金環日食
「おい、起きろ。起きろ愚図。」 「ん...う...」 スズは生ぬるくて居心地の良いまどろみの中から目を覚ました。 「おはよ。」 「さっさと顔を洗ってこい。」 夢の世界へ片足を放り込んだままのスズに呆れながら、マゼランは彼女の頭に柔らかいタオルを被せた。タオルからは洗い立てのように新鮮なせっけんの香りがする。
スズが寝ぼけた身体をどうにか立たせながら顔を洗って歯を磨いていると後ろからマゼランの声がした。 「遅い。さっさとしろ。」 「まっふぇ。」 待って、もうすぐだから。もごもごと歯ブラシの端を上下に揺らしながら鏡を見ると、向こうの、鏡の世界のマゼランの口元は緩いカーブを描いていた。 (珍しい。) いつもしかめっ面をしているマゼランとは似ても似つかないその柔らかい雰囲気にポーっと呆けていると、後ろから彼に小突かれた。 「さっさとしろ!」 (あ、いつものマゼラン署長。) スズは手早く歯磨きを済ませた。
時間は朝の7時すぎ。外はいつもの朝より薄暗い。 「なぁに、どうしたの。なんでこんな早くに起こしたの。」 いつもならまだ寝ている時間のはず。何かある日だったろうか、とスズは小さな頭を傾げた。 「ほら。」 うんうんと唸るスズの鼻先にマゼランは黒い半透明のフィルムの貼りついた板切れ差し出した。 「なに、これ。」 「日食メガネだ。」 「にっしょく?」 聞き覚えのない言葉を聞き返す。 「にっしょくってなに。」 「日食というのは、太陽が欠ける現象のことだ。」 「太陽欠けるの?!」 いったい世界はどうなってしまうのだろう。スズは自分の知らないうちに世界が終っていくような現実味のない終末感にさいなまれた。 「大丈夫なの?!」 「? お前、たぶん勘違いをしているな。太陽自身が欠けるわけじゃあない。太陽に影がかかるんだ。」 「ううん? うん...うん?」 「いや。もういい。」 マゼランは眉間を押さえた。他人よりうんと知識に乏しいスズのことだ。理解できるわけがなかったのだ。 「マゼラン署長、で、これは何に使うの?」 スズは目の前の板切れを指差してマゼランの目を見つめた。 「ああ。太陽を直接見るのは目に悪いからな。これ越しに見るんだ。」 「なるほどー。」 マゼランの手から板切れを受け取った。 「さ、外に出るぞ。早くしろ、時間がない。」 「やったあ!外でていいの!いやっほう!」 スズのぴょんぴょんと跳ねて喜ぶ姿にマゼランは誰にも気付かれないほどわずかだが頬を緩ませた。 このインペルダウンで半幽閉生活を送っているスズにとっては数少ない外に出る機会なのだ。喜ばないはずがない。
意気揚々と外に出ると、スズは違和感を感じた。 「雨でも降るの?」 お天気雨にも似た変に晴れた暗い空。 「いいや、もうかけ始めてるんだ。」 見てみろ、と空を指差されスズはさっそく日食メガネ越しに太陽を見た。黒いフィルムの向こうに絵に描かれたような細い三日月の太陽がぽっかりと浮かんでいた。 「すごい!変な形ー!」 「これからどんどん影がかぶって、そのうち金の輪になる。」 「ほんと?!」 塀のすぐそばまで走り寄ってスズは空の観測を続ける。 「はしゃぎ過ぎて海に落ちるなよ。」 そんなマゼランの忠告も子供のように好奇心に支配された彼女には届かない。
太陽にかかった黒はゆっくりと滑るようにして太陽に乗る。それに合わせて辺りはいつもの朝より暗くなりいつしか飽和したように明かりと暗闇が交じり合う。
