『おやすみ』
脈絡なく、それだけを打ち込んで送ったメール。返って来ても来なくてもいいと思った。だからこそこれだけを送った。
少ししてメールの着信を知らせる携帯を期待して開くと、短くて簡潔ではあるけど、靄がかった胸の内を晴らすには十分な返信が来ていた。

『明日いつもの時間に迎えに行く。おやすみ』





誰彼の悪戯?





少し寝不足気味のキッドは携帯のアラームを止めながらベッドから起き上がった。音の止まった携帯をベッドに放り投げたその手で自身の胸元を触る。相変わらずそこにある暖かい膨らみを認めて、どこか諦めたような笑みを零した。
少しだけ思いに浸ると、それきり気持ちを入れ替えた。テレビをつけて顔を洗う。いつも通りの朝を過ごした。

八時を前にベッドに投げっぱなしにしていた携帯がメールの新着を告げる。「おはよう。下で待ってる」そう綴られたメールの差出人はローだった。
キッドは最後の1口となったパンを野菜ジュースで流し込み、教材のほとんど入っていないスクールバッグを掴むと返信していない携帯をそのバッグのポケットに突っ込んでパタパタと家を出た。

「…おはよう」
「おはよう…ユースタス屋」

キッドの住むアパートの下でローは待っていた。学校では毎日のように顔を合わせていたが、こうして二人きりで対面したのはもう随分前のことだったような気がする。

「慌ててこなくてもよかったんだぞ?」
「え?あ…」

キッドの頬に掛る髪をローの指が掬い少し手櫛を通して乱れを直した。身体が変化してから、すっかり髪質も変わってしまったキッドは赤い髪を逆立てるのをやめて自然なままに下ろしていた。
少し癖のついた軽やかな髪は朝の陽に当てられてとても鮮やかだ。
ローは久々に触れたキッドの髪のさわり心地の良さに目を細め、キッドはローから触れられたことに胸が締め付けられそうなほどの嬉しさを感じる。
それ程、長い間お互いに向き合っていなかったのだ。

「…行くか。遅刻する」
「おう…あ、チャリ…」
「…チャリ?って…ユースタス屋」
「ん?」

それも悪くはないと思いつつも、いつまでも道端で見つめ合っているわけにもいかない。ローはなんとなく照れくさく思いながらキッドを促した。すると、キッドは思い出したように傍の駐輪場に駆け寄り、自分の自転車を出して来た。
目一杯に引き上げていたサドルは今やその3分の1程度しか延ばされていなかった。
キッドは自転車にまたがるとローの傍に着ける。

「…2人乗りする気か?」
「?おう。この方が早ェだろ」

さも当たり前と言った顔をするキッドにローはつい溜息を零した。男の時ならば確かに、ほぼ毎日のようにキッドの乗る自転車の後ろにローを乗せ学校までの道のりを走っていた。
だが、今のキッドは女の身体であり、女の力で、女の体力である。

「ぐっ……!!」
「危なくねェか…?」

口で言ってもきっと解らないだろうと、ローは何も言わずに荷台に跨りキッドの細い腰に手を回した。その腰に触れるのも、キッドの背後に回るのもローにとっては様々な葛藤のタネになるのだがそんなことをキッドが知る由もなく、重さでバランスの取り難い自転車のハンドルと格闘していた。
ローは極力、躰が密着しないように心がけつつ、ヘロヘロと進む自転車が倒れないように足は地面につけて、自転車に跨りながら半ば歩いている状態である。
ガクガクと左右に振られる自転車の頭と、キッドの赤くなる頬と腕の筋力が危なっかしくなり、ローはついにキッドの腰から手を離して後ろからハンドルを掴んだ。漸くバランスは取れたがキッドにとっては悔しさ以外の何物でのない。

「ふっ…クッソ…!!」
「ユースタス屋、代わろう。コケたらみっともねェ」
「…くっそぉ!」



サー、と景色が流れるのをキッドはぼんやりと見送った。
ローの漕ぐ自転車の後ろに座り、軽くローの腰に腕を回して掴まっている。普通に自転車を跨いで座ろうとしたキッドに「スカート捲れるぜ?」と困ったように笑ったローの意を汲んで横から腰掛ける様に座った。
(女みたいな座り方……、あ。おれ女か…)
改めてそう思いながら目の前の背中を見る。男の時には感じることなんてなかったが、今のキッドにはローの背は男らしく広い背中だと感じられた。
額をくっつけると背骨に当たったらしくコツ、とした感触がローにもキッドにも伝わる。

