというのに、何と言う体たらく。
 しかしX様は至らぬ私を叱咤する事なく、私の返答を聞き此方を一瞥するだけでそれ以上は何も言わなかった。もしこれがW様であれば呆れているか怒っているかのどちらかだが、恐らくX様の場合純粋な優しさだろう。
 X様をお待たせしないように急いで、けれど急いているよう見えないように気を付けながら茶の用意を終える。どれだけ急いでいようともそれが分かるような所作は優雅ではない。この家にいる限り私も高貴さを心掛けなければならないだろう。速やかに用意を整え、新しい紅茶をX様のテーブルに静かに置く。空になったティーカップは下げ、お口に合うかは分からないけれど一応茶菓子も用意した。
 X様が本を閉じ、私へと視線を向ける。……要らぬ配慮だった、だろうか。そう考えながらX様を見ると、彼は口元に微笑みを浮かべていた。
「ありがとう、雪。丁度甘いものが欲しいと思っていた所だった」
「そうですか。それならば良かったです」
 安堵に胸を撫で下ろす。彼は読んでいた本をわざわざ閉じると紅茶を一口飲んだ。それからクッキーを齧る。……高貴な方にチョコチップクッキー、というのは如何なものかと自分でも思ったけれど、今日はクッキーが良いとトロンにリクエストされたのだから仕方がない。X様も何も言わないので恐らく問題ないのだろう、と判断する。
 さく、さく、とクッキーを齧る小さな音。普通なら形が崩れてぽろぽろと屑が落ちてしまいそうなものだが、食べ方が上手いのか、それともやはり高貴な方は何か凡人とは違うのかとても綺麗にX様はクッキーを食べている。一枚食べ終えるとX様はまた薄く、優雅に微笑んで言った。
「美味しいよ、雪。今日も手作りかな?」
「はい。僭越ながら私が作らせて頂きました。お褒め頂き光栄です、X様」
 ゆったりとお辞儀を一つ返すと、X様が小さく笑う。何か変だっただろうか、と内心で首を捻るとX様は優しい眼差しで私を見ていた。
「そう畏まらなくても構わないよ。君はトロンの選んだ少女だ。客人程度の持て成しを受けるのに相応の身分の筈なのだから」
「……いえ、X様。私はメイドとして雇われた身です。客人などそれこそ不相応ですよ」
 勿体ないくらいのお言葉に私は首を横に振る。X様は本当にお優しい方だ。一介のメイドにまでこのように気を掛けて下さる。……尤も彼の場合、W様やV様と違って私の事情も何もかも知っているからこそ、かもしれないけれど。
 X様との距離感は心地が良い。V様との距離感はどうしても――彼に妹の影を重ねてしまって、近過ぎてしまう。反対にW様とは距離を置こうとし過ぎてしまうし、トロンとは主従関係というより末っ子と姉のような感覚だ。あくまで感覚の話だけれども。だから、この――優しい主人とメイドとしての関係は、とても落ち着く。必要以上に情を持ってしまうことはないし、メイドとして以上のものを求められることもない。与えられた命を遂行するだけで良い、という事実は私を落ち着かせる。
 私は、復讐の為の駒で良い。そうでなければならないのだ。私にとっても、彼らにとっても。
「雪」
 X様が私の名を呼ぶ。いつの間にか頭の中で巡っていた思考から現実へと意識を引き戻すと、彼は少しだけ――ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
 向けられる寂寥には覚えがなく不思議に思うも、その表情は直ぐに穏やかなものへと変わる。
「はい、X様」
 呼ばれた名に呼応するように答えると、X様は静かにティーカップをソーサーの上に置いて私へ尋ねた。ところで、と紡がれた言葉に私は彼をの目を見る。
「君は、自分の服を持っているのかな」
「……。……いいえ、生憎ですが持っていません。替えのメイド服は数着程用意して頂きましたが、それ以外の服は不必要ですので」
 思いもよらぬ台詞に一瞬言葉が止まる。何と返答すればいいのか、全く見当がつかない。しかし嘘を吐いても仕方がないだろうと判断し、素直に本当のことを言う。トロンからも何着か私服を用意しようか、とは聞かれたものの、使用人として生活していく上では特に必要性を感じなかった。トロンの忠実なる駒の『誰か』であればまた別の話だが、少なくともメイドの『雪』にとっては洋服など必要ない。
 そう思ったのだが、私の言葉にX様は少しだけ眉を顰めて首を横に振った。
「それは良くない」
 きっぱり、と強い意志を持って言われた台詞に、私は思わず「はぁ」と何とも気の抜けた返事をしてしまった。使用人としてはあるまじき返答だ、とは思う。思うが、こればかりは仕方がないような気がした。何が良くないのかさっぱり分からない、以前の問題として何故X様がいきなりそのような話を切り出してきたのかが全くもって理解できない。彼なりの気遣いなのかもしれないが、本当にこの一家は思考が読めない。
 しかしX様は私の返答を気にした様子はなく、そのまま話を続ける。
「君はメイドと言っても、年頃の女性であり、尚且つトロンの家の人間だ。VやWに付き合って出掛ける機会もこの先あるだろう。仮にも私達と同じ屋根の下へ住むからには相応の格好をして貰わなければ困る」
 相応の格好も何も、メイドなんだからメイド服でいいんじゃない、だろうか。――などと一介のメイド風情が反論出来る筈もなく、私はまた気の抜けたような返事を口にする。
「仕立て屋を呼ぼう」
「……は、い……?」
「明日には来るよう手配しておく。トロンには私から話を通しておくから心配はしなくとも構わないよ」
「……」
 X様が微笑む。それはもう、子供を安心させる時に大人が浮かべるような優しく慈愛の籠った微笑みだ。思わず頭痛を覚え、額をそっと手で押さえる。一体何がX様を駆り立てているのか私には分からない。ただ、理解できたことも幾つかあった。まず一つ、X様も人の話を聞かない。ここ数日接した上での感想だが、この屋敷の人間は誰も彼も他人の話を聞こうとしない。既に結論があり、それを問い掛けと言う形で発するのだ。なんて厄介な。この先私は彼らの相手をしていくのだ、と思うとまた頭痛を覚える。
 ――そして、もう一つ。X様は、随分と私を気に入って下さった、らしい。少し前まで感じて居た心地好い距離感は何処へやら、私が思っていた以上にX様は私と言う存在を受け入れて下さったようだ。この屋敷に来るよりも前に何度かお会いしたことも関係しているのかもしれないし、彼の中で私と言う人間が誰かに重なっているのかも、しれない。私が、V様に妹を重ねているように。――真実はともかく、気に入られているのは事実のようだ。
 主の意向に逆らう訳にはいかない。X様の言葉に私は「はい」と頷くと、X様は嬉しそうに目を細めて下さった。これで、良いのだろう。多分。
「では、雪。もう一杯紅茶を淹れてはくれないか」
「畏まりました、X様」
 X様の言葉に従い、彼の空になったティーカップへ紅茶を注ぐ。
(……まったく)
 この屋敷の方は、本当に個性的だ。それでも、そんな彼らに振り回されるのが少しだけ楽しみだ、と。そう言ったら、トロンは一体どのような顔をするのだろう。きっと、笑うに違いない。楽しそうに、愉しそうに。
(これもまた、彼の思う壺、なんでしょうね)
 X様がカップへ口を付ける。不意に、彼と目が合った。X様が微笑む。少しだけ考えて、私は彼に小さく微笑みを返したのだった。



【それはとても、穏やかな】(120606)

prev / next


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -