ナイトレイブンカレッジは、このツイステッドワンダーランド有数の名門魔法士養成学校であり、その名にふさわしい、巨大な図書室を有している。歴史ある教育機関には、世界中から貴重な文献やありとあらゆる魔導書が集まってくるものだ。
オレが初めて図書室を訪れたのは、魔法史の課題で出されたレポートに使う課題図書を借りるためだった。街の本屋や購買で購入したり、先輩のお下がりを使う生徒が多かったが、オレはそうしなかった。ただのレポートのために金を払って本を買うなんてもったいないことはもってのほかだし、自分の近くにいる先輩といえばレオナ・キングスカラーだったが、彼が真面目にレポートを提出しているわけも、課題図書をきちんとどこかに取っておいているわけもない。この学校の図書室には馬鹿みたいに本があるのだから、レポート用の課題図書くらいあるだろうと、今まで一歩も寄り付かなかったそこへ行き、運よく他の生徒に借りられる前に借りることができたのだ。
課題図書を借り、無事レポートを提出した。それまではよかった。しかし、その時まで図書館で本を借りるなんてことをしてこなかったオレは、その本を返却するのをすっかり忘れていたのだ。
本の貸し出しは、マジカルペンを使って行われる。図書室のカウンターに備え付けられている特別な帳簿に、マジカルペンで本の名前と借りる生徒の名前を書くことで、マジカルペンの魔法石とそのインクで書かれた文字とが紐づいて、貸し出し状況を管理するのだそうだ。その手続きをせずに図書室から本を持ち出した場合、図書室の扉の両脇に飾られたカラスの石像がけたたましく鳴き叫ぶ仕組みになっている。そんな図書室で、返却期限を過ぎたら何を課されるのかなんて、考えるのも恐ろしい。こんなことで評価を落とされてはたまったものではない。
学園の教室や講堂よりも重厚な扉を押し開ける。いつも人の少ないその場所は、生徒たちが部活動に励む放課後だからなのか、より静まり返っていた。
「あれ、どなた?」
「ひえっ!?」
すぐ横から声が聞こえて、地面から飛び上がる。心臓がドクドクと脈打って、自らの危機を知らせていた。獣人属は、人間などの他の種属よりも聴覚や嗅覚などの感覚が鋭くつくられているから、今みたいに不意を突かれることはほとんどない。相手が自分のことを認識するよりも先に、こちらが相手の気配を察知できるからだ。けれどこの場所は、あちらこちらからいろんな魔法の気配がして、人間の気配など紛れてしまう。おそらく、本自体が魔法力を持っていたり、それらの本をここに留めておくための魔法が使われているからだろう。自分の視界に見えるものだけでも、ページを羽ばたかせて空中を飛び回っている本がいくつもあった。
そして、オレを飛び上がらせた張本人は、図書室の扉のすぐ横にある本棚に立てかけられた梯子からこちらを見下ろしている。
「びっくりさせてごめんね。返却?」
「あ……そう、ッス」
大袈裟な反応をしてしまったことが気恥ずかしく、曖昧な返事をするが、その人はオレの返事に頷き返して梯子から降りた。本を借りたときもこの人に手続きをしてもらったはずだが、あの時は本を借りてさっさとレポートを済ませることしか頭になかったから、記憶はあやふやだ。だが、存在自体はよく知っている。この図書室の司書であるこの人は、男子校であるナイトレイブンカレッジにおいて数少ない女性であるからだ。
この学園には、四学年がそれぞれAからEの五クラスあり、その分勤めている教師も大勢いる。その中には当然女性もおり、養護教師や、占星術の担当教員なんかも女性だ。生徒はもちろん男だけなので、男だらけの閉鎖空間に女教師なんてものが現れれば、生徒たちの関心が集まりやすいのも当然のことである。少数の女教師の中で自分はどの教師が好みか、などという派閥までが存在するらしい。トップの派閥は擁護教師のもので、大人の色気を絵に描いたような彼女はすっかり学園のマドンナ的な存在だ。