「…」
「ユースタス屋?」
「…なぁ、あのさ……」


学校への道を逸れて、着いた先は閑散とした公園だった。早朝にと言うには時間が遅いし通勤通学の時間のピークも迎えた頃だ。人通りがないのをいいことに、2人はポツリと置かれたベンチに腰掛けた。ベンチの端と端。微妙な距離感で肩を並べ、暫くはどちらも話出すタイミングが見つからず気まずい空気になる。
しかし学校に行ってしまえば話す時間も限られ、いくらでも逃げ道を作って後回しにしてしまいそうな気がしたのでキッドは学校をさぼろうと提案した。
上手い言い訳や誘い方が出来ずついつい「学校に行きたくない」と不登校児のような言い方になったが、ローは声に出さずに笑うと自転車のハンドルを切った。

「ボニーがさ」
「…、ああ」
「シャチに告られたんだってよ」
「ああそう……は?」
「まさかだよな」
「そう、だな……驚いた」

口火を切ったキッドから出たボニーの名に、ローは先日ボニーとシャチに呼び出されたことを思い出した。さっそく本題についてかと思いきや、まったく予想していなかったことが告げられる。
素っ頓狂な声を返すローにキッドは神妙そうに呟き、また静かな空気がまとわりつく。

「…フフッ……。そうか、シャチがなァ…」
「全然、気が付かなかった」
「そうだな。おれも気が付かなかった…だが、なるほど…」
「…?」
「いや、いい話のネタになりそうだと思ってな」

静かな空気を打ち破ったローの笑い声に、キッドも表情を和らげて笑う。
ローは柄にもなく緊張していた躰をだらしなくベンチの背凭れに預け、シャチが珍しく首を突っ込んできた理由を理解する。ジュエリーが放っておけなかったのか…そう納得をするローはいつもにやけ面をした悪友に胸の内で舌打ちをした。あとでどうからかってやるかの算段も忘れずに。

「付き合うつもりなのか?」
「どうだろうな…。ボニーは「わからねェ」だって…なんか迷ってるっつってた」
「まぁ、そうだろうな…」
「悪い奴じゃねぇよな…シャチ」
「だな。ムカつくが…」
「…ペンギンも、悪い奴じゃねーと思うんだけど」
「うん?」
「なんか、ペンギン…苦手になった」
「どうして」
「うー……」

スカートのプリーツを弄りながらキッドは言い淀んだ。視線が明後日を向き泳ぎだす。ローは首を傾げながらキッドが話すまで根気強く待つつもりでキッドの方を見ていた。パクパクと、躊躇い開閉を繰り返す唇からペンギンを苦手と感じるようになった出来事が語られ始めた。

「…」
「いや、なんつーか…おれの為だってのはわかってんだけど流石にビビったつーか…女だって実感したっつーか」

ローはむっつりと閉口したままキッドの話を聞いた。ペンギンの所業に沸々とした怒りが湧いてくる。
確かに、キッドを苛ませたのはロー自身かもしれないが他の男がキッドに過剰に触れたと聞けばそう許せることではない。それに、シャチが言っていた懸念にこれほど当てはまる行為をペンギンが行ったと言うことは悪友2人の間に、妙な結託が出来ていたということだ。ますます腹立たしさが増した。

「…悪かった…おれの所為だ。ペンギンも、もうへんなちょっかいはださねぇよ…」
「つー、ことはさ…。ペンギンが言ってたこと、本当なのか?」
「……まぁな。相違ねェよ…戸惑ってる。今もな」

その戸惑いを現す様に困ったような顔でローは笑い、しかししっかりとキッドと視線を合わせた。

「ペンギンのこと苦手になったんだろ?おれはそれが怖かったんだ。ペンギンと同じことして、ユースタス屋に怖がられたり嫌われたらと思うと…」

でも、それでユースタス屋から逃げてたんじゃ同じことだな。と謝るローにキッドは漸くローの気持ちを知ることができて不安だった気持ちが楽になる。
ペンギンが言っていたことがローの戸惑いその物だったが、本人の口から聞くまではただの慰めにしか感じていなかった。
そして、確かにペンギンに抱き寄せられたり甘い言葉を囁かれたことにはゾッとするものを覚えたが、それはロー以外の男だからであって…。キッドは言いたい言葉が山ほどあったが喉元でつっかえるばかりで言葉が出て行かない。
もどかしくなり、ローの袖をぎゅっと握った。座っていても見上げなければ見えないローの顔を見つめて縋る。

