雨は嫌いだ。グラウンドが使い物にならなくなってサッカーができなくなるし、肌に張り付くような湿気が鬱陶しい。空気が冷たく乾燥していた冬が過ぎ、春が近付くにつれ、風は突風に変わり雨が増える。だから、凛は春が好きじゃない。
低い雲に覆われた灰色の空から降り注いでくる雨粒を睨みつける。降ってきそうだとは思っていたが、予報よりも早いうちにロードワークを途中で切り上げざるを得ないほどの雨が降ってきてしまい、凛は口の中で舌打ちをした。平日の登校前と、土日に行われるサッカークラブの練習前、家の近所を走ることを日課にしている凛にとって、それを簡単に崩してしまう天候の揺らぎは煩わしい。
水が滴るほどではないにせよ、髪もジャージも濡れてしまったし、この雨だと今日の練習は中止になるだろう。無意識のうちに、重たいため息が唇からこぼれた。
「大丈夫ですか?」
肩がわずかに跳ねる。思いがけないところから声をかけられては、驚くのも仕方がない。でも、驚かされたことに対して、文句を言うわけにもいかなかった。凛が雨を凌ぐのに駆け込んだのは、ちょうどそばにあった花屋の軒先だったからだ。
声の聞こえた方向へ首を捻ると、花屋の店員と思しき深いブラウンのエプロンをした女が凛のことを見つめていた。雨宿りのために店の敷地を借りているのはこちらだが、わざわざ声をかけなくてもいいのに、とげんなりする。ただでさえロードワークがだめになってしまったというのに、雨に降られたところを見ず知らずの人間に見られるだなんて――と、思ったところで、凛は記憶を遡る。
その花屋の女は、べつに見ず知らずの人間、というわけでもなかった。
前述したとおり、凛はロードワークを毎朝の日課にしている。走るコースもいつも同じだ。この花屋の前も、毎日のように通っている。住宅が建ち並ぶ区画から駅へ向かう途中にある、こぢんまりとした花屋。駅ビルなんかにある洗練された雰囲気の店とは異なるが、いつも店頭に季節の花やグリーン、アレンジメントされた小さいブーケが並んでいる。いつも視界を彩るので、記憶にも残りやすい。
だから、この女にも見覚えがあった。
早朝から、ワゴン車で運ばれてきた花を抱えて店へ運び込んだり、店先のディスプレイを作ったりして慌ただしくしている女。この店の店主なのだろうか。にしては少し若い気がする――いや、知るか。どうだっていいことだ。
女の素性を想像しようとした自分の思考を遮り、凛は背中を翻す。店員の女におざなりに会釈をして、軒先から雨の中へ戻ろうとした。咄嗟に雨宿りをしたが、この雨はしばらく止まないだろう。であればここで時間を消費しても無駄なことだ。
――が、しかし。
「……あ、待って。雨宿りしていってください」
そう言って、女は凛を引き留めた。凛は、訝しげに眉を顰める。女はそれに構わず、「お店まだ開かないし、今はわたししかいないから。大丈夫」と続けて、にっこりと来客用と思しき笑顔を浮かべた。
女が声をかけたことで、凛をここから追い出してしまったと思ったのだろう。その想像は間違ってはいないが、凛の行動を読み取ったわけでもない。ご丁寧に差し出される不要な気遣いも、それをわざわざ跳ね除けなければならないことも、初対面とも顔見知りとも言い難い距離感の人間と言葉を交わすことも全て、凛にとっては煩わしかった。
「……待ってても雨止まないんで」
「……まあ、それもそうですね」
凛の言うことに女は頷いて、暗い色の空を見上げる。女より身長の高い自分を見上げるのより、ずっと高い空を見上げる様が、何だかその場に流れる時間を緩やかに感じさせる気がした。空を見上げる他人の姿など、目の前で見ることがないからだろうか。カーブを描いたまつ毛も、視線や鼻先、唇も上を向いて、雲に覆われていても、その雲の先に朝日があるのだろうと思わせる空の光が彼女の瞳に映り込んでいる。
「あっ」
女が前触れなく声を上げるので、凛は一瞬息を止めた。その息を吐く間もなく、「ちょっと待ってて」と言いながら女が背を向けて店の奥に行ってしまい、凛は店を去るタイミングを逸する。そしてつい先ほど自分が女の顔を見つめて思考を止めていたことに気付き、わけもない苛立ちを催すのだった。
女がビニール傘を持って戻ってくる頃には、凛の眉間には深い皺が刻まれていたが、当然女はその理由に気付くこともない。
「これ使って」
傘を差し出され、凛はすぐに女の言葉の意図に気付く。その傘を貸してくれるというのだろう。