その擁護教師と比べると、彼女はいささか地味なようである。長い髪を緩く縛って、シンプルなブラウスを着た肩は薄く首は細い。前髪は長くて、大きな丸い眼鏡をかけているから表情は見えづらいけれど、よくよく見るとその瞳は淡いペリドットグリーンをしている。
返却用の手続きをしてくれるのだろう、オレの前に立ってカウンターへ向かう彼女の背へ向かって、おずおずと声をかけた。
「あのー……ゴメンナサイ、期限過ぎちゃってるんスけど」
「ああ、大丈夫。一日でしょう? 一週間過ぎたら、本が鳴き出すから、次は気をつけて」
返却期限の遅延について特に咎められる様子もなく、思わぬ反応に拍子抜けをした。だが、本が鳴き出すという言葉に頬が引き攣るのを感じる。そういえば、以前魔法薬学の授業中に、フロイドの鞄から何の魔物の鳴き声かと思うようなとてつもない異音がして、クルーウェルにしこたま叱られていたような気がしたが、あれはもしや本の返却期限を過ぎたときの警告音だったのだろうか。そう思い出して、自分もそうなっていた可能性を考えてゾッとした。
カウンターの裏に回った彼女は、柄が濃紺と紫のグラデーションになっているガラスペンのペン尻を唇に押し当てながら、オレの返却した本と、貸し出しの際に記帳をした帳簿とを見比べている。確認が終わったのか、備え付けのインク瓶にペン先を浸し、帳簿にチェックを入れた。すると、本はまるで自らの意思を持っているかのようにページを羽ばたかせて、図書室の奥へ消えていく。おそらく、本棚の元あったところへ戻っていったのだ。
ほう、と息を吐いてしまう。一連の流れは、もちろん魔法によるものなのだろうけれど、まるで自分の眷属を使役するように本を操る彼女の魔法が、自分の身近にいるどの魔法士たちのそれよりも繊細で、うつくしいもののように見えた。
本の行く先を追っていた視線を元に戻すと、彼女の視線が自分の方を向いていたから、ぎくりと身体が強張る。しかし、なぜか視線は合わない。その瞳は、自分の顔の、少しだけ上の方を見つめているらしい。
「犬? 猫?」
唐突に、彼女はそう言う。その言葉と、彼女の視線の先とを紐付けると、すぐに自分の耳のことを言っているのだと分かった。人の耳を見てそんなことを言う不躾さと、犬か猫か、なんて大まか過ぎる分類に、なんとなくムッとしてしまう。確かにこの学園にいる獣人属には、イヌ科とネコ科の生徒が多いのかもしれないけれど、ハイエナの獣人として生きてきた自分にとって、そう一括りにされることは面白いことではない。
「……犬でも猫でもないッスよ」
「へえ、じゃあそれは何の耳?」
あからさまにトーンの下がった自分の声に、彼女は一切気を取られることなく、なんなら素直に目を丸くして首を傾げた。その様子に、何故だか気に食わないことを言われたはずの自分の方が気後してしまう。
何の耳、と言われて、答えるのに一瞬躊躇した。ハイエナとして生きてきて、自分たちの種族が傍目からどう見られているかも、そう言われるにふさわしい生き方をしていることも、オレは十分理解している。その上で、引け目に感じることなどとっくの昔になくなっていたはずだ。それなのに、純粋な興味で瞳を光らせる視線に晒されると、どうにも居心地が悪くて、視線を逸さずにはいられない。
「……ハイエナ」
低く、小さい声だった。けれど、不自然なほど静かで、本の羽ばたく音しか聞こえないこの場所で、目の前にいる彼女に届くには十分だ。視線を落として、カウンターの古臭い木目を無意味に目でなぞる。これで彼女にどう思われたって、自分にとっては別にどうでもいいことだ。
「ふうん」という、思いの外淡々とした相槌に、そっと視線をあげる。
「怖いんだね」
