月の光



 人を愛して慈しむのに言葉などいらない。言葉などというつまらないものがあるせいで相手を傷つけ、いつしかその手のうちから失ってしまうのだ。
 かつて己が「穢れた血」と罵ったエメラルドの目をした少女も、永遠にどこかへ行ってしまったではないか。

 明かり一つない暗闇を滑る影のように歩き、一つの部屋の前で立ち止まる。
 キィ、と軋む蝶番もとっくに聞きなれた。木の扉を押し開けると別世界のように月明かりに照らされた部屋。その真ん中、ふんわりと盛り上がった寝具の上に彼女はいた。
 照る月の光のせいでより一層透き通る青白い肌に花びらを乗せたような唇。絵に描いたような、いや、それ以上の幻想に生きるもののように美しい少女が、小さく規則的に肩を上下して眠っていた。
 惜しむことなく露わになっている白い腹に手を当て優しく揺らしてやる。
 少女は両の手をぎゅっきゅっと2回握った後、ふるふるとゆっくり瞼を上げた。2つの黒曜石のような目がその身いっぱいに我輩を映す。
 少女がこちらを眺めたまま身じろぐこともしないので、脇に手を通し胡坐をかいた上に乗せた。
 膝に乗ると同時に服の袖のところを掴み自らのところへ持ってくると頬にぴたりとひっつけた。このままでは腕が動かせない。
(どうやら今日は相当暇にしていたらしい。)
 言葉を知らない彼女の甘え方は実に素直でわがままだ。けれども一挙手一投足のすべてが愛しい。言葉に頼らず愛と慈しみの中で育った人間のこの美しさを自分以外の誰が理解できよう。
 このままでは食事を与えることもできないので、彼女の頭に顔を擦り寄せてから体全体で抱きしめてやる。指の先、皮膚にまで、「安心しろ」だとか「大丈夫だ」とかそういう気持ちを込めるのだ。
 少女は握っていた服をそっと離した。

 それから持ってきた食事を彼女の前に置き、もう一度膝の上に彼女を抱き上げた。少女は嬉しそうな顔をして食事に手を伸ばす。
 パンを手に取ってもぐもぐと食べる姿にこちらもつい笑みが漏れる。毎度何を持ってきてもこんなにも美味しそうに食べてくれるのだからたまらない。頭をそっと撫でてやるとこちらを向いて柔らかに微笑んだ。少女の瞳は優しい色に輝いていた。

 少女は闇の帝王が殺したマグル出身の夫婦の子だった。夫婦が押し入れに彼女を隠し、彼女自身も鳴き声一つあげずに寝ていたのが幸いし助かったのだ。
 きっかけは一瞬だ。衣服に紛れて守られるようにすやすやと眠る赤ん坊だった彼女を見て、最愛の女性が遺した赤ん坊の事を思い出したのだ。リリーの身代わりのつもりだったのかもしれない。贖罪をしたかったのかもしれない。我輩は眠るその赤ん坊を連れて帰り、ホグワーツの地下で唯一光の差しこむ部屋で育てることにしたのだ。
 そして今、少女は『生き残った男の子』と呼ばれる彼と同じだけの時を経て美しく育った。言葉という穢れを知らず月明かりの中佇む姿は神々しくも儚い。月の化身のような少女。


(彼女に...食事を...彼女の世話を...。)
 意識が遠くなる。血の匂いが鼻につく。ああ、ダンブルドアから預かった託もあるというのに。目の前にいるのは大嫌いなジェームズの顔をするハリー。こんな奴に彼女を任せるわけにはいかない。けれどいったいほかの誰に?惜しくも選択しなどない。
「これを、取れ...」
 自身の身体からあふれる「想い」をハリーに託した。
 そもそも選択しなど1つしかなかったのに、なぜそれから目を逸らしたのか。ダンブルドアの意思はちゃんと彼に向いていたではないか。

 もういいか、と生を諦めた時、目が確かに見覚えのある2つエメラルドの色をとらえた。
「Look at me...」
ハリーの目はたしかにリリーと同じ目をしていた。
(リリー...そうか、ああ、たしかにこいつは君の息子だ。)
 君になら彼女を託すことができる。君になら、君になら。あの時君を傷つけた「言葉」はもう使うことはしないから。月の少女のように、ただその瞳で君を想う。


 月明かりの差す地下室にいつもより軽く高い足音が響く。
 キィ、と開いた扉の向こうにいた美しい少女は相手の姿を見た瞬間、寝具の向こうへと身を隠した。
「大丈夫だよ。僕は君を脅かしにきたわけじゃないから。」
 なんと声ををかけても少女はいっこうに出てこない。
「食事をここに置いていくから、お腹がすいたら食べてね。」
 少年は諦めてトレイを脇の台に置いて部屋を出た。
「...。」
 少年が遠く去っていくのを耳で確認してから、少女は台の上の香ばしいパンやサラダ、甘いクッキーを眺めた。しかし眺めるだけで手を出すことはしない。きょろきょろと誰かを探すように部屋を見渡してから、しょんぼりと寝具にのぼりクッションに頭を乗せて眠った。

次の日も、その次の日も少年は少女に食事を運んだ。けれどそのどれ一つとして少女の口に入る事はなく、次第に少女は動かなくなりある朝眠るように息を引き取った。
 少女は愛と慈しみの中でしか食事をとることはできなかったのだ。

 後日、セブルス・スネイプの墓の隣には何も書かれていない真っ白で小さな墓標が建った。


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mokuji

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