正直、ありがたかった。この雨の中に傘も差さずに飛び出して自宅に戻ったとして、どんなに早く走ったとしても全身びしょ濡れになってシャワーを浴びなければならなくなることは明白だ。
とはいえ、見ず知らず――存在を知っている程度の人間から借り物をするというのも、なんとなく凛は自分のプライドに障る気がして、「……いや」と抵抗をする。だが、凛にノーと言われることを見越していたかのように、女は微笑んだ。
「お店の傘だから大丈夫。風邪引かないように」
押し付けるようにして傘を無理やり凛に持たせ、「ね」と笑みを深めてみせる。そこにはどこか、子どもや犬猫を見ているような慈しみが滲んでいるみたいに思えて、凛はどうも釈然としなかった。借りた傘を差して雨の中へ戻っていく凛を見送る女の姿に、凛は会釈をすることも忘れ、足早に自宅へ戻るのだった。
花屋の店員との邂逅を果たした翌日の朝、凛は早速傘を返しに店を訪れた。借りは早急に返しておかなければならない。特にあの女とは、早々に関わりを断たねばならないと思った。何か根拠のある感覚ではなかったが、確かにそう思ったのだ。
今日も空は曇天だった。地面が濡れているのが少し気に掛かったが、玄関を出たときに雨は降っていなかったので、花屋から借りた傘だけを持ってロードワークに出かけ、いつもとはルートを変えて花屋へ直行することにした。
たどり着いた店先には昨日と同じように、深いブラウンのエプロンをかけた女が一人で開店作業に勤しんでいる。この店は彼女だけで切り盛りしているのだろうか。でも昨日は「今はわたししかいないから」と言っていたし、「今は」ということは他にも従業員がいることを示唆しているように聞こえる。
店のそばへ寄ると、こちらに気付いた女が顔を上げ、一瞬目を丸くした。そしてすぐに破顔し、「おはよう」と言う。その言葉には会釈だけで返事をして、すぐに手に握った傘を差し出す。
これを返して、それで終わりだ。
「……傘、ありがとうございました」
女が傘を受け取ったら、そのまま走り去るつもりだった。なのに、シャツの袖を捲った腕が伸びてくるよりも早く、女は口を開く。
「いつも走ってるよね。すごいね」
「……べつに」
傘を返せないのであれば、無視して立ち去ることもできない。自分の想定を覆す女の行動に、凛はむっとした。しかし、凛はいつだって難しい顔をしているので、その表情の変化が際立つことはない。
それに、女が凛のことを認識しているような言葉選びをしたことが、何だか気まずかった。自分と同じだと思ったからだ。女が凛を、「いつも走っている」と認識していたように、凛も女を「いつも花屋の開店準備をしている」と認識している。でも、凛は絶対に、自分がそう思っていることを彼女に伝えたりしない。だから、お互いに存在を認知していたことを知っているのは凛一人だけで、それが何となく居心地を悪くしたのだ。
「……あれ」
凛が突き出したままでいる傘を女がやっと受け取り、これでようやくこの女から離れられる、と思ったところで、その思考を遮るように女が呟く。凛はまた少しむっとした。
「自分の傘は持ってこなかったの?」
「は?」
「今日は、」
女が言葉を続けている最中、凛は一瞬瞼を閉じた。いや、閉じさせられたのだ。まつ毛を掠めるように、上から水滴が降ってきたから。
「……あ」
その水滴を追うようにして、また一つ二つと雫が降ってくる。水滴が頬に当たるのを感じて、思わず呟いた。あまりに微かな声だったが、そばにいた女には届いたようで、女は「降ってきたね」と返事をして、凛から返されたばかりの傘を広げた。それを、二人の間に差す。凛は女よりずっと身長が高いので、女は腕を伸ばすようにして傘を差した。傘に当たる雨粒のぱらぱらとした音が、傘の内側に反響する。
――凛は、その様子をどこか呆然と眺めていた。
「今日はずっと雨だよ。今はちょっと止んでただけみたい」
目を細めるようにして微笑んだ女の表情を見て、凛は息を呑む。なんだこれ、ぬるすぎる。
凛は、自宅を出る際に、濡れている地面が気に掛かったことを思い出した。いつもは、朝起きて、顔を洗って歯を磨いて、朝食を食べるときに必ず天気予報を確認する。天気を崩しやすい春先は特に。
なのに、今日はそうしなかったのだ。早くこの女に傘を返してしまいたいと気が急いて、天気予報を確認するのを忘れた。外に出たとき雨が降っていなかったから、大丈夫だと思って――そんな生ぬるい自分に、凛は苛立った。