長い前髪と、大きな丸い形の眼鏡の奥で、ペリドットグリーンの瞳は笑っていた。先ほどよりも近い距離にあるその瞳は、髪と同じ色の睫毛で覆われている。その睫毛が上下して、瞳のグリーンが隠れたり現れたりする様子は、まるで宝石の瞬きのようだった。それを見ている間、オレは時間が止まったみたいに錯覚をする。
自分のことを「怖い」と言うその言葉が、どんな意味を孕んでいるのかちっともわからなかった。揶揄にしては、その声は柔らかく、恐怖にしては、表情が伴わない。
何も言い返せず固まる自分を尻目に、彼女は立ち上がって、天井高くまで敷き詰められた本棚の群の中へ進んでいく。
「また来てね、ハイエナさん」
ハイエナさん、そう自分を呼ぶ彼女の姿に、オレのことを「怖い」だなんてこれっぽちも思っていないこと。それだけが、わかった。
図書室の司書である彼女と初めて言葉を交わしてから、学園のゴーストたちや教師に彼女のことを少しだけ聞いた。長いことこの学園にいる(皮肉だ)レオナさんも何かしら知っていそうだけれど、聞いたところで弱みを握られるだけだろうから、死んでも聞きたくはない。
何でも、彼女はたった一人であの膨大な数の本を有している図書室を管理しており、あそこにある全ての本の名前・分類・保管場所を記憶しているのだそうだ。高い天井の壁一面を本で埋め尽くされ、数えるのも億劫になるほどの本棚が所狭しと並んでいて、その全貌を掴み切れないくらいの広さをしたあの部屋。中の回廊は迷路のようで、生徒では立ち入れない地下書庫もあるらしい。ツイステッドワンダーランド中から集められた文献や魔導書だけでなく、物語や図録、レシピ本の類、さらには、生徒には閲覧禁止の禁書や、触れただけで意識を奪われる呪いの書まであるという。それらの全てを管理している、それが彼女だ。
しかし、何を聞いても、ピンとこなかった。自分にとって彼女は、鳥遣いのように本を操り、自分を「ハイエナさん」と呼んで笑った、よくわからない人であったから。
「いらっしゃい、ハイエナさん」
偶然、本当に偶然、何となく気が向いたので、図書室の方へ足を向けた。重い扉を開けて、今度は驚いて飛び上がることのないようにすぐに左右を確かめる。彼女の姿はなかったが、部屋の奥の方から、彼女を乗せた梯子が本棚伝いにまるで箒のように飛んできて、その人はオレを見て笑った。
長いスカートをふわりと膨らませて床に降り立つところまでを見届けて、口を開く。
「……ハイエナじゃなくて、ラギー・ブッチッス」
今日も大きな丸い眼鏡をかけている瞳は、オレの言葉に目を丸くし、次の瞬間には笑っていた。それは、オレを「怖い」と言って笑ったあの時とは違う、ただのにっこりとした笑みであった。
偶然気が向いて立ち寄っただけで、元々本を読むような質でもないオレは、だだっ広い机の端の席に座り、手近な本棚から取った本を読むでもなくパラパラとめくる。適当に選んだ本は、雪国にある王家の姉妹の物語で、表紙には荘厳な装飾が施されていた。物語なんて、腹の足しにもならない。そもそも読むつもりもなかったうえ、どういうことか、彼女が横に来てオレの手元を見つめているので、気が散って仕方がなかった。
ぱたん、と本を閉じて、彼女の方へ向き直る。ひとりの生徒に構っていられるような、暇な仕事なのだろうか。
「暇なんスか、先生って」
「わたしは教師じゃないから先生ではないんだけど……暇ではないよ。ここの本の整理は永遠に終わらないし、逃げ出す本がいないか見張っていないといけない」
じゃあさっさと仕事に戻ったらどうなんだと言いたかったが、まるでいとおしいものを見るような目で部屋を見渡す彼女に、そんな言葉をかける気にはなれなかった。
