あの子と別れた。
 一緒にいることが心地よくて、俺のことをじっと見つめてから笑う顔がかわいいと思ったから恋人になったのに、彼女と過ごす時間が増えるにつれてひとりでいる時間が短くなると、大好きだったはずの彼女への煩わしさが募った。俺の悪い癖だ。
 一度そう感じてしまうと、「食事の間はスマホを触らない」という暗黙の了解も、「今日あった出来事を話す」という些細なコミュニケーションも、なにもかも面倒になっていく。それらのただひとつだって、彼女から課されたものではなかったというのに。
 だから、「ひとりになりたい」と言って、あの子へ別れを告げたのだ。これで俺はようやくひとりに戻った。
 ――それなのに。

「……ただいま」

 誰もいない玄関に、ぽつんと自分の呟きが落ちる。ドアの向こうから顔を覗かせて、「おかえり」と言ってくれる声はもうしない。俺にはなくてはならない自分だけの空間に、いつの間にか居座っていた彼女のことが、不思議と嫌ではなかった。
 でも、もういない。俺が手を離したから。
 自分の手を介さなければ開くことのないドアを開けると、ようやく声をかける相手を見つける。長年連れ添ったサボテンは、変わらない姿で俺を出迎えて、なにも声をかけることはない。

「ただいまチョキ。そろそろ水あげなきゃね」

 そういえばあの子は、チョキの世話には手を出そうとしなかったな。俺の大事なサボテンだから、俺自身が世話をするのがいいともっともらしいことを言っていた。
 こんなふうに、チョキを見ていたって彼女のことを思い出す。ひとつ思い出すと、もう止まらなかった。
 ――ご飯食べなきゃ。
 ゼリー飲料ばかりの冷蔵庫は、彼女がここへ通うようになってからは彼女が作ってくれた作り置きの惣菜になったり、冷凍食品になったりした。彼女と別れてからは、自分で料理をすることはないが、冷凍食品を買い置いていたり、バランスの取れた食事を外で摂ってくるようにしている。なんにせよ、ゼリー飲料よりはだいぶマシだろう。
 ――誠士郎はサッカー選手になるんだから、ご飯はちゃんと食べなきゃだめだよ。
 そんなふうに、頭の中であの子の声がした。
 ワンプレートになっている冷凍食品を解凍している間に、スマホゲームのヒットポイントを消化する。ふたつゲージが減ったくらいのタイミングで電子レンジのタイマー音が鳴り、俺はスマホから手を離した。
 だって、「食事の間はスマホを触らない」のは暗黙の了解で、彼女がいなくなっても、なんとなくまだそれを守っていたかったから。「今日あった出来事を話す」相手は、もうチョキしかいないけど。
 それが煩わしくて、手を離したはずなのに、変なの。
 黙って食事を胃の中にしまって、シャワーを浴びて、ドライヤーできちんと髪を乾かす。ドライヤーを嫌がる俺の髪を、「ふわふわだ」と笑って乾かしてくれた記憶が頭をよぎった。
 もう寝ようと思ったところで、明日が燃えるゴミの日だと思い出し腰を上げて――やめる。明日出すゴミは前日にまとめておこう。それも彼女がやっていたことだ。いつもそれを見ていたから、よく覚えている。
 あれも、これも、それも、どれも。全部あの子がまとわりついて消えてくれない。ベッドに深く沈んで、たったひとりの部屋で呟く。
「……早くひとりになりたい」
 俺は、ひとりになりたかったから、あの子を突き放したはずなのに、今でもずっと「そう」なれないままだ。


 ◇
 
 
 なんだか眠れそうになくて、真夜中に家の外に出て少し遠くにあるコンビニへ向かう。夏の夜は薄ぼんやりと明るくて、昼間の蒸し暑さは少しだけ鳴りを潜めていた。薄闇の中に、店の明かりでぼやけたように見えるコンビニが現れ、その少し手前に人影が見える。
 自分よりずっと小さくて、浮かび上がるような白い手足は細っこい。Tシャツの背中にプリントされたキャラクターには見覚えがあった。

「――なまえ?」

 ぽつりと呟くと、その声はひどく小さかったにもかかわらず、真夜中の静寂の中ではたやすく彼女のところへ届いてしまう。その人影が振り返ると、流れた前髪の奥に、街灯を反射して光る見慣れた瞳と目が合った。

「……うわ」

 途端、その目は険しげに顰められる。嬉しい反応ではなかったけれど、まあ当然だろう。「ひとりになりたい」なんて身勝手な理由で自分を振った恋人が、突然目の前に現れたら。
 彼女の家は、この近くだ。俺と彼女の家は程近く、最寄駅は一駅離れている程度。すぐそこにあるコンビニはその中間地点に位置していて、付き合っている間も、よく訪れていた場所だ。だから、ここで彼女と出くわしてしまうことに、なんら不思議はない。
 でも、気掛かりではあった。身軽すぎるほどの彼女の格好と、この時間を考えたら、自分の眉間に自然と皺が寄ってしまうのも仕方がない。

「……なにしてんの、こんな時間に。危ないよ」

 周りは住宅街で、いつまでも喧騒が聞こえてくるような場所ではないけれど、代わりに人の気配も少ない。なにかあってからでは遅いのだ。そんな中を、彼女がたったひとりで彷徨っていると思うと、熱帯夜だというのにどこか薄寒くなる。
 けれど彼女は、そんなこと意に介していないようにけろっとした顔で首を傾げた。