「よかったらまた持って行って。明日も走るんでしょ? わたし、明日もいるから」
そう言って、昨日と同じように女が差し出してくる傘を、跳ね除けられないことにも。
されるがままに傘を受け取ったとき、わずかに触れた女の指先は酷く冷たかった。春先はまだ冷える。花屋の仕事は、水を触っていることも多いのだろう。そうやって、女の手の冷たさの理由を無意識のうちに探そうとする自分の目の前で、女はまた笑った。
目を細めるようにして、その指の冷たさとは、正反対の。
「また明日。明日は晴れるみたいだよ」
二人の間に差された傘から抜け出していく女の背中を目で追った。「また明日」――凛はそれを、なぜか呪いの言葉のようだと思った。
その翌日、女の言ったとおり晴れ渡った朝、凛は今度こそ傘を返却した。女は、聞いてもいないのに自分の名前を名乗り、自分がこの店のアルバイトであることを話した。なんでも、彼女の叔母がこの店を営んでおり、早起きが得意なので朝早い花屋の開店作業をアルバイトとして手伝っているらしい。女は大学三年生で、凛よりも三つ年上だった。
それから、女――なまえは、毎朝ロードワークで店の前を通りがかる凛に、声をかけてくるようになった。来る日も来る日も、凛がどれだけそっけない態度を取ってもだ。
そのことが習慣になってしまう前にロードワークのルートを変えることも考えたが、それは凛のプライドが許さなかった。どうして自分があんな女ごときのために毎日のルーティンを崩さなければならないのか。
正直彼女のことなど無視して走り去ってしまおうかと何度となく思ったが、なまえと目が合い、「おはよう」と言われると、どうしてか走るスピードが緩んでしまう。傘を借りたことは、一方的に凛が助けられた出来事に他ならなかったので、その相手を無視するというのも常識に欠けると思った。それだけだ。
ブルーロックに召集されたあの頃から数年の時を経て、凛はそれなりに「大人になる」ということを学んだ。とはいえ、今でもサッカーは「戦場」だし、潔世一のことはぶち殺したい。それはそれ、これはこれというやつだ。
だが、せっかく凛が「大人」になって、勝手に話を膨らませていく女の言葉を渋々聞いてやっていても、そんな凛を見て目を細めるなまえのほうがずっと「大人」みたいに見える。
「……ふふ」
今日だって、あれやこれやと一方的に話しているのはなまえのほうで、凛はそれを聞き流したり嫌々答えたりしていただけだ。なのに、目の前で凛にそんな態度を取られても、彼女は機嫌を損ねるどころか何かを含んだような笑い声さえ上げる。どういうことなんだ。
「……なんだよ」
眉間に力が入るのを感じながら、凛は怪訝そうな顔をする。何がなまえをその表情にさせたのか、見当もつかない。
話していたことといえば、凛がサッカーをやっていることと、高校卒業後の進路のことくらいだ。進路のことだって、選手としてサッカーを続けるという程度の曖昧な言い方に留めている。それでもなまえは大層感心していたが、どこかに笑うようなポイントがあったとも思えない。
しかし彼女はあの、目を細める笑い方を一層深める。何か、いいものを見つけたときみたいな顔をして。
「凛くん、嫌そうな顔するなと思って」
「は?」
思わぬ言葉に、凛は低く声を上げる。彼女の話をにこやかに聞いているつもりは元からなかったが、逆ににこやかな顔で自分のことを「嫌そうな顔」だと評されるだなんて思わなかった。
変な感じだ。居心地が悪い。なまえは、凛のどう見ても不機嫌な様子を見て顔を綻ばせたり、いつからか馴れ馴れしく「凛くん」なんて呼んだりして、凛が作る壁をたやすく透明に変える。それが、どこか近所の野良猫にするように軽やかだから、凛はうまくなまえを突き放せない。
細くなった彼女の褐色の目が凛の険しい表情を映して、唇が弧を描いた。
「面倒なのに捕まった〜って顔してるから。いつも」
分かっていてわざとそうしていたなら、たちが悪い。凛はむっとして、憎たらしいほど微笑んでいる瞳を睨みつけるが、なまえは少しも怯んだりしない。むっとするだけでは足りず、舌打ちをした。
「……分かってんなら、」
「あはは、やだよ」
なんて腹立たしい女だ。
鬱陶しいと煙たがっても、彼女はそれを笑い飛ばす。ああ。面倒だ。
