Kenny
「ぐえええぇぇぇ…………」
飲み過ぎた。最悪だ。見境ねえ若造でもねえのに無茶しちまった。何やってんだか。頭の中でクソ野郎が暴れまわってやがる。勘弁してくれよ。誰のせいだ? 俺? ――わかってんだよそんなことは。
気づけば地上の路地裏に座り込んでいた。ここまでどう来たか全く覚えてねえ。動く気力も今はない。他の体勢に移るのも億劫だ。
いいじゃねえか。どうせ俺には薄汚れた路地がお似合いだろ。
壁にもたれて重く息を吐けば、
「――大丈夫ですか?」
静かな声がした。この場に似合わねえ女の声。
おいおい、よくも俺なんかに声をかける気になったな。ほっとけよ。構ってもらいたかねえんだよ。クソが。お前に俺の苦しみをどうにか出来るとでも思い上がってんのか。この身の程知らず。
地下街と似たこんな場所で下手に他人と関わればどこからともなく付け込まれて何かしら奪われるのが常だ。金で済めばまだいい。下手すりゃ命。女なら身体か。たまに男が趣味のヤツもいるがな。とにかく一気に地獄へ落とされるぜ。そんなことも知らねえ馬鹿なのか?
無視を決め込んだ俺が黙っていてもそいつは一向に立ち去らない。
めんどくせえと思いながらやっとの思いで顔を上げれば、
「…………」
呼吸が止まった。心臓も一瞬止まったんじゃねえかと思う。
あの女が目の前にいた。
勝手に俺の前に現れて、そのうち死んだと聞かされた、あいつが。
「お前――生きてやがったのか?」
「え?」
目の前にいる女が戸惑ったような顔で何度か瞬きをした。さらに困った様子で小首を傾げる。
その仕草で全部悟った。違う、あいつとは別人だ。
それに、よく思い出したら声も話し方も全然違うじゃねえか。
俺はあいつからこんな親切にされた記憶なんざ一切たりともねえし。
あの女じゃない。
そもそも今あいつが生きていたらあの頃と同じ姿のはずがねえ。もっと歳を取ってるだろ、普通。
やっぱりあいつは死んでいた。死んじまったんだ。もう会うことはねえ。
「…………」
ん? 何で落ち込む必要がある? 俺はあいつに会いたかったのか?
まさか。そんなわけねえだろ。
帽子を被り直して俺は目を眇めた。
「……何やってんだ、嬢ちゃん。あんたみてえな子が来るにゃ随分と薄汚れた場所だぜ」
みっともなく声が涸れていたが、相手は気にした様子もなく、
「実は、追われておりまして。それでついここまで入り込んでしまいました」
「……物騒な話だな。人のいる場所にでも逃げた方が賢明だと思うが」
関わらねえ方がいいと直感で理解しながらもなぜか忠告すれば、相手は首を振る。
「いえ、悪い方たちではないので大丈夫です」
「はあ? 追われてるんじゃねえのか?」
「きっと『裏側』の方たちの要人警護訓練の一環でしょう。いつもと変わりない内容では刺激にならないでしょうから、たまには『撒いて』さし上げるべきかと思って」
わけのわからねえことを話しながらそいつは屈む。そしてポケットからハンカチを出して俺の汗を軽く拭った。やめろよ、俺、汚ねえのに。せっかくの綺麗な布がもう汚れてんじゃねえか。
離れようとふらつきながらもどうにか立ち上がって見下ろせば、やはり小さかった。あの女もこれくらいの背丈だった。
同時に、その小せえ身体にそぐわない大量の荷物が気になった。
「随分な大荷物だな、嬢ちゃん」
家出娘かと思えば違った。両手両肩にある鞄や袋からは食料が見え隠れしている。何人分だ、これ。
相手は頷いて、
「そうですね。育ち盛りの子供はよく食べますから」
ガキがいるのかと驚けば、察したように相手は首を振る。
「私の子ではありません。――まだ、授かっておりませんので」
含みのある言い方に俺は鼻を鳴らして、
「……ってことは『結婚』はしてんのか。相手はさぞかしいい男なんだろうな」
「ええ、とても」
女はそう答えて、はにかんだ。
やっぱり、似ている。
目の前にいるこいつとは初めて会ったはずだってのに、懐かしいと思うくらい――それくらいに顔つきから瞳の色や形もあいつと同じだった。
「……そりゃ良かったな」
もしかするとあの女のガキだからここまで似ているのかもな。最後に会った時あいつの腹は膨れていたし、年月を考えれば大体の辻褄が合う。もちろん単なる他人の空似の可能性もあるが。
だが、もしもあいつのガキだとして――俺はどうするんだ。
そこまで考えた時、袖に仕込んでいるナイフを無意識に握っていた。
いくら酔っていようと小娘一人の細首くらい容易い。伊達に昔《切り裂きケニー》と呼ばれてねえ。ダセェ呼び名だよな。だが異名なんざ大体そんなもんだ。
例えばあいつ、あのチビが何て呼ばれてやがるか知ってるか? 《人類最強》だとよ。笑うしかねえよな。あいつが最強なら人類もたかが知れている。
まあ、そんなことはどうでもいい。
最近あいつが結婚しただとか耳を疑うような噂を耳にしたが、ろくに信じられた話じゃねえからそれもどうでもいい。
ナイフの柄の感触を確かめるように指を這わせて、あの女とウーリの言葉を思い出す。一言一句、俺はちゃあんと覚えている。
「…………」
ゆっくりと昔のことを思い出して――冷静になる。
おいおいおいおい。
待て待て待て待て。
あんな『夢物語』に本気になってんのか? 俺が? このケニー・アッカーマンが?
確かに信じた方が面白い。だが、よく考えてみろよ。
「どうされました?」
こいつに『力』なんざあるもんか。
そう思うと一気に醒めた。
何やってんだ、俺は。
「……何でもねえよ」
こっそりナイフを戻し、気遣う表情の女から顔を背けて俺は歩き出す。足取りは確かだ。さっきまでのクソみてえな感覚がなぜか消えている。
「じゃあな嬢ちゃん、気をつけて行けよ」
「――はい、あなたも」
最後に振り返った俺へ向けられたのは笑顔だった。何だろうな、ああいうの。『花が綻ぶような微笑み』ってやつか。
うっかり昔を思い出しちまって、つい片手を一度振ってから俺はまた歩き出す。
なあ、ウーリ。
俺みてえなクソ野郎が今見ているこの世界は、お前の見ていたような世界じゃねえだろう。まだまだ遠いことはわかっている。遠いどころか、違いすぎる。俺はそれをわかってるんだ。
「だが、なあ……?」
それでも、今見ているこの景色が、少しは悪くないように思えた。
それにしても――
「仮にさっきの嬢ちゃんがあいつのガキだとして、あんだけ顔や背が母親に似てたら父親が誰かわかったもんじゃねえよな」
(2016/03/10)