ヒロに乞われるままに英語を教えて、どのくらい経ったのだろう、食堂から飯の匂いが漂ってきた。

彼女はそれに気付くこともなく、隣でうんうん唸りながら『英語の基礎〜初級編〜』と書かれた本と、
貸してやった羽ペンと紙とを交互に睨めっこしながら色んな単語やら文やらを書き散らかしている。

(全く、熱心なことで。)



海上の夜。



きっと放っておけばずっとそうしているんだろうと声を掛けようとしたところで、
彼女は突然丸まっていた背中を勢いよく伸ばして、出来た!と彼女にしては大きな声を上げた。

「ね、マルコさん、これ、意味通じます?」

ずい、と目の前に押し付けるように出されたそれを、苦笑しながら受け取って読んでみる。

アルファベットを書き慣れていないのだろう筆跡で綴られたそれは、
まあ意味は通じなくもないけれど、と言うところか。

神妙な面構えでこちらを見遣る彼女に正直にそう伝えれば、
へにゃりと眉を下げて、やっぱ駄目かー、と呟きながら頭を垂れた。

「ま、半日程度でこれだけ書けりゃァ充分だろい。」

ゆっくりやっていけばいい、と頭にぽんと手を置けば
どこか擽ったそうに微笑む彼女にじんわりと胸が熱くなる。

「…今日は勉強はここら辺にして、飯を食いに行かねェかい。」
「え、もうそんな時間ですか?あ、そういえば外暗い!」

付き合わせてごめんなさい、と申し訳なさそうにするヒロに、
そのうちすらすら読めるようになったら書類の手伝いでもしてくれよい、
と笑ってみせれば、彼女がはい、頑張ります!と自身の胸の前に両手で軽く拳を作って頷いた。



いつもよりも大分歩幅を狭めて、ヒロと並んで食堂に向かって歩く。

食堂の扉を開ければ、いつも通りのむさ苦しい光景が広がっていて、小さく溜息を吐いた。

ヒロの手首を軽く掴んで、野郎共を掻き分けるように食堂の奥へと進む。

何故かニヤニヤと気持ち悪ィ笑みを浮かべておれを見るサッチから飯を受け取って、
ふたつ並んで空いていたカウンター席にヒロと腰を下ろした。

いただきます、と毎食丁寧に手を合わせてから食事を取りはじめる彼女を微笑ましく見ていれば、
おれの視線に気付いたらしい彼女が訝しげに首を傾げる。

「?、どうかしました?」
「…いいや。」

なんでもない顔をして飯を口に運び始めれば、彼女は少し納得行かないような顔をしたものの、再び食事を再開した。

「よォ、相棒!」

がし、と、いつかのように肩に腕を回してきたのは、いつかの通りのうぜぇリーゼントだ。

「…飯の邪魔だよい。」
「まーまー、そう言うなって!」

肩に置かれた手を乱暴に払って睨みつけるも、まァ案の定奴は意に介した様子も無くニヤニヤし続けている。

「チッ、うぜぇ。」
「あれ、マルコサン?心の声漏れちゃってますけど?」
「漏れてんじゃねェ、漏らしてんだよい。」
「お前さあ、もうちょっとおれに優しくしても罰は当たらねェと思うぜ?!」
「はッ、お前に優しくするくれェならミミズにでも優しくしてやるってんだよい。」

え、そこまで?!と煩いサッチを、いい加減相手をするのが面倒になって無視して食事を再開すれば、
無視か!!と床に打ちひしがれるリーゼントが目の端に見えた。

ちらとヒロを見遣れば、いい加減こんなやり取りに慣れたのか、
サッチを少し心配そうに見るも、くすくすと肩を揺らしている。

彼女の楽しそうな姿に頬が緩みかけたところで、弧を描く唇から零れた、仲良しさんですね、と言う言葉に、
ここ十数年どんな強敵に出逢っても感じなかったものが背筋にぞわりと走って顔が引き攣った。
あっという間にいつもの調子に戻っていたサッチも、この言葉には凍りついたかのように固まっている。

飯が不味くなるから止めてくれ、と言えば、心底不思議そうな顔をした彼女が首を傾げた。

そんな彼女に、もう何度目かのにやついた顔をしたサッチが話し掛ける。

「なァ、ヒロちゃんは今日どこで寝るの?」
「え、どこ、って、………あ。」

ああまァ、予想はしてたけどな。
そこまで考えちゃいないんだろうって。

今更自分のベッドがまだ無いことに思い至ったらしい彼女が
"どうしよう"という文字を顔中に貼り付けて慌てだす。

「あ、の、ナースさんの部屋、とか、」
「空きが無ェよい。」
「医務室のベッド、」
「ずっとは無理だってイゾウも言ってたろい。」
「じゃああの、掃除した部屋の床で、」
「またゴ●が出たらどうすんだい。」
「ヒッ…!絶対嫌です!!」
「じゃ、次の島までは諦めておれの部屋で過ごすんだねェ。」
「え゙。」

まだ何か言いたそうな彼女の顔を、覗き込むようにして口の端を吊り上げながら
そんなにゴ●と並んで寝てェのかい?と意地悪く聞いてやれば、
泣きそうな顔をした彼女が、マルコさんの部屋で寝かせてくださいお願いしますと勢いよく頭を下げた。

「さて、そんじゃァ飯も食ったし寝ようかねェ。」
「え!!」

本当はベッドだのクローゼットだの、船大工に造って貰うことだって出来るし、
ベッドが備え付けの空き部屋が無い訳じゃないが、それは彼女には教えない。

(…寝てる間に帰っちまったら、と考えたら、気が気じゃねェんだよい。)













次の島になんて着かなければいい、なんて。

この船に乗ってから初めて思った。

(あの、あの、あ!お風呂、まだですよね!)
(なんだい、一緒に入りてェのかい?)
(そんな訳無いですよね!セクハラパイン!)
(…そんなに頬を抓って欲しかったんなら素直にそう言えよい。)
(え。なんですそのイイえがおぎゃ―――ッ!!!)



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