自分のことを侮られるのも、揶揄されるのも、試されるのも、凛は嫌いだ。だから、なまえの言動だってそう感じるはずだった。でも、違う。彼女の眼差しも、声色も、凛が嫌うそれらとは、違う。どこを取ってそう感じるのか、凛ははっきりと言葉にはできなかったけれど、自分自身が「そう」感じていない。だから、「違う」ことだけが、分かっていたのだ。
酷く回り道をしているような絡まった思考回路に、凛はふたたび舌を打つ。
「……うっぜえ」
「うわ、ストレートすぎ。それ他の人には言わない方がいいよ」
べつに、なまえのことを言ったわけではない。でも、凛は何も答えなかった。それに、そんなアドバイスなんてもうとっくに手遅れだ。
サッカーをやっているとき――とりわけブルーロックの連中に対しての自分の言動を思い返して、凛は口を噤んだ。
◇
空気が生ぬるくなったと思えば、凍えるような突風が吹いたりする。そんな不安定な気候がしばらく続いて、気付いたらダウンジャケットを暑いと感じる。春はそんな季節だ。今年は桜の開花が遅れているとニュースが告げていたが、今朝見かけた桜は、所狭しと花弁を広げていた。嵐のような突風は鬱陶しくて仕方がないのに、その風で散っていく桜にはそう感じないのは、どういうわけなのだろう。
凛の頭の裏側で浮かんだ疑問は、耳に新幹線の到着アナウンスが入り込んだせいで、答えを生み出さないまま消えた。
凛は、すでに日本サッカー界におけるトップ選手の一人ではあるが、同時にまだ高校生だ。代表チームの練習や合宿の召集には、学校を公欠して参加する。
国際試合に向けた一週間の強化合宿を終えると、もう高校最後の春休みは明け、とっくに新学期は始まっていた。でも、べつに凛にとってはどうということもない。高校なんて中退したってよかったのに、兄が最後まで通っておけと言うから今も在籍しているに過ぎなかった。自分はとっとと海外に行ったくせに。
合宿地だった静岡から、新幹線で新横浜、そこから横浜駅を経由して鎌倉へ帰る。しかし新幹線を降りると夜はとっぷり更けており、猛烈に腹が減っていたので、横浜駅へ移動してから駅の外へ出て、適当な飲食店で食事をした。今は、ちょっと探せば出先でも栄養バランスの整った食事を摂れる。きちんと一汁三菜の和食を胃袋に納め、今度こそ帰宅しようと横浜駅へ向かった。
――そこで、思いがけない人物の姿を見た。
考えてみればそんなはずがないのに、どうしてか、彼女はこんなところ――あの花屋以外の場所にいるわけがないと、自分がそんなことを無意識のうちに考えていたのだと知った。
なまえは、凛がいる歩道の少し先で、ガードレールで身体を支えるようにして寄りかかっていた。当然、あの深いブラウンのエプロンはつけておらず、なんだか薄っぺらくて頼りない服を着ている。いつも花屋にいるときは、襟のついたシャツとシンプルなジーンズを着て、エプロンをかけているから、その姿に違和感を覚えた。身体をふらつかせるたび、スカートが脚にまとわりつくようにひらりと舞って、視界に障る。
なまえが、酒に酔っているのはすぐに分かった。彼女の周りにいる数人の男女もやけに陽気な様子で、友人同士で酒を飲んでいたのだろうと簡単に想像がつく。ふらつくくらい酔いが回って、今にも眠ってしまいそうで、そんな様子できちんと家まで帰れるのか――と懸念がよぎったところで、凛ははたと思い直した。
知ったことか。何度か会話をしただけの花屋の店員を、なぜ自分が気にかけなければならないのだろう。しかもあんなふうに酒に呑まれている女、どうなろうと知ったことではない。
道脇に固まっている、なまえを含めた数人の脇を通り抜けようと近付き、無意識のうち緩やかになっていた歩調を元に戻そうとして――どうしたことか、凛は立ち止まった。
「俺、送って行こうか。それとも二次会行く?」
そんなことを言う男の声が聞こえたからだ。紛れもなく、舟を漕いでいるなまえに声をかけている。身体を支えようと伸びた手が肩を抱いたのが見えて、腹の底が騒いだ。今にも眠ってしまいそうな女が「明日、バイトだから」と、うわごとのようにうにゃうにゃ言っているのが聞こえる。もっと腹から声を出せ。
「え〜、テキトーに休んじゃえば?」
女のアルバイトの予定を軽んじる男の発言が、なぜだか気に障る。おまえごときに左右されるものであっていいはずがないと、まるで、自分の縄張りを踏み荒らされたような気分だった。意味が分からない。自分へそう思わせる要因に心当たりがなく、酷く気味が悪い。