「ユースタス屋…」
「…っ」

ぎゅ、と背に回った腕に引き寄せられて広い胸元が目の前に迫る。キッドはその胸に頬を寄せて自らも抱き着いた。
抱き包まれる躰にローの体温がじんわりと広がっていくような気がして心地が良いい。
キッドの柔らかく細い躰が腕に馴染み、ローはもう少しだけ、抱きしめる腕に力を込めた。

「おれは…」

ローの腕の中、くぐもった声でキッドはぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
女の身体になって戸惑ったのは勿論だったが、女の躰ならはローとの関係に後ろめたさがなくなるのではないかと、そう思った。男の時には躊躇ったいろいろなことができるのではないかと考えもした。
女の身体がわからず不安で仕方なくとも、この身体が初潮を迎えた時…もう元の自分に戻れないかもしれないと悟っても、感じたのは絶望だけではなく確かな喜びもあった。
不思議と、それがローに対する恋心で、同時に女心なのだろうとキッドは落ち着いた頭で理解ができていた。

「お前ならいいと思ったんだ…」
「ユースタス屋」
「都合のいい身体になったって、お前に喜んでほしかった」
「…、だが」
「お前なら、ちゃんと、おれはおれだって…言って…ッ…いままでと、かわんねぇって、言ってっ…」
「ユースタス屋…ッ」

しゃくり上げるキッドの肩を強く抱きしめ、ローは胸元の頭に頬を寄せた。
女のようにさめざめと涙をこぼすのではなく、キッドは堪えきれない涙を零して融通の利かない事柄に悔しさを募らせるように歯を食いしばり、呻るようにすすり泣く。そんな声を聴きながらローの中には愛しさばかりがこみ上げていた。

「女扱いしちまうかもしれねェけど、いいのか…?」
「んなの…男の時にされるよりかマシだ…バカやろう」
「おれ…気が引けるんだよ。前のユースタス屋ともヤってねェのに…今のお前に手ェ出していいのかってすっげー迷う」
「……バッカじゃねーの…おれはそんなの…」

恥ずかしさからか、キッドは爪を立てるようにローのワイシャツを握り閉めた。髪の隙間から見える耳までも真赤に染まり、ローの胸元に埋もれた顔が熱く火照りだす。
消え入るような声は辛うじてローの耳に届き、ローは腕の力を緩めるとキッドの頬に手を添えた。
そっと、顔を上げさせても伏目がちになっているキッドの額に唇が触れる。

少し驚いたキッドが視線を上げた時、ゆっくりと唇が重なった。







3限目終了の鐘が鳴るのを見計らってローとキッドは登校した。仲良く大遅刻をしてきた2人の雰囲気に彼らの仲を知る者は少なからず安堵し、どう茶化してやろうかと思いながら温かい目を向ける。
当の2人には、その目も生温い物にしか感じられず気恥ずかしさを感じたが、視線には気付かない振りをした。

「よっ、キッド」
「ボニー…」
「もう、大丈夫そうだな?」
「…おう」
「お、ローにユースタス〜。お揃いで重役出勤だったなァ」
「よう、シャチ…」
「え、ちょ…ローなんでそんなに素敵な笑顔をおれに…ちょ、コワッ!めっちゃコワイ!」
「フフ…お前には返しきらねェほどの礼が山ほどあんだよ…笑顔くらいサービスしてやるさ」
「なんだありゃ?」
「さぁ…?」
「ペンギンにもお礼参りと行くか」

昼休みになり、キッドの周りにはさっそくとばかりに友人たちが顔を出した。
ローはシャチとペンギンを半ば強制的に引き連れて「先に飯食っててくれ」と言い残し何処かへ行ってしまう。きっともう昼休み中には帰ってこないだろうなとキッドとボニーは予想しつつ、言われるまでもなくさっさと昼食に手を付けた。

いつもと変わらない賑やかな昼休みとなった。

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