しまった。明日は会社の飲み会があるんだった。
夕食を終え、最近ハマっているルイボスティーをふたり分淹れてそのマグカップを持ち上げた瞬間、はたとその事実を思い出した。そして芋づる式に嫌な記憶まで引っ張り出してしまい、さあっと血の気が引くのを感じる。
そっとソファに座っている恋人の様子を盗み見ると、いつもどおりの涼しい顔をしてスマホを操作していた。蛍くんが座るとなんだか小さく見える気がするけれど、もうそこに彼がいるのは当たり前の光景になってしまっている。自分にとってのそういう場所が、彼の部屋にもあるといいんだけど、と現実逃避をしそうになって、首を振った。自分が蒔いた種なのだ。この現実から逃げてはいけない。
「あの……蛍くん」
「なに?」
ソファとテレビの間にあるローテーブルへふたつのマグカップを置いて、彼の横ではなく、カーペットの上に座る。自発的に正座をした。背中を丸めて身体を小さくするわたしの様子に、何か悪い予感を察したらしい彼は、嫌そうな顔を隠すことなく眉間に皺を寄せてじっとこちらを見る。
「……なんなの。早く言ったら」
その視線から逃れるように、正座した膝の上で握る拳を見つめる。でも、それで逃げられるわけじゃないし、誤魔化してもあとが怖い。蛍くんの「怖い」は本当に怖い。自分自身でそれを実感していたので、わたしは彼の冷たい眼差しを浴びながら、おとなしく白状することにした。
「……明日、その、飲み会があって」
視界の端で、蛍くんの身体がぴくりと反応するのが見えた。まるで、沙汰を待つ罪人のような気分だ。
「……ふうん」
わずかに耳に届くくらいの声だったのに、わたしの心臓をどっと騒がしくさせるには十分すぎた。彼の顔を見ることができずにいると、先ほどとは比べるまでもなく、わざとらしいくらいに明るい声が「おかしいなあ」と言う。もうすでに、彼の言わんとしていることが嫌というほどに分かって、耳が痛い。
「僕、まだ店の場所も誰がいるかも終わる時間も聞いてない気がするんだけど、気のせいかなあ」
嫌味っぽくて意地悪な言い方するなあ。そう思いつつも、反論する術も立場も持ち合わせていないわたしは、彼の棘のある言葉を甘んじて受け入れ、そして項垂れる。
「……ごめんなさい。言ってませんでした」
言い訳をすることなく素直に差し出された謝罪に、彼は唇を噤み、浅くため息を吐いた。ちらりとそちらを盗み見ると、じとりと物言いたげな視線がこちらを向いていて、言いようもない気まずさが訪れる。
わたしに飲み会の予定があるときは、飲み会が開催される店の場所、同席するのは誰なのか、解散する予定は何時なのかを事前に彼へ伝えておくのがふたりの間で約束事になっていた。それだけ聞けば、彼は必要以上に恋人へ干渉する束縛彼氏の様相を呈しているが、わたしはそれに文句を言うことなく従っている。
それは、そんなことになってしまった原因が自分にあることを、これ以上ないほどに理解しているからにほかならない。
「……反省してるの?」
「してます」
「どうだか」
鼻先で笑うような態度をされても、わたしは黙ってそれに耐える。分かりやすい嫌味を言ってくれるだけましだと知っているからだ。あのときの彼のことを思い出すと、いまだに背筋がぞっと冷える。
それは先月のとある金曜日に起こった。
その日は同じ部署に新しく配属されたメンバーの歓迎会で、わたしはそれを蛍くんへ伝えていなかった。でも、これまで必ずしも飲み会の予定を伝えていたわけじゃなかったし、会社の飲み会ならなおさらだ。やましいことなんてないことは彼も理解していたから、だから特にそのことに言及してこなかったのだと思う。ただ、「きみ、酔うと眠くなるんだからさっさと帰んなよ」とは日頃から言われていた。
――結果、わたしはその飲み会でしこたまに酔った。今になっても記憶は朧げなままだ。蛍くん曰く、脈絡もなく話も聞かない酔っ払い丸出しのメッセージを一方的に送ってきたあげく、突然反応が途絶え、焦った彼がわたしのマンションに車を飛ばしてきても一向に帰宅して来なかったらしい。スマホの電源は落ちて電話も繋がらず、近所を探し回ったところ、わたしはなんと自宅から徒歩五分ほどの公園のベンチに座って眠っていたのだそうだ。
おそろしい。自分のやらかしたこととはいえ、ぞっとする。おかしな輩が居合わせたら、すぐにでもどうにかされていただろうし、そうでなかったとして不用心にも程があるだろう。
そんな状況にいながら、暢気に寝こける恋人を見つけたときの彼の心境を思うと――たいへん、不甲斐ない。
公園までどうやって辿り着いたのかはまったく覚えていない。けれど、そのあと目を覚ましてからの記憶は、今でもしっかりと残っている。
「おい。起きろ」
地獄の底から響いてきそうな低音を浴びて目を開けたときのことは、きっとしばらく忘れられないだろう。「おい」だなんて、そんな言葉を蛍くんの口から聞いたのは初めてだったと思う。もしかしたら、この先一生覚えているのかもしれない。
目を覚まし、自分の状況を把握するよりも先に、目の前にいる彼が尋常でないほど怒っていることを無意識のうちに察知して、頭のてっぺんから血の気が引いていくのを感じた。