この図書室にも、彼女の仕事にも興味なんてないはずなのに、オレは大人しく彼女の話を聞いていた。だって、彼女がそれらのことを語るとき、その瞳はまるで本物のペリドットのようにチカチカと瞬くから。宝石は好きだったから、その輝きにも、少しばかり目を奪われる。彼女が自分のことを「怖い」と言ったあの時のことを思い出して、再び時間が止まったような感覚を覚えた。
しかし次の瞬間には、その輝きは形を潜め、今度は悪戯に目尻を下げるのだ。
「それに、返却期限を過ぎる生徒のことも取り締まらなきゃ」
その言葉の中には、先日の自分のことも含まれているとすぐにわかって、一瞬固まってしまったあと、フハ、と思わず息がこぼれる。聞けば、返却期限を一定期間超えてしまうと本が鳴き叫ぶあの魔法を考えて施しているのは、彼女自身だというのだ。思いの外、いい性格をしている。
彼女がこんな人物であったことを、今まで自分は知る由もなかった。図書室なんて、薄暗くて読みもしない本がたくさんあるだけのつまらない場所だと近寄りもしなかったのだから当然だ。けれど、訪れてみれば、古い紙の匂いは何となく落ち着くし、本が羽ばたく様子を見ているのは面白い。それに、何より彼女がいる――と、思いかけたところで、首を振った。彼女がいるから、何だというのだ。
「……そういや、いつも人いないッスよね、ここ」
「うん、人気はないの。でも、君のところの寮長はたまにあそこで昼寝をしてるよ」
思いがけず登場した見知った人物に、自然と目を見開いてしまう。あそこ、と彼女が指をさして示した場所は、図書館でたったひとつしかない窓だった。この薄暗い場所で唯一光を集める巨大な窓のそばは、昼間なら陽光が差し込んで、たしかにあの人が好きそうだと納得する。いくら校内を探し回っても見つからないときがあったけれど、なるほど、ここに来ていたのか。
――ふと、想像する。静かなこの場所で、微かな陽光を浴びて眠れたら。彼女はこの広い図書館のどこかで、梯子に乗りながらふわふわと移動していて、時折本のページが羽ばたく音がするのだ。
「……また来てもいいスか」
想像したら、そう、口に出してしまっていた。すぐに、照れ臭いような、早まったと焦ったような気になって、後悔する。ここは学園の図書室なのだから、その生徒である自分がここへ来るのに、彼女の許可など必要ないはずだ。けれど、自分でもわからないうちに、彼女の口から「いいよ」と言ってほしくなってしまった。
今日だってただ偶然、本当に偶然、気が向いただけだ。そうでなければ、ここに足を運ぶ理由がない。それなのに、「また来てもいいか」だなんて言ってしまった。自分でも正体のわからない何かが、身体の中で膨らんでいくのがわかる。
言ってから、何だかいたたまれなくなって、視線を逸らした。でもすぐに、オレの視線は再び彼女へ吸い込まれていく。彼女のくすぐったがるような声が、小さく鼓膜を揺らすからだ。
「もちろん。この図書室は君たちのものなんだから」
――また、光った。
息を止めて、見つめてしまう。前髪の奥の、眼鏡のレンズのさらに奥の、ペリドットグリーンの眼球がチカチカと瞬いた。今の時間、窓から差し込む光もなく、ポツポツと浮遊しているランプの明かりは弱くて、彼女の瞳を光らせるものは何なのだろうと、覗き込みたくなる。
そんなオレの思考が伝わるわけもなく、彼女は指で空中をスッと撫ぜて梯子を呼び寄せ、また本棚の群の中へ消えていく。彼女の姿が見えなくなっても、オレはしばらく、どこまでも続いている本棚の列を眺めていた。
次に図書館を訪れたのはその二日後だった。また図書室へ来てもいいかと聞いたオレに、彼女が笑って頷いてくれたことを思い出すたび、鳩尾のあたりがふわふわと浮ついて、落ち着かなかった。レオナさんを起こすときも、誤ってベッドから引き摺り下ろしてしまって機嫌を損ねたし、錬金術の授業では、課題として生成する宝石の色を無意識に薄緑色にしてしまった。これは重症である。自分の頭が花畑になったような気がして何とも情けない。