軽薄なセリフを吐く男に、へべれけになった彼女は何も言い返さないので、凛は余計に腹立たしかった。女をどうかしてしまおうという魂胆が見え見えの男にも反吐が出るが、何よりもなまえに腹が立った。バイトというからには、彼女はまた朝早くから店先に立つのだろう。市場から卸してきた花を抱えて、店のディスプレイを作って――それなのに、こんな時間まで飲み歩くなんて何を考えているのか。ぬるすぎる。
ただ、凛だって、そんなのは彼女の勝手だと分かっている。もしかしたら明日はいつもとは違うシフトなのかもしれないし、そもそも客でもない凛にどうこう言われることではない。それなのに、明日の朝ロードワークであの店の前を通りがかって、そこに彼女がいなかったときのことを思うと、まるで胃がひっくり返ったみたいにむかむかするのだ。
馬鹿げてる。こんなのは。
そう思うのに、凛が気付いたときには、自分はもう声を上げていた。
「おい」
まさか自分が声をかけられているとは思わなかったのか、なまえのそばにいる男は、凛が声を発してしばらくしてから顔をこちらに向けた。不機嫌そうな凛の声が、自分に向けられていることを数拍遅れて理解し、凛と、その凛が睨みつけているなまえの姿とを交互に見て――
「……弟さん?」
と首を傾げた。凛は自分の苛立ちがバロメーターを突き破りそうになるのを感じる。
確かに、ビジネススーツの社会人や、カジュアルで小洒落た格好の大学生らしき若者ばかりが目につく夜の駅周辺で、あきらかなスポーツウェアに身を包む凛は幼く映るのかもしれない。それに凛は目の前の大学生たちより確実に年下だ。そんなことは分かっていて、でも凛は納得いかない。誰が弟だ。
「……違えよ」
彼女の大学の友人なら、その男は年上に違いなかったが、凛は敬語を使うことなく答える。敬う気などこれっぽっちもなかったし、もう今後二度と関わり合いにならないだろう人間から何と思われても、どうでもよかったからだ。
それに、こちらを値踏みするような目でにやにやといけ好かない笑みを浮かべる男が気に入らなかった。下品に吊り上げた唇を開いて、男はおかしげに言う。
「じゃあ彼氏とか?」
「かっ……」
腹立たしいことに、凛は男の言葉に絶句してしまった。思いもよらない、完全に意識の外側から放り込まれたその単語を、うまく脳が処理できなかったのだ。
奥歯を噛み締めて、こぼれかけた言葉を飲み込む。自分は、なまえの弟なんかじゃない。それに――彼氏、などでもない。じゃあ、自分はどういう理屈でこうして彼女の友人らしき男と向かい合っているのだろう。
自分は彼女を、どうしたいのだろう。
「……凛くん?」
凛を呼ぶ声が聞こえた。芯が抜け切ってしまったような、今眠りから覚めたばかりのような、頼りない声だった。
男に肩を抱かれたままでいるなまえは、そんなことには気付いていないみたいにぼんやりとした顔で凛を見上げている。大学の友人たちと出かけていたはずなのに、どうして凛がこんなところにいるのか。そういったことにも今は頭が回らないようで、凛の名前を呼んだきり、なまえは黙って凛の言葉を待っている。
いつも、笑っているかこちらを揶揄うように見つめる姿ばかり見ていたから、それとは違う様子のなまえの姿に、凛は普段のように憎まれ口を叩けなかった。さっきまで、「こんなふうになるまで酔っ払うなんてぬるすぎる」とか、「明日バイトがあるくせに舐めてんのか」とか、腹が立ってたまらなかったはずなのに。
ぼうっとした目で自分を見つめるなまえの視線に、喉の奥が狭くなるような錯覚に襲われた。
「……明日、バイトなんだろ」
「うん……」
「帰るだろ」
「ん……帰る」
その言葉を聞き届けて、凛は手を伸ばす。男に肩を抱かれて支えられているなまえの腕を引き寄せて、ふらつく身体を支えた。「しっかり立て」と呟くと、彼女はシルバーのパンプスでゆっくりバランスを取る。掴んだ腕を離すのは、なんだかまだおそろしくて離せなかった。
ガードレールに寄りかかったままの男の視線がこちらを向いているのに気がついていたが、凛は何も言わない。かろうじてなまえの腕に引っかかっていた彼女の鞄を、自分のスポーツバッグと一緒に持ち直し、横浜駅に向かって歩き出した。凛に腕を引かれるまま、なまえが何かを言うことはなかった。
そんな静寂を、空から落ちてきた水滴が、音もなく震わせる。凛の頬や、力の抜けたなまえの腕を掴んでいる手のひらに、ぽつぽつと降りかかった。雨が降っている。
