こん



「こん!」
 そう言って彼女はプツンと糸の切れた傀儡人形のようにへたりこんだ。


 ほんのつい数分前のことだ。すっかり日の暮れた時間に帰宅した。執務室の横にある自室の扉を開けると目をキッとつり上げた恋人。いつから待っていたのだろうか。すごく機嫌が悪そうだった。
 そして子供のように勢いよく俺の胸にぴたん!とひっついてきた彼女はいかにも「怒っています」と言う目で俺の事を睨みつけ、キツネのように「こん」と鳴いたのだ。


「...。」
 まるで眠ったかのように動かなくなった彼女。突然飛びついてきたあの勢いはどこにいったのか。
 試しに何度かゆすってみる。起きない。
「スズちゃん、スズちゃん。」
 名前を呼んでもまだ起きる気配はない。
「ああ、どうしようか。まさか何か悪いものでも食べた?いや、怪我を...?」
 俺は彼女を寝かせたソファの前を腕を組み頭を悩まし、うろうろと歩き回った。
 何十往復した時、むくりと彼女の体が起き上り長い睫がぱたりぱたりと瞬いた。
「スズ!!どこか痛いとこはないか?!大丈夫か?!」
「...。」
 ぱたり、ぱたり。動かない口の代わりに睫が上下する。
「スズちゃん...?」
「...。」
 何も喋らず、ただまっすぐ視線を放り出していて、まるで心をどこかに置いてきたかのようだ。
(だめだ、とりあえず医者だ。)
 俺は一人でどうにかすることを諦めて彼女を抱かえて医務室へと走った。

バタァン!
 勢いよく開けたドアの先には目を丸くした医者。
「ど、どうされましたか?」
「スズちゃんの様子がおかしいんだ!頼む!」
「え?!」
 医者は急いでドアの前に突っ立ったままのスズのもとへと走り寄った。
「う...ん?」
 そして首をかしげた。
 彼女の目の前で確かめるように手を振る。
「青キジ殿、ええっと...どこが悪いのか分かりかねます。」
 お手上げ、とばかりに医者は両手を挙げて首をひねった。
「あれだ、なんだっけ...むかしどっかで読んだ。」
 俺はうんうんと唸りながら脳の引き出しを手当たり次第開けてはひっくり返す。記憶の果てに引っかかったとある東国の話。
「そうだ!キツネ憑き!さっき『こん!』って鳴いたまま喋らなくなって...目が覚めた後も何も喋らないんだ。」
「ええっと...。」
「キツネってどうやったらいなくなるんだ。何かない?」
 俺の言葉に医者は目をぱちくり。なんだ信じてないな。ほんとにあるんだから、キツネに憑かれること。
 医者はおずおずと口を開く。
「わたくしの理解力では...なんとも。ただ、油揚げでキツネを誘い出すというのはどうでしょう。彼らの大好物でしょう?」
(なるほど。)
 俺はポンと手を打った。

 俺は急いで食堂から油揚げを持ってきた。箸で挟めばサクリと音のする香ばしい出来立てだ。それを彼女の目の前にちらつかせる。
「ほら、ほら。どうだ!」
 視界の端で医者がよだれを垂らしているがそんなことを気にしてはいられない。
「出来立てだ、おいしいぞォ」
 端で油揚げを真っ二つにするとじゅわりと油が滲む。醤油とねぎも持ってくるべきだっただろうか。
 可愛い恋人はその垂涎必至の光景をぼーっと眺めるだけ。
 彼女の視線を一切動かさず瞬きだけをする止まったままの瞳を見て医者が「あ!」と声を上げた。
「もしかして、思考が停止しているのかもしれません。」
「え?それってどういうこと?」
「つまり、何か強い心的ショックを受けて脳がマヒしている状態です。何か心あたりは?」
「いや、何も...。」
「とりあえず、気つけ薬を嗅がせてみましょう。これでダメならほかの手を。」
 医者は小さな小瓶の蓋をあけると彼女の鼻へと近づけ手で扇いだ。
 心的ショック?いったいなにが原因だろうか。いや、そもそも原因は本当にそこか?それじゃあ...
「なんで『こん』って鳴いたんだ。」
「さあ、どうしてでしょうか。分かりかねます。彼女の思考力が目を覚ましたらわかると思いますよ。」
 俺は医者と2人で彼女の様子をじっと伺った。彼女は相変わらずたまにぱちぱちと瞬きをするだけで何の変化もない。
 しかし数分後、突然きょろきょろと周囲を見渡し始めた。
「どうやら気が付いたみたいです。」
「スズちゃん、大丈夫?」
 俺は彼女の肩を掴んだ。すると彼女はすっと指を伸ばして俺のシャツの襟元を指差し、そして一点をぐっと押した。
「ど浮気したら許しません。」
 襟元には赤いルージュのキスマークがあった。なるほど、そういうことか。

 彼女の指を退けてから、俺は数時間前に戯れでつけられたそのキスマークを指でぬぐうように滲ませた。

『こん ど浮気したら許しません。』

 今度どころか前からも今からもする予定なんてないよ。こんな可愛い恋人がいるのに。


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mokuji

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