でも、そんな自分に気づいたからといって、どうにかできるわけでもなく、仕方ないと図書室へ向かったのだ。彼女のことを思い出すから、こんな風になる。ならばもう、諦めてしまうしかない。
――しかし、彼女に会ったら会ったで、また違う感覚が襲ってくるのだ。今度は、気道が狭くなってしまったみたいに、少し息苦しい。合わせて脈も早くなる。
「今日は何か用事?」
今回は梯子の上ではなく、カウンターの中で作業をしている彼女が、そう言って首を傾げる。その言葉に、オレは返す言葉を持たない。レポートに必要な資料を探しに来ているわけでも、物語を読みに来ているわけでもないからだ。では何をしに来たのかと聞かれたら、それは「彼女に会いに来ている」のだけれど、そんなことは言えるはずがない。数秒間考え込んでから、仕方なしに吐き出した言葉は、何かを誤魔化すように少し不機嫌ぶっている。
「……用事がないと来ちゃいけない?」
「まさか。来てくれて嬉しい。ありがとう」
低いオレの声に、彼女の返事はにこやかで、お礼まで言われてしまう始末だ。そんなことを言われては、照れ隠しに不貞腐れている自分がばからしくて、はあとため息が溢れる。
「……お礼を言われることじゃないでしょ。ここはオレたちのものだって先生が言ったんスよ」
「先生ではないんだけど……まあ、そうだね。誰も来てくれないから、つまらなくて」
「人気がないから?」
「ふふ、そうだね」
以前彼女の言っていた言葉を真似て使うと、どうしてか楽しそうに肩を揺らした。それにつられて、後ろで縛られている髪からこぼれている横髪が揺れるのを、じっと見つめてしまう。
カウンターの中で、彼女が広げている帳簿は、本の貸し出しの際に利用されるものだ。帳簿に記されている文字は、未返却のものはマジカルペンの黒いインク、返却済みのものは、彼女がガラスペンでチェックを入れた瞬間に藍色に変わる。彼女の細い指でページが遡られていき、時々現れる赤い色に変わっているものは何かと聞くと、返却期限を一週間以上すぎ、本が泣き叫ぶ魔法をかけたものだそうだ。
その帳簿を眺めていると、今オレと彼女以外に人のいないこの図書室が、それなりに利用されているのだとわかる。当たり前だ。レポートを書くための歴史書も、未知の知識を得るための魔導書も、読書欲を満たすに十分な物語も、ここには揃っている。自分がやってきたとき、偶然人がいなかったというだけだ。なのにそれを見ていると、オレの中に彼女のことを知らない時間があったことを見せつけられているような気がして、過去を惜しむような気持ちになる。
「……ここが人でいっぱいになっても、困るッス」
たかだか数週間前に初めてここへやってきて、彼女と言葉を交わしたのなんて今日で数回目という程度だ。なのに、おかしい。この場所を、自分の縄張りみたいに思ってる。
「どうして?」
「……どうしても。人がいっぱいで賑やかな図書館なんて、おかしいでしょ」
首を傾げる彼女に、そんなことは言えない。代わりに、つまらない一般論を貼り付けて、彼女の真似をして首を傾げて見せた。情けないような、恥じるような、気持ちのよくない感情が膨れて、芽吹く。その瞳がどんなふうに瞬いているのか知りたくて、でも今は自分を見られたくはなかった。
俯いて、カウンターの上で握っていた自分のこぶしを見つめていたオレのつむじに、彼女の声が降りかかる。
「ねえ、耳、触ってみてもいい?」
「ハア?」
「ずっと気になってたの。どうなってるのかなあって」
あっけらかんとそんなことを言う彼女に、オレは二の句が継げない。独占欲を勝手に溢れさせて、自分の厚顔さに勝手に落ち込んでいるのに、彼女はそんなことには気づかないし、オレの耳以下の興味でしかないのだ。良くも悪くも自分の一人相撲で、些末な問題なのである。曇りない眼差しでオレの耳を見つめる彼女に気が抜けてしまったオレは、仕方なく「どうぞ」と返事をして、ため息と一緒に頭を差し出した。