「凛くん、雨」
ようやく声を上げたなまえは、単語を並べただけのたどたどしい言葉をこぼした。雨は段々と勢いを増して、凛の長い前髪を湿らせている。しかし酔っ払いのうわ言に耳を貸す気のない凛は、雨にも、なまえの言葉にも構わず、足を止めようとはしない。
「あ? 知るかよ。傘持ってねえ」
「わたしある。折りたたみ」
雨の音で、なまえの声がわずかに遠く感じる。そう思ったのと、横浜駅の駅舎の光を睨みつけていた凛が立ち止まったのは、ほとんど同時だった。急に身体の片側が重くなって、つい足を止めてしまった。
振り返ると、腕を掴まれたままでいるなまえが、立ち尽くすようにしてこちらを見ている。自らの意思で立ち止まったくせに、なんだか誰かに置いていかれてしまった子どものような目をしているから、凛は喉から出かかった文句を思わず飲み込んだ。でも、彼女がそんな目をしているのは、べつに「置いていかれた」からじゃない。ただ酒に酔って焦点の揺らいだ瞳が、そんなふうに見えただけだ。
「凛くん、傘」
その目をしたまま、なまえが凛を呼ぶ。凛が自分のスポーツバッグと一緒に持っている彼女の鞄の中に、折り畳み傘が入っているからそれを出せという訴えのようだ。それを、確かに分かっているのに、凛は指一本動かすことができなかった。
傘を出す素振りのない凛に、なまえは一歩、ふらりと近付いた。凛の肩にかかった自分の鞄から、傘を取り出そうとしたのだ。懐へ滑り込むようにして近寄るなまえに、凛はびく、と身体を震わせる。
――雨が、降っていた。わずかに濡れたなまえの前髪が、ちょうどその目元を晒すように額に張りついている。いつもよりよく見える、彼女の褐色の目が、凛の鮮やかなターコイズブルーの瞳を覗き込んだ。
「さして」
その瞳の中にいる自分自身と目が合って、凛は息を止める。なにか、決して見てはいけないものを、見ているみたいな気分だった。
乱暴な動作でなまえの鞄から傘を引っ張り出し、足元で広げてから彼女の方へ傾ける。折りたたみの傘は小さくて、二人でその傘に入ろうにも、彼女との距離はあまりに小さすぎて、これ以上それを縮めるだなんて凛にはできなかった。雨が傘を叩く音と、凛のウインドブレーカーの背中を叩く音とでは、音の高さが違うんだな、なんてどうでもいいことを考えてしまう。
「……あんた、家どこなんだよ」
苦し紛れに、凛はつぶやいた。頭を切り替えなくてはだめだと思った。それが何故なのか、凛には分からなかったけれど。
今いる横浜駅から自宅のある鎌倉駅までは、横須賀線で三十分ほど。今にも眠ってしまいそうななまえを、電車へ放り投げて終わりにするわけにはいかなくて、自宅の在処を尋ねる。朝早くからあの花屋で働いているくらいなのだから、そう遠くはないだろう。彼女を送ってから帰宅したところで、そこまでの手間ではないはずだ。
凛に傘を差してもらい、雨を逃れたなまえは、またぼんやりと焦点の合わない目をしている。
「花屋の……裏の……」
近所かよ。
消え入りそうな呟きに、そう吐き捨てそうになったが、はっきりと場所を告げないまま眠りに落ちようとしている彼女の姿に、慌てて言葉を変える。
「おい寝るな」
ただ、声をかけたくらいで酔っ払いの眠気はどうにもならない。どうしたらいいのか、凛は奥歯を噛む。肩を揺するか、頬を摘むか――そんなこと、できるわけがない。
今、彼女の腕を掴んでいる手のひらでさえ、こんなにも熱くてたまらないのに。
翌朝の空は、晴れ渡っていた。あの日――彼女から二度にも渡って傘を借り、「また明日」と言われた次の日の朝と同じ青天。
凛は、温度を感じさせない冷めた顔で花屋の前にいた。それとは対照的に蒼白の顔をして身体を小さくしているなまえの目の前へ立ち塞がるようにして、彼女を見下ろす。凛の不機嫌そうな顔はいつもどおりだが、今日は苛立っているというより冷え切っているその表情と、昨夜の自分の醜態とが走馬灯のように脳裏をよぎって、なまえを酷くいたたまれない気持ちにさせた。
「……なんか言うことあんだろ」
「……その節は……」
普段の朗らかな声色はすっかり影を潜め、情けない弱りきった声でなまえは頭を下げる。
今朝、スマートホンのアラームがいつもよりやけに耳障りに聞こえて目を覚ましたとき、なまえは頭を抱えた。昨夜の記憶が、アルコールに押し流されることなくちらほらと残っていたからだ。大学の友人たちとの飲み会で、大して強くもないのに色んな酒をあれこれと試したのがよくなかった。大人しくレモンサワーを飲んでいればこんなことにはならなかったのに。
