「はーいいろはちゃん、右利きだったよね?じゃあ左手ここにのせてねー」

「あ、はい…あの、ちょっと待ってください。私見ないんで、打つ時は打ちますって言って下さいね、じゃあ私向こう向いとくんで、よろしくお願いしますよ、ほんとに、打ちますって言って下さいね?ほんとですよ?神に誓って下さい」

「はいはい、打ちますよー」

「え、ちょ、待ってください。いくらなんでもいきなりはだめですよ。もうちょっと間をおいてくださいって…ど、どこに針刺してんですか?!なんで手首?!私そんなところに打たれたのはじめてなんですけど大丈夫なんですか?っていうかなんか痛いんですけどこれ絶対骨に刺さってますよ。痛い痛い痛い痛い痛い…!やだやだもうやだ帰りたいだってこれ刺さってるこれ刺さってますよねえ!」

「そりゃあ点滴ですからねえ」



先ほどまで隣でおもしろいほど震えておびえていた彼女は、いざ本番になるともっと面白い反応をしてみせた。かなり饒舌になっている。きっと今自分が何を言っているのかすらも分かっていないのだろう。もう最後の方になると若干涙目になりつつ「痛い痛い痛い…」とぶつぶつ呟いて気を紛らわせようと必死である。自分の番が終わった俺は、採血のため先ほどまで針が刺さっていた部分をさすりながら通りがかりに偶然その場を目撃してしまった。はっきり言って爆笑ものである。しかし病院内で大笑いするわけにもいかないので、俺は俯いてひそかに肩を震わせた。きっと傍目から見ればかなりおかしな奴に見えるだろうが、いやいや彼女のあれよりはましだろう。なんて。



「あー…おかしい」



笑いすぎて目に溜まった涙をぬぐった俺は、再び手すりを掴み病室へと進む。
こんなに腹がよじれそうになるまで笑ったのはいつぶりだろうか。もしかすると、奴らといっしょにいてもここまで笑ったことは一度もないかもしれない。チームメイトの顔が浮かんだと思えば消えて、次に浮かんだのは彼女のおびえた表情だった。慣れてしまえばこっちのものだが、慣れほど恐ろしいものはないのだ。しまいにはそれが根付けば根付くほど、離れられなくなっていくだけなのだから。そう、俺はこんなところで止まっている場合じゃないのだ。進まなければならない。