セフレなんだと思う。たぶん、きっと、絶対。
だって相手はサッカー選手だし、スポーツ選手って軽そうだし(これは偏見)、その偏見を捨てたとしたって、あの人が軽い男だなんてことは彼のことを知っているすべての人間が同意することだろうから。彼と同じタイミングで知り合った閃堂くんが、心配そうな声で「……おまえ、そういうの大丈夫なのかよ」と言っていたことにも合点がいく。彼は見た目と言動によらずピュアな人のようだから、「そういうの」――セフレとか、後腐れのない関係みたいなものに、抵抗感があるのだろう。
だから、閃堂くんと同じようにそういった関係に耐性がなさそうなわたしのことを慮ってくれた。その心配にはうまい反応を返すことができなかったけれど、でも、そのこと自体が答えだ。わたしはそういう割り切った関係みたいなものに向いてない。
けれど、それでも好きだと思ってしまったから、いま自分はこうしている。
「今日、泊まってってもいい?」
狭いワンルームの、狭いシングルベッド。鍛えられた身体に似つかわしくないその場所で、隠す様子もなく上半身の肌を晒していた。シャワーを浴びて、脱衣所から出てきたばかりのわたしに、どこにも力の入らないにへらとした笑みで呼びかける。
わたしはその締まりのない表情へ笑顔を返した。彼――愛空の笑顔とは正反対の、引き攣ったそれだっただろう。
「うん。好きにしていいよ」
練習が終わるとわたしの部屋へやってきて、一緒に食事をして、セックスをするのがいつもの流れだ。それでもまだ電車が動いている時間だったなら、明日に備えて自宅へ戻るのも、またいつもの流れだった。
今日もそうするものかと思っていたけれど、どうやら泊まっていくらしい。一刻も早く眠りたいんだろう。睡眠欲も何もかも、満たせるものはすべて満たしていく腹づもりのようだ。
彼の言うことに意を唱えることのないわたしが頷くと、愛空は眉を下げてどこか困ったような顔をする。
「……だめだったら帰るよ」
「わたしはどっちでも。愛空の都合のいいようにして」
その顔から目を逸らしながら答えた。愛空が、わたしの引き攣った表情を見て、わたしがどうしたいか気遣ってくれようとしていることは知っている。でも、そのことを受け止めちゃいけない。朝まで一緒に過ごしてくれようとしていることに、心臓が早鐘を打つように喜んでいるなんて、知られてはいけない。
そんな様子を見せたら、彼はきっと、わたしが彼のことを好きでたまらなくて、いつも彼のことを心待ちにしている女だと思うだろう。そして、わたしは彼にとって簡単に手のひらの中でもみくちゃに可愛がられるだけの、すぐ捨てられるお人形になってしまう。
だから、「そうじゃない」ことを証明したくて、わたしはいつもつれない女のふりをするのだ。
「なまえちゃん冷たくね? 俺、一緒にいたいのになあ」
まんまと餌にかかって情けない声を上げる愛空は、ベッドの上のクッションをひとつ抱えて、わざとらしく上目遣いをしてみせる。筋肉をそこかしこにつけた男がそんなふうに甘えた顔をしたってちっとも可愛くないというのに、そんな姿を見せて甘えるような言葉を向けられるのは、自分のほかにあとどれくらいいるのだろうと思うと、勝手に心臓が痛んだ。
身の丈に合わない虚勢は、こんなたった一言で容易にひびが入ってしまう。その亀裂から染み出して、ぽたり、と地面へ落下していくのだ。
「……愛空が一緒にいたいのはわたしじゃなくて女の子全員でしょ」
先ほどまでとはまるで違う、粘度の高い質量を持った、澱んだ熱の塊が落ちた。
愛空は、わたしの前でほかの女の子の話をすることはない。だから、わたしが彼から直接傷をつけられたことはなかった。でも、それは「今」じゃないだけだ。きっといつか、取り返しがつかないほどに傷つけられるときが来る。
だったら、わたしだって、少しくらい彼に傷をつけたかった。
「……へえ」
狭いワンルームの中で響いているとは思えないほど、遠くで聞こえているような声がする。低くて、静かな声。
それを追いかけるようにベッドの軋む音がして、俯く視界の先に、愛空が抱えていたクッションが音もなく落下するのが見えた。
「なまえちゃんてさあ」
抑揚のない音が、耳殻を痺れさせる。いつの間に距離を詰めていたのだろう。ベッドの上にいたはずの彼は、その長い足で狭い部屋を縦断し、すぐ目の前に迫っていた。
太い指が、引っ込められたわたしの顎を撫ぜて、顔を上げさせるように緩やかな力をこめる。いつも、キスをするときの動作とは少し違った。見上げた先にある愛空の表情も、すべて。