どうしてあんなところにいたのかは知らないが、その場へ居合わせた凛に、自宅まで連れ帰られた。ふらつく身体を支えられ、酔っ払いの戯言に付き合わせて、うにゃうにゃと要領の得ない道案内でなまえのマンションにたどり着いたときには、凛はもうほとんどキレていた。部屋番号を聞いているのに、何度聞いてもなまえが階数のことしか言わないので、「だから何号室だって聞いてんだよ!」と聞いたことのない声量で怒鳴っていた記憶がある。朝起きたらきちんと自宅のソファの上に転がっていたので、なんとか部屋番号は伝わったのだろう。
しかし、未成年――しかも高校生にそんなことをさせてしまった自分の不甲斐なさで、まっすぐに凛のことを見られなかった。対する凛は、ぞっとするほど冷めた目でこちらを見下ろしている。
「高校生に酔っ払いの世話させやがって」
「返す言葉もありません……」
肩をすぼめて首を折るなまえの顔は白く、それは凛――高校生に酔った自分の世話をさせた罪悪感がそうさせていることは凛にも分かっていたが、でもそれだけではないのだろう。わずかだが目元には隈が落ちて、朝だというのに疲れた表情は、「二日酔い」というやつに違いない。未成年の凛には分かりようもない感覚だ。
こんなふうに体調を崩して、昨夜のことを後悔するような有り様になるくせして、ああやって酒に酔う。頭にアルコールが回ったなまえは、花屋で顔を合わせているときの彼女からは、想像もできない姿だった。
凛は、冷えた表情のままなまえを見下ろし、昨夜の光景を反芻する。
こちらにすべてを委ねる不用意さで、手を離せばその場に崩れてしまうくらい力の抜け切った彼女は、あまりに無防備でなんだか見ていられなかった。凛が血迷えば、どうにだってできてしまいそうで――夢に、出そうだと思った。
静かにこちらを見上げるぼやけた瞳も、寝言みたいな声が呼んだ自分の名前も。
「……あんた、付き合ってる奴いんのかよ」
呟くと、なまえは無言で顔を上げた。今日はじめて視線を合わせたその瞳は丸く見開かれていて、自分が言われている言葉を、少しも理解していないように見える。
「……ええ?」
目を丸くしたままじっと凛の様子を伺い、しばらくしてからそう改めて問いかけた。思考が追いついていない。
凛はむっとして、冷えたままだった表情をようやく崩した。でも、その表情の中に、たったいまなまえへ問いかけたことへの真意を見つけることはできそうにない。
「いんのか」
「待って、待って。……あの、わたし昨日なにかした?」
「なにかってなに」
眉間に深い皺を寄せたまま睨みつけてくる凛に、なまえは二の句が継げなくなる。
酔った自分の介抱をさせた男からの、こちらの恋愛関係を探るような質問。なまえには悪い予感しかしなかった。そんなことを気にかけさせる「なにか」が、昨夜の自分たちの間にあったのだと勘繰らずにはいられない。ましてや自分は酷く酔っていて、その「なにか」をしでかしたとしてもおかしくはない。
でも、凛はその感覚が本当に分からないらしい。いつもどおり難しい顔をして苛立っている。
「……え〜」
「んだよはっきりしろ」
鋭い視線でこちらを睨む凛に、なまえはなんだか億劫になった。自分よりいくつも年下の男の子に、何を言おうとしているんだろう。訴えられたりしないだろうか。
適当なことで誤魔化されてはくれないだろう険しい視線に、なまえは観念して深いため息をつく。
「……えっちなこと」
「えっ……」
凛は絶句した。昨夜、なまえの友人らしき男から「なまえの彼氏か」と問われたときと同じだ。思わぬ方向からぶん殴られたような衝撃を脳に感じる。そしてそれと同時に、途方もない熱が込み上げてくる感覚がした。自分のどこにしまわれていたのかちっとも思い当たらない熱さが、腹の底から立ち昇って、身体中を支配する。
顔が、耳が、息が熱くてどうしようもなかった。
「ッするか! してねーよ馬鹿かあんた」
反射的に、吐き捨てるようにして言うと、なまえは「そっか……」とあからさまにほっと息を吐く。その胸を撫で下ろす姿が、なぜか酷く癪に障った。彼女の様子から、凛はなまえが自分の質問を聞いて狼狽えた理由にようやく合点がいく。
なまえは、昨夜酔った勢いで自分が凛に手を出し、そのせいで凛があんなことを言い出したと思ったのだ。だから、なまえの言う「なにか」が起こらなかったことに安堵した。そして、凛のことを、「軽んじた」。
