おはようだとか、いってらっしゃいだとか、おやすみだとか、
そんな言葉だけで満たされることがあるのだなんて、初めて知った。

そして、その声が他の名前を呼ぶだけで腹の底でぐつりと黒い感情が煮えるだなんてことも、
…初めて知った。



ぐつり、ふかり。



(…エースを付いていかせたのは、失敗だったかねェ。)

買い物から帰ってきた彼女は、エースを呼び捨てで呼び、丁寧語も無くなっていた。

船に早く馴染めるのは良いことだとは思うが…面白くない。

そしてそれに気付いたサッチが
「ヒロちゃん、おれも呼び捨て・丁寧語無しでいいぜー!」
と言ったことに対して、彼女は歳が全然違うから無理だと首を横に振ったのだ。

当然、おれが言ったところで同じ反応が返ってくるのだろう。



歳も近いし、エースは最初は警戒していても一度懐いた人間にはとことんな性格だ。

いまもあのナースと三人で甲板に座って、買ってきたものを拡げて
なにやらきゃっきゃと楽しそうに話している。

「…お!ヒロお前これ着るのか?大胆だなー!」
「え?!ちょ、なにそれ水着…?!そんなの買った覚え無いよ!」
「あらそれ、あたしが入れといたのよ。海に居るんだもの、水着くらいなくちゃ。」
「えええエレノア…ッ!」
「お前ちょっといまここでこれ着てみろよ。」
「着るわけないでしょ!エースの馬鹿っ!」

我知らず、チ、と舌打ちが漏れる。

その光景から目を逸らしたいのに、
彼女が確かにここに存在していることを確かめたくて、目を離せない。

(…女々しいな。)

おれは一体いつからこんなに女々しくなった。


ふと、彼女と目が合う。


と、彼女が徐に立ち上がって、おれの方に小走りに寄ってきた。

嬉しいはずなのに、いまはその笑顔すら、少しの苛立ちに変わる。


「マルコさん!」
「…おかえり。」

なるべくその不条理な苛立ちを隠して言えば、
彼女は少しだけ頬を染めて、ただいまですと笑った。

「…ふふ、なんだか久しぶりです。」

誰かにおかえりって言われるのも、ただいまって言うのも。

言いながら照れたように笑う彼女に、少し苛立ちが消えて自身の頬が緩むのが解る。

彼女の身体を少しだけ引き寄せて、ガーゼの無い方の頬を
ゆるゆると手の甲で撫でるようにすれば、一瞬きょとんとした彼女の顔が一気に赤みを増して口をぱくぱくさせた。

「ッ、マ、マルコさん…?」
「………うん?」
「あの…ッ、恥ずかしいんですけど。」
「…そうかい。」

真っ赤な顔のままきょろきょろと目を忙しなく動かすヒロに、喉の奥から笑いが漏れる。

次の瞬間、こういうことはですね、好きなひとにだけしてください。なんて
眉尻を下げながら言うもんだから、お前だ馬鹿と言いそうになった。

(…駄目だ、言ったら。)



彼女は、この世界に来たことが怖いと泣いたのだから。

彼女がそうしてくれたように、おれも彼女が元の世界に帰れるように、協力しなくては。

頬を撫でていた手を少し上へと移動して、さらりと髪を撫でる。



(そうしてくれたように、なんて、)


果たして出来るのか。
いまでさえ、彼女が知らないうちに帰ってしまうのが怖くて
船に書庫に案内するどころか、そんなものがあることすら言えずにいるのに。



「…?マルコさん?」


何も言わないおれを、ヒロが訝しげな顔でみつめた。


「…いや、買い物は楽しかったかい?」
「ゔ、あの、買い過ぎてすみません。」
「…くく、そういう意味じゃねェよい。」

そもそも女に物を買ってやったことなんざ無いから、
買い過ぎなのかどうかなんてわからない。

あの、買い過ぎは申し訳なかったんですけど、と続ける彼女に、ん?と先を促せば、


「…マルコさんの自慢の家族は、やっぱり素敵な方ばかりですね。」

凄く楽しかったです。


ふわりと微笑んでそんなことを言うもんだから。

















…ああもう、攫って何処かに綴じ込めてしまいたい。

(…おれはお前と違って、お人好しじゃねェんだよい。)
(え、なんの話ですか。っていうか充分お人好しだとおもいますけど。)

馬鹿、全部下心付きだ。



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