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「アナスタシア様。」
「なんだ。」
 アナスタシアのフリをしたスズが振り向いた。その先には「ふ」と笑いを漏らしたような口元をしたイヴァン。
「どうした。」
 言葉の冷たい字の並びとは正反対の、子供のような顔をしたスズ。
(かわいらしい。)
 その顔がイヴァンには可笑しくて仕方ないのだ。むしろ愛しい。本来の主に似たスズだからこそ、愛らしいと思ってしまう。他の女性ではこんなに熱い保護欲は沸かないであろう。
 彼の目を透せば、目の前のスズは揺らいでアナスタシアへと化けるのだ。
「頭に糸くずが付いております。」
「えっ!どこに」
 わたわたとスズは自分の頭を押さえた。
「せっかくの整えた御髪が崩れます。じっとして。」
 その声にスズはピタッと動きを止める。
 イヴァンは肩のちょっと上で静止した彼女の手をとった。スズ掴まれた腕を逃すように引いた。けれどもすぐにイヴァンに先ほどより強く握り返される。
(手が熱い。)
 ふらり、ふらり、とスズの瞳がイヴァンの膝から胸へそして顔へとなぞり登る。顔の中央には薄い色の石英の様な2つの瞳。柔らかな鉱石を思わせるその目の奥にバチリと火花のようなものを見た気がした。
 イヴァンの唇がそっとスズの耳元に近づく。
『気を張らなくても大丈夫です。』
 それはひっそりと小さいけれど、舌が言葉を打ち出す音に耳がじわりと侵されるような感覚。心臓も止まりそうになる。
 そんなスズを見て一歩引くと今度は普通に話した。
「この会場内では、あなたのことを知っている人間は私とユーリを除けばいません。安心してください。」
「え?」
(どういうこと?)
 アナスタシアは一国の姫のはずだ、とスズの中で記憶が曇る。
「大臣は、来ていませんから。」
「...そう、」
 そうですか、と言いかけた言葉の端を飲み込んだ。その言葉アナスタシアらしくないからだ。
 イヴァンはもう一度スズの耳に近づく。
『大臣と彼の側近以外は。この国の誰もが。アナスタシア様の今を知らない。』
 耳打つ声は続く。
『誰も、我が主が生きているとは知らない。』
(”生きているとは知らない”?)
「な、ぜ」
「...」
 頭の整理が付かずに目を見開き足元の虚空を眺めるスズの肩のほうへ、イヴァンは腕を差し入れるようにして伸ばした。
 首の皮膚から感じる温かさに気付いた時には、イヴァンに抱きしめられていた。
『なぜか、と仰られましたね。アナスタシア様のお母上・アレクサンドラ様がお決めになられたのです。アナスタシア様を亡くなったことにしろ、と。』
 そしてイヴァンはスズへ、アナスタシアがクザンへと話したものと同じ昔の出来事を伝えた。
『アナスタシア様は回復しましたが、アレクサンドラ様の気遣いで命を落としたことになったのです。』
 母の気遣いとは娘の世間からの抹殺。
『アレクサンドラ様が病で亡くなられた後は私どもは大臣の援助を受けながら一国民として暮らしていました。暮らしの中で話を交わす人間もいます。けれど彼らはこのパーティに来れるような身分ではない。そういうことです。お分かりいただけましたか?』
「...大臣は」
「今は港に。”先ほど申したでしょう?”」
 スズは大臣の居場所など聞いた覚えがない。これはイヴァンの演技か、と少ししてから気付いた。
『そろそろ離れてくれませんか...?』
 先ほどのイヴァンのように彼の耳元へごにょごにょと耳打ちをした。けれども彼の腕は緩まるどころかむしろ強くなったではないか。スズはやんわりと身じろいた。
「...」
 ぽそり、とイヴァンが何かを呟く。スズの聴力はそれを拾おうと全神経が耳へと集中する。
 何を、と待つ耳にそれは聞こえた。
「アナスタシア様、」
 子供が母親を探すように、どこか物悲しい声でイヴァンはそう言った。
「イヴァン、さん」
 最後の「さん」は彼以外の他の誰にも聞こえないように、スズは彼を呼んだ。
「アナスタシア様。」
 先ほどよりもぎゅっと締まる腕。ベルベットの青いドレスがうなじを中心に皺を生む。
(イヴァンさん?)
 目を点として身動きが取れなくなった。スズには自分に絡みついている腕のその力の意味が理解できない。離すまいとするそれに籠った意味の重さだけが身に染みる。
(こんなこと、前にも...)
 強い意志を孕む腕に抱きしめられたことはこれが初めてではないことを思い出す。
(クザンさんだ。)
 体格も匂いも目に見える色も通り越して、イヴァンとクザンがかぶった。そして両者を無意識に比べる。イヴァンの腕はクザンのものと比べて柔らかい。力だって弱い。きっとどんな女性でも抱きしめられるならイヴァンのほうがいいだろう。
 けれど、
(どうしてだろう。あまり嬉しくない。)
 クザンに抱きしめられたときは嬉しいと思ったのに。
(恥ずかしくても、あんなに胸がわくわくとしたのに。)
 スズはイヴァンの双椀にクザンを探した。


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mokuji


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