凛は、そっと息を吸って、低い声で呟く。静かな声だった。
「……俺が、あんたに手ェ出されて、浮かれてその気になったとでも思ったのか」
なまえは、凛の言葉の意図に気付いている。凛が、彼女に恋人がいるかどうかを尋ねた、意味。
それに気が付いていて、そのうえで、見ないふりをしている。凛がその言葉を発した意味を、その感情を、他の要因にくくりつけて、「なかったこと」にしようとしているのだ。
それを咎める凛の言葉に、なまえは慌てて目を逸らした。凛は、彼女から視線を決して外さない。
「いや、ええと、なんていうか」
所在なさげに視線を彷徨わせて、探している。彼女にとって都合のいい、凛の抱えているであろうそれの落とし所を探しているのだ。でも、凛は許さない。ここで、「あんたなんかに変な気起こすわけねーだろ」なんてこと、言ってやらない。
ひとしきり視線を右往左往させたところで、なまえは諦めて凛を見た。様子を伺うように、そっと視線だけで仰ぐ。
「……だって、凛くん高校生だよね」
「だから何だよ。関係ねーだろ」
なまえが口にした理由が気に食わなくて、凛は視線を一層険しくさせる。
自分が高校生だから、なんだと言うのだ。自分は高校生で、なまえは大学生で、それが彼女をこんなふうに罪悪感に苛まれたような顔をさせる理由になるのか、凛には理解できない。
そんな凛の強い眼差しに気圧されながらも、彼女は頷かなかった。胸の前で自分の拳をぎゅっと握って、まるで凛と距離を取ろうとしているようだった。
「あ、あるよ。ちょっと歳離れてるし、凛くんサッカー選手になるんだよね? 気の迷いっていうか……」
言いながら、視線を外され、凛は息を呑んだ。心臓に細い――棘のある花の茎が、鋭く突き刺さったような痛みが走る。彼女が言った何もかも、凛には少しも共感できるものはなかったが、何を言われたのか理解することはできた。
花の茎の刺さった部分が、鈍い痛みと熱を発して、勝手に呼吸が浅くなる。彼女に拒絶されて、自分の内側に傷がついて、彼女のことを加害者だと認識してしまいそうになる。
でも、そうじゃない。彼女に「傷つけられた」だなんて、そんなのは思い上がりだ。彼女は、凛を「拒絶した」だなんて思っていない。ただ、凛の気の迷いに「助言」をしただけだ。
――腹が立ってたまらない。腹の中に、嵐を飼っているみたいだ。
「俺の感情を勝手に決めるな」
掠れたような、わずかに歪んだ声を吐き出した。その声の圧につられ、顔を上げたなまえと視線がかち合う。
あのときと同じだ。昨夜、彼女が凛に傘を差せと告げたとき。彼女の褐色の中に自分の姿が映っているのを見ると、喉が潰れたみたいに息ができなくなる。でも、その瞳が細くなって、笑みを深めるときの温度を思い返して、自分はまた息を吹き返すのだ。
噛み締めていた奥歯から力を抜くと、湿ったような、生ぬるい息がこぼれる。
「おかしいかよ」
睨みつける先の表情は、戸惑いと、罪悪感に揺れていて、それが憎たらしい。
自分が吐く息も、言葉も、この人にはきっと煙たく感じるのだろう。でも、無駄だ。手遅れなんだよ。こちらが散々煙たがって距離を取ったのに、それを透明にしたのはほかの誰でもない彼女の方だ。いまさらになって踏み込みすぎたことに気付いたところで、怖気づいても、もう遅い。
おかしいか、と問いかける。その瞳は揺れるだけで答えないから、ふたたび息を吸った。
「……俺が、あんたに、好かれたいと思ったらおかしいのか」
ずっと胸の前で握られているなまえの手を、上から包み込むように触れる。跳ね上がるような反応をする姿に、ざまあみろと思った。
「……あ、あの、ええと」
狼狽える声が聞こえてきて、それを追うように彼女の頬が桜色に変わっていく。先ほどなまえが「気の迷い」だと言っていたそれが、今はどんな形に見えているのか、その肌の高揚を見れば分かる気がした。
その高揚がこちらにも移ったみたいに、凛の腹の中で膨れ上がって震える。笑い声みたいなものが、こぼれた。
「ばーか」
――今すぐ、雨が降ってほしい。
そうしたら、また彼女は傘を持ってきて、二人でその傘に入るのだろう。昨夜は傘の中だと近くて仕方がないと思っていた距離を、今はきっと遠いと感じる。
もし自分が、その距離を消して「好きだ」と言ったら、散っていく桜と一緒に、彼女のこともさらってしまえるだろうか。