「俺相手だったらなに言ってもいいと思ってる?」
色の違う双眸は、黄味がかった緑色の瞳だけが顰められ、まるで蛍光色のように光を集めていた。その様子に目を奪われて声も出ないわたしを、嘲笑するように片方の口角が吊り上がって、はっとする。
――責められてる。わたしが、愛空に。
「俺が、傷つかないと思ってるんだ」
「ち……ちがう。だって……」
だって、愛空が悪いのに。
そう思ったことは、言葉にはできなかった。あまりにも身勝手だと分かっていて、でもどうしようもない本音だったからだ。
わたしをこんなふうに醜くさせる愛空が悪い。いつか傷つけられるなら、わたしが彼をそうしたっていいはずだ。――そんなふうに思わなくては、立っていられなかった。彼に、腕の中で抱きしめられて、大人しくしているだけだと思われたくなかった。
なのに、違う。それまで想像していた、柔らかくて、空虚な、捕まえようとすれば飛んでいってしまいそうな笑みはそこにはなかった。
「俺、なまえちゃんに優しくしすぎてたのかな」
そして、愛空は信じられないことを言った。わたしは思わず息を止めて、何度か口を開いては閉じる。その間も彼の表情は変わらないから、意を決して、深く呼吸をした。
「……や、優しくなんてない」
「そう?」
「そうだよ」
「どんなふうに?」
どこか笑っているような声なのに、静かで、淡々としている。いつもの彼からは想像もできないそれに促されて、自分の喉が震えるのを感じた。
「……い、いつも」
「いつも?」
「ほかの女の子と仲良くして、言い訳もしないで」
「うん」
先ほども考えていたことを、また思い出す。
愛空は、わたしの前でほかの女の子の話をすることはない。だから、わたしが彼から直接傷をつけられたことはなかった――でも、自分の周りに不特定多数の女の子がいることも、その子たちを強く突き放さないでいることも隠さない。わたしは、それを見て見ぬふりをしながら、自分が彼のお気に入りのショーケースに飾られているお人形のうちのひとつにすぎないことを自覚させられるのだ。
――いつか、思い知らされるときが来る。
そんなふうに、わたしはいつも、苦しいままだ。
「わたしのこと、安心させてくれない」
身勝手な本音が涙になって滲んで、ひしゃげて醜くなるわたしの声を、愛空は静かに聞いている。そして、ぐにゃりと震えた唇から、堪えきれなかったような息がこぼれた。
「……はは」
「なに笑ってんの。むかつく」
わたしをじっと見つめる愛空の瞳は、ひどく幸福そうに細められていた。こっちは、なにもかもを暴かれて、これまで保ってきた形がぼろぼろに崩れてしまったというのに。
そんなわたしの姿を見て、腹の底から吐き出したような、湿った声で言うのだ。
「だって、可愛いから」
目が逸らせない。呼吸もできない。肌に触れる空気が重たくて、無意識に後ずさろうと身体を引くと、腕を掴まれてそれは叶わなかった。彼の発する言葉を、ただ聞いていることしか。
「俺のこと好きで、俺がほかの女の子と仲良くしてるのが嫌なんだ」
――いやだよ。嫌に決まってるでしょ。だって好きなんだよ。
それを言葉にしないことが、わたしにできる唯一の抵抗だった。でも、それだって意味のないことだ。言葉の代わりに、次から次に涙がこぼれていって、喉の奥で震えてうずくまっている感情を明らかにしてしまう。
だから、わたしがなにも言わずとも、彼にはすべて筒抜けなのだ。愛空の目がゆっくりと細められ、次の瞬間には自分のところに落ちてくる獲物を見るような眼差しでわたしを見下ろす。
「……そんなに俺のこと好きなのに、なんでわかんねーかな」
なんで、と問われても、わたしには分からなかった。彼がぐずぐずに醜くなっていくわたしを見て幸福そうに目を細める理由も、お気に入りのショーケースの中でみっともなく暴れているはずのわたしを、そこから追放せずにいることも。
「もっと俺のこと見てよ。そしたらわかるよ。俺、なまえちゃんに一番優しくしてんだから」
愛空は、答えをくれない。ただ、わたしに「分かるはずだ」と委ねるだけだ。そうして、「だから、ああいうこと言われると悲しい。もう言わないでね」なんて言葉を残して、愛空はわたしの唇に封をする。
もう、わたしに次の言葉は紡げなかった。だって、そんなふうに自分のことを「特別」だと表すような言葉をくれても、「好き」の一言は決して言ってくれないこの人が、優しい男のはずがないのだから。