最初は、指先がつん、と耳の先に当たる感覚がした。そのまま揃えた指の腹で、耳の裏をするすると撫ぜられてゆく。毛並みに沿って、次は逆らうように。何度か往復したあと、今度は耳の輪郭を指で挟むようにされて、力は強くなかったけれど、思わずぴくりと震えてしまう。彼女の手も同じように一瞬止まって、けれどすぐに動き出した。耳の輪郭を挟む指が、厚さを確かめるように、そっと力を込めては緩める。輪郭をなぞりながら繰り返される動きに、なんとなく、体温が上がっていくような心地がした。彼女が好き勝手に触るから、血流がよくなっただけだ。きっとそうだ。頭を下げた状態のまま、唇を噛む。いつの間にか息を止めてしまったところで、彼女が息を吐くみたいにして笑う声がして、カッと熱が膨れた。
「――っあ、の」
声を、出そうとして、やめる。彼女の手の動きが、少し変わったからだ。
オレの耳の感触を確かめるように動いていた指が、耳の根本、髪の毛との境目あたりで、カリカリと優しくひっかくような動きをする。膨れて、弾けそうだった熱が、冷めていく。これはきっと、犬や猫のような、動物を愛撫して機嫌を取ろうとする手つきだ。噛み締めていた唇が、痛くなる。
「猫扱いすんのやめてもらっていいスか」
動物を愛でるような手つきが気に入らない。二・三度大きく頭を振って、その手を振り払って睨みつけた。彼女にとって自分はただの生徒のひとりに過ぎなくて、それに文句はないとしても、人畜無害な愛玩動物ではないのだと言ってやりたかった。
けれど、彼女は振り払われた手を懲りずに伸ばし、そのペリドットグリーンを本物の宝石みたいに瞬かせながら、言うのだ。
「猫扱いじゃなくて、可愛がってるだけだよ」
――それに君は、ハイエナなんでしょう。
そう言って笑う彼女に何も言えなくなって、また唇を噛む。オレははっきり拒絶をして、ちゃんと彼女を睨んだのだ。なのに、彼女は何もなかったみたいな顔をして、今度は耳ではなくオレの髪をふわふわと撫ぜて、そこにいる。オレは人間より尖った八重歯と、気を抜くとすぐに鋭く伸びてしまう爪を持っているはずだ。でも彼女にはその痕跡を残すことができない。
「ぜ、全然フォローになってないっス…」
やっとのことでそう言ったオレを見て、彼女は声を出して笑った。その唇の隙間から覗く歯はつるんと丸くて、耳と髪に触れる指先はやわらかくて、整えられた爪はぴかぴかだ。そこには尖った爪も牙もないのに、どうしてこの人はこうやって、オレに消えない何かを残す方法を心得ているのだろう。オレは彼女に、そうできないのに。
「……先生」
「先生じゃないって、何度も言ってるのに」
悔しさみたいな、寂しさみたいな、その間みたいな、でも結局どちらでもない。手を伸ばして、それでも足りない距離を、掻いて、漕いで、どうにかして埋めたがるような、そんな感情だ。
その感情につられるようにして彼女を呼ぶと、眉をハの字型にして肩を竦める。「先生ではない」という言葉は今まで何度も聞いてきたけれど、そのことに返事をしたことはなかったなと、どこか遠いところで思った。
「じゃあ、なんて呼んだらいいんスか」
そういえば、オレは彼女の名前を知らない。尋ねると、彼女は静かにペリドットグリーンの瞳を細めてゆく。その代わりに、淡い色をした唇が薄く開かれていって、オレはその光景に釘付けになるのだ。
内緒話をするみたいに、小さな声で教えられた彼女の名前。そっと口の中で転がすように確かめて、それからゆっくりと、慎重に、声に乗せる。みずみずしいのに、胸焼けがするくらい甘ったるい。
自分の口からこぼれた彼女の名前は、その味に気付いてはいけない果実をかじってしまったような、あまい味が、した。