「あ。」 スズが声を上げたとき、丁度綺麗な金色の輪が出来た。 「マゼラン署長、見てみて!真ん丸!真ん丸よ!」 「ああ、見てる。」 マゼランにとっても実に興味深い光景なのだろう。板切れを目に当て、一心に空を見上げている。 スズは空いたほうの手を空へと伸ばした。 「鍵をつないでる輪っかみたい。すぐそこにあるみたい。」 牢獄そばに掛けてあるキーリングのことだろう。スズは見慣れたそれと空にあるそれを比べた。 「こっちのほうがちょっと小さいかな。」 鍵を壁から取るような仕草で空を握るがもちろん手ごたえは得られない。 ふらふらと中を泳ぐスズの腕の横にその何倍も太くたくましい腕が近寄る。 「へくちっ。」 光をずっと見つめていたせいで生理的にくしゃみが出た。 すん、と鼻をすすってからスズはもう一度黒いフィルタの向こうを見た。変わらず光る輪っかが空にあった。 「......」 その輪っかがさっきよりも近くに、手に取れそうだったのでスズはまたゆっくりと手を伸ばした。 そして、それに触れた。 「ん?」 先ほどまでとは違い、あっさりと手にできてしまった金の輪。いったいどうして、と考えてみるが答えは浮かびそうにない。 「マゼラン署長、太陽取れた!」 見て、と彼の前に先ほど手に入れた金の輪を差し出した。 「そうか、よかったな。」 マゼランは自分へと差し出された手をそっと包むとそのまま握りしめた。 「これ、返さなくていいの?太陽なくなっちゃったら大変だよ?」 黙って手を握り続けるマゼランへスズは不安そうに尋ねた。 「いい。もらっておけ。」 「でも。」 「大丈夫だ。見てみろ。」 マゼランは自分の日食メガネを彼女の眼の前に当てて上を見るように言った。 スズが素直にそれを聞いて上を見てみると太陽は変わらずそこにあった。 けれどもスズの手の中にも確かに固い感触がある。 「あれ...?」 「まあ、そういうことだ。」 マゼランはそう言うとそっぽを向いて歩き出した。 「ええ?!」 「取ったんだから、大事にしろ。」 「マゼラン署長?!ねえ、マゼラン署長?!」 スズは彼の後を追い、コートの裾を引っ張ったが何も教えてくれはしなかった。
仕方がないので、スズはその輪を指輪のように指にはめることにした。
「ハンニャバル、これ見てー!」 スズは金色の輪っかのはめられた指を副署長であるハンニャバルに見せた。 「ほう。これはいい指輪。」 「指輪じゃないよ、にっしょくだよ。」 「日食?」「ごほんッ」 仲良く話すスズとハンニャバルの脇でマゼランがバツが悪そうにせき込んだ。 「署長?」「マゼラン署長大丈夫?」 疑惑めいた2つ目玉と心配そうな2つの目玉に見つめられながら、マゼランは逃げるように三方を壁で囲まれた椅子へ腰かけた。 「うるさい。仕事の邪魔だ。談笑するなら出ていけ。」 わざとらしく書類を広げてみるものの、その書類の提出日が1週間も先であることをハンニャバルが即座に見抜いた。 そして数日前に自分がマゼランに言った話を思い出す。 「...署長、まさかとは思いマッシュが...アレやったんですか?」 「......。」 マゼランからの反応はない。 「え、うそ、署長きんもッ!きもーいッ!」 キャー、イヤーン、と騒ぐハンニャバル。その頭をマゼランが引っ掴み口から紫の霧を漏らす。 「署長!ちょっ...やめてッ」 「マゼラン署長、私も!」 怒ったマゼランと苦しむハンニャバルが彼女の眼には戯れているように見えるのか。スズはマゼランの腕にひっついた。 彼女の前では悪魔の実の能力は通用しない。 スズは無害化された毒の霧を胸いっぱいに吸い込んだ。 『日食の日に好きな人と金環日食を見に行って、手に隠し持った指輪を金環日食に見立てて告白すると2人は結ばれる。』 どこから仕入れたのかハンニャバルがその噂話を持ってきた。ばかばかしいとは思いながらもマゼランはそれを真に受けたのだ。 そのあと数日、指輪を部下に買いに行かせるなどマゼランは奔走し今朝に至る。 (結局指輪を渡しただけだが...まあいいか。) 自分の腕にしがみついているスズがとても嬉しそうなのを見て、マゼランは微笑んだ。スズの指にはもちろん金の指輪がはまっている。
*prev next#
[ 43/62 ]
mokuji |