100円カステラ
 吐き気がした。
 僕は流し台の縁に両手をついてえづく。アクの強い時期外れのタケノコを食べた時みたいに、喉の奥がいがいがした。
 ひとしきりゲエゲエと吐き出してからステンレスを見下ろすと、さっきまでと同じ綺麗に磨き上げられた銀盤が僕の影を映す。ああ、今、胃袋に何もないもんな。とりあえず蛇口を捻って水で洗い流した。
「綺麗好きなんですね」
 振り返るとあいつがちゃぶ台の前で正座していた。のりの効いた白いシャツ、濃紺のスラックス。僕の高校時代の制服だ。そいつは薄ら寒い笑顔を顔面に張り付かせている。唇が描くU字が、在りし日の僕をまざまざと思い起こさせた。行儀が良くて、大人に好かれる作法を熟知していて、それを実践することに何のためらいも疑問も持たない、家畜のような高校生、その学生生活。
「相変わらず」
 そいつはさっきの言葉に連ねるようにしてそう言った。その後の言葉を待ってみたが、空白ばかりが続いて音沙汰がない。そいつの言いたいことはそこで終わりだったらしい。
「ああ、そういう習慣がついてしまったからね」
「そう、習慣」
 含むように繰り返し、そいつは笑顔をますます深くえくぼに刻む。
 見透かされた気がして、僕は首を振った。
「お前が来るだろうから、掃除したんだよ。僕はちっとも綺麗好きじゃないし、お前はそれを見て嫌そうな顔、するだろ?」
「自堕落が」
 そいつは湯呑みの茶をすする。
「部屋には現れますからね。あなたは、将来を見据えて生きていますか? 今のあなたには人間らしさがない。いや、人間の営みがない、と言うべきか。友人も持たず、たまの誘いも断り、狭い部屋の中で悶々と日々を過ごしている。口ばかり達者になって、素直さすら失った」
「お前は、どうなんだよ」
「上々ですよ。進学校ですからね。毎日の勉強にも充実感があります。息抜きに友人と馬鹿をやるのも楽しい。彼女も出来て……ああ、これはフラれたあなたには禁句でしたか」
「別にかまわない。だけど、それ以外何をしている?」
 そいつはコトン、と首を傾げた。芝居がかった仕種だったが、見開かれ浮遊する瞳は、真剣に僕の質問に答えようとする証だった。そいつの前に茶菓子を出す。スーパーで売っていたカステラ。だが、そいつが茶菓子を食べたことは一度もない。遠慮ではなく、食べるという発想が初めからないのだ。人様から食べ物を貰うなんて餓鬼のすることだ、はしたない、とそいつの両親が言い聞かせているのだろう。
「相変わらず」
 僕は口に出してそのフレーズを言ってみた。相変わらず。口癖だった。何と言ったって、時の変遷も世界の変遷も恐ろしく激しいのに、学舎に囲まれた楽園はいつも同じ毎日を繰り返していたからだ。今ならわかる。あそこにあった変化は、かりそめの、ちゃちなものだった。
「それ以外は、習い事を。お茶の。あなたも知ってるとは思いますが」
 湯呑みを持つ手の形だけは、優雅だった。白い紙みたいな頬をぴくりともさせずにお茶を飲む。美味しそうには見えない。だが、そいつは言う。
「美味しい。これだけは格別ですね。お茶菓子の貧相さには眉が曲がりますが」
「食えよ、それも」
 いらいらした。そいつの飄々とした、見下すような態度が。勉強以外何もしていないくせに、順風満帆で凪いだ海原にいる癖に、それで立派に生きていると思い込んでいるような所が。
「要りません」
「食え」
「要り」
 口の中にカステラを捩込む。そいつはいやいやカステラを噛んだ。噛んで味わって飲み込んだ。何かが皿の上に降る。涙。さっきまでの能面のような顔が、プレスされたアルミ缶のように潰れて、細い目の端から涙が溢れているのだった。
「ぱさぱさじゃないですか。よくこんなもの」
「食べてて悪かったな」
 高級な物しか食べたことないお坊ちゃんには衝撃的だったのだろうな。僕はそのぱさぱさに馴染んだ口蓋と舌でカステラを手づかみして食べる。お茶は飲まない。こんなまずいもの、飲みたいとは思わない。
「どうして、何もしないんですか」
「性分だからだよ」
「お茶の道も諦めてしまったんですか」
「ほっとけよ」
「誰とも繋がろうとしないんですか」
「怖いからだよ」
「僕は、怖くない」
「そうだろうな」
「適当に答えるな!」
「適当じゃないよ」
 僕は叫んで膝立ちになったそいつの肩を押して座らせた。
「いつか気付くよ」
「何をですか?」
「恵まれ過ぎた自分の境遇だとか、平和ボケした自分の頭の中だとか、理不尽に逆らえない可哀相な心だとか」
「僕は可哀相じゃない!」
 僕はそいつが立ち上がる瞬間を捕まえその体を抱きしめた。そいつは僕の胸を殴ることもせず、ただ涙を垂れ流している。
「可哀相って言われたらな、普通は怒るんだ。ただ抱きしめられて泣いてあやされてるだけじゃ駄目だ」
「何も持たないあなたこそ可哀相だ」
「ごめん」
「どうして、謝るんですか」
「お前から全部取り上げてごめん」
「僕はあなたの持たないものを」
「持ってるね。だけど、いつか捨てるよ。お前は、茶道を選びたいから。そのために全て捨てる」
 僕はそいつの背中をゆっくりとさすった。僕はただ泣いていた。全てを失う未来を告げられて、選んだ道すら閉ざされた未来を見せられて、泣かない奴はいないだろう。少なくとも、過去の僕は泣いた。未来を壊されて絶望の中泣いた。
「いつかお前も気付くよ。ぱさぱさのカステラの美味しさに。自分のいれるお茶のまずさに」
 僕は、さっきカステラを食べた時なぜ腕の中の”僕”が涙を流したか知っている。ぱさぱさで歯ごたえも悪くて味のバランスも目茶苦茶なカステラなのに、確かに心を震わせる何かを感じたからだ。食べる者の渇望を引き出す物足りなさに似た何か。それが何なのか僕にだって答えられないけど。
「捨てたことは無駄じゃなかったって証明するから。お前のために、証明するから。もう少し待って欲しい。僕は”僕”のままだと気付けないものにいっぱい気付いたから、それでいつか、証明するから」
 鼻水をすする音がした。糊の効いたシャツからは、育ちのよい太陽の匂いがする。懐かしい。真っ直ぐに伸びた背筋はずいぶん曲がってしまったけれど、僕は、それをいいと本気で思っているわけじゃないけれど、もう、そろそろ終わらせないといけないなとどこかで警鐘が鳴り響くけど、でも、後少しだけ待って欲しい。必ず、またお前の納得する僕になって見せるから。
「わかりました」
 言いづらそうにそいつは頷いて、消えた。


 僕はひとり目を覚ます。
 ゴミ溜めのような部屋の中央で。
 カップ麺の殻で埋め尽くされた座卓の端で、湯呑みが埃をかぶっている。改めてカップ麺は腹に溜まらないと気付いたのはいつだったか。以来カップ麺すら食べない毎日が続いている。どこかで雀が鳴き、足の先に太陽が引っ掛かっていた。


 嫌な、夢だ。


 僕は僕を騙しながら生きている。見栄と枯れきった野望を抱えて。


 瞼を閉じた。
 その僕の耳に、未来の僕から声がする。


「いつまで待てばいい?」




100円カステラ
お前と僕の、ループするだけの日々





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