「いいでしょ、近所なんだし」
「よくない。女の子がひとりでフラフラしていいわけないじゃん」

 今までは、ずっと自分が一緒にいたし、こんなふうに真夜中に出かけるようなことがあってもそばを離れることはなかった。だから、こんなことは起こり得ないと思っていたことに気付く。そりゃそうだ。もう俺と彼女は一緒にいることはないのだから、彼女だってこうやってひとりで出歩くことだってあるに決まってる。
 俺がひとりに戻るように、彼女だって、ひとりになる。そう思ったときだった。

「……ひとりじゃないけど」
「……え」

 飛び込んできたその言葉に、心臓が嫌な音を立てる。一瞬動きを止めてしまったように収縮して、そのあと激しい鼓動が追いかけてくる。背中を伝う汗は、熱帯夜がもたらすものではなかった。
 ――ひとりじゃない? 俺は、ひとりなのに。それどころか、彼女の名残から離れられないでいるというのに、彼女の方は違うのだろうか。すぐそこのコンビニから、見知らぬ誰かが彼女の名前を呼びながら出てきたとしたら、俺はどうやって呼吸をしたらいいのだろう。
 そこらじゅうの音が遠く聞こえるような錯覚の中、そっとそよぐような彼女の声が俺を現実へ引き戻した。

「嘘だよ。なにその顔」

 はっとして、彼女の顔を見つめる。視線はそちらを向いていたのに、焦点はどこか違うところを彷徨っていたようで、視界に映った彼女の表情はいつの間にか、困ったような笑ったような顔をしていた。
 急に喉に空気が滑り込んできて、俺は身体中の空気をすべて吐き出すほどの、深い呼吸をする。力が抜けて、その場にしゃがみこんだ。俯いた先のアスファルトは真っ黒で、なにも見えない。

「……もう、ほんとに、めんどくさい」

 誰に言うわけでもなく、呟いた。なにもかもが面倒だった。
 身体の中を引っ掻き回されるみたいに感情が乱れるのも、いつまで経っても彼女のことが忘れられないのも、それを招いたのが、自分自身であることも。全部全部面倒なのに、もういいやと手を離すことができないでいる。
 ――こんなの、自分じゃないみたいだ。

「……俺、変なんだ。なまえと別れてから」

 喉の奥から込み上げてくる声は、自分のものとは思えないほどにしょぼくれていた。抑揚がないのはいつものことだけれど、もし玲王が聞いていたらすっ飛んできそうなくらいに沈んでいる。
 でも、ここに玲王はいないし、目の前にいる彼女はそんなふうに俺を慰めてはくれない。当然だ。どこの誰が、自分を振った男の泣き言に耳を貸すというのだろう。
 真っ黒な地面を見つめたまま動けないでいると、じゃり、と地面を踏み締めるような音がして、彼女の声が近くで聞こえた。

「しょうがないなあ」

 思わず顔を上げる。すると、すぐそこに彼女の顔があった。膝を抱えるようにしてしゃがみこんだ彼女は、俺と目線を合わせて眉を下げる。俺が、風呂上がりでドライヤーを嫌がったときに見せた顔とおんなじだ。

「うちで映画見る? 前に途中で寝ちゃったやつ」
「……今から?」
「そう。アイス買ってさ」

 アイスを買って、部屋を暗くして、大して面白くもない映画を見て、いつの間にかそのまま眠っている。
 そんな時間を過ごしたのは、もうずっと前のことだ。でも、それを思い起こさせるような言葉が彼女の口から生まれてきたことに、なんだか鳩尾が浮つくようにそわそわした。

「……うん、見る」

 呆然としたまま、唇の端からこぼれた言葉を聞いて、彼女が笑う――俺のことを、じっと見つめてから笑う。その顔が、すごくかわいいことを、ずっと前から俺は知っていた。

「――なまえ」

 首を伸ばせばすぐに埋められそうな空間を、なくすように顔を傾ける。彼女の手を握りたくて、身体を抱きしめたくて、でもそれも飛び越えて、キスがしたかった。
 しかし、それは叶わない。

「む……なにすんの」
「こっちのセリフなんですけど? なにキスしようとしてんの」

 唇と唇の間に彼女の手が差し込まれ、俺の唇はあえなく彼女の手の甲にくっついて終わった。ムッとして尖らせたままの唇から距離をとって、睨みつけてくる視線を負けじと見つめ返す。

「だって……」

 彼女と別れたことを後悔するような言葉を吐く俺に、優しく寄り添ってくれたから、なんだかキスだって許される気がした。どこまでも自堕落な思考を持て余す俺を笑うみたいに、彼女はゆらりと立ち上がって、俺を見下ろす。

「ヨリ戻すなんて言ってないでしょ。しょうがないから、友達になってあげるよ、凪くん」

 優しくて、でも少し意地悪な声色がかたどる「凪くん」なんて聞き慣れない呼び名。一瞬で、彼女が「誠士郎」と俺を呼んでくれた声が蘇って、胸が苦しかった。
 ――やだよ。友達なんてやだ。
 でも、一度彼女の手を離してしまった俺には、それを言うことは許されない。そんなことは分かっている。分かってるけど――それでも。
 ふたたびすぐそばで感じてしまった彼女のぬくもりから、俺はもう、抜け出せそうにない。

ナイトルーティン

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