「……何してんの? あと五分歩けば自分ちなんですけど。自分の飲める酒の量も分かんないならもう一生酒飲むな。ていうかこんなところで寝るとか本気? 脳みそまでアルコール浸かってんじゃないの? いい加減にしろよ」
怒涛だ。
蛍くんは、物静かだと思われがちがけれど、口数が少ないというわけでもない。それどころか、時とタイミングによっては息をつく間もないマシンガントークを繰り広げることもある。その「時とタイミング」は、彼のご機嫌を損ねたときだったりするわけだが、今回はご機嫌を損ねるのとは訳が違った。あまりにおそろしくて、わたしはしばらく「はい」と「すみませんでした」を言うことしか許されない生き物となることに徹したのだった。
――こうしてわたしたちふたりの間に、「飲み会がある際は諸情報を事前に共有しておくこと」というルールが制定された。
ソファのアームに肘を置き、頬杖をついたままこちらを見下ろしてくる蛍くんの視線から逃れるように俯いて、じっと膝の上に添えた両手を見つめる。変わらず正座は解けないままだ。特に彼が課したわけでもない、自主的な正座なのだが。
足の先が痺れはじめたことを感じながら、ぽつりと呟く。
「……やっぱり断ろうかな」
明日の飲み会は、同じ部署にいる女性だけの懇親会――つまりただの女子会だ。もちろん出たほうがいいことには変わりないけれど、行けないからといって渋い顔をされる職場というわけでもないし、彼を嫌な気分にさせているよりはそちらの方がいいのかもしれない。
俯きがちに呟くわたしに、蛍くんは抑揚の少ない静かな声で言った。
「ずっと断り続けられるならいいけど、できるの?」
嫌味っぽい棘のある声でも、ましてや怒りを含んでいるのでもない、いつもどおりの静穏な声色。思わず顔を上げると、先ほどまで顰められていた眉は落ち着きを取り戻していた。
たしかに、今回断ったところで、これから先も一切飲み会が開かれないなんてことはない。それらをすべて断り続けるというのは、あまり現実的とは言えないだろう。
「べつに、行くなとは言わないよ。あんな馬鹿なことしなきゃ」
彼の言葉に、息をぐっと飲み込む。蛍くんはこれまでも、あんなことがあったあとですら、飲み会に行くな・酒を飲むなとは一言も言わなかった。(お説教のときに「自分の飲める酒の量も分からないならもう一生酒を飲むな」とは言っていた。)彼自身はお酒が得意じゃないから、「何が楽しいのかは分かんないけど」と言いはするけれど、わたしの楽しみや会社の付き合いを理解してくれている。
わたしが、彼を心配させるようなことをしただけなのに。そう思うと何だか自分がひどく情けなく感じて、子どもみたいに唇を噛み締める。
蛍くんは、そんなわたしの様子を見て眉を下げた。
「ちょっと、僕がいじめてるみたいな反応するのやめてくれる」
「……ごめん」
「そんなにしゅんとしないでよ。心配してるんでしょ」
「うん……」
自分の情けなさに目頭まで熱くなってしまって俯くと、蛍くんは浅いため息を吐く。呆れてしまったというよりは、しかたがないなと慰めるような、まろいため息。
「ほら、こっち来て」
呼びかける言葉にふたたび顔を上げると、ソファに座った彼がこちらに手を差し出していた。低く、静かで、優しく響く声色に、まるで操られるみたいに腰を上げる。正座を続けていたせいで痺れてしまって、地面を踏む足の感覚は鈍っていた。けれど、彼の手を握って、その隣に座らされるまではあっという間で、足がもつれることもない。
ソファに腰を下ろして、すぐのことだ。
言葉を交わすことも、目を合わせることもないまま、ふたりの間にあったわずかな距離がなくなる。蛍くんが、その長身を屈めて、わたしの肩へ寄りかかったからだ。首筋から肩にかけてのカーブに沿うように、彼の頭部がぴったりと触れている。
普段スキンシップのさほど多くない彼からの突然の接触に、思わず身体がびくりと強張った。
「じっとしろ」
首元から、身動きするのを咎めるような言葉が飛んできたので、おとなしくそれに従う。
背の高い彼がわたしの肩にもたれかかるには、背中を丸めて縮こまらなければならない。窮屈な格好だろうに、蛍くんはその体制のまま深呼吸をして、力を抜いた。高い鼻筋が、輪郭や首筋にすり寄せられる。
もしかして、甘えているんだろうか。叱られているのはこちらなのに?
「……あの、蛍くん」
「なに。文句ある」
「ないです……」
とはいえ、わたしがそれを指摘できるわけもなく、姿勢を正したまま蛍くんの好きにさせている――と、おもむろに繋がったままの手を拘束されるような感覚がした。できるだけ頭を動かさないように視線を下ろすと、自分の手が蛍くんのそれに握り込まれている。
痛みを感じない程度のわずかな力しか込められていないというのに、自分の手を見えなくしてしまうほど大きなてのひらに包まれて、わたしは指の一本すら動かせなかった。
「……迎えに行かせてくれたら、こんな心配しなくていいんだけど」
「でも、わざわざ迎えに来させるの、悪いよ」
いつだったか、わたしが公園爆睡事件を起こす前、飲み会があることを伝えたときに、彼が「迎えに行こうか」と言ってくれたことがある。でも、彼は普段、博物館勤務とバレーチームでの練習で忙しくしているし、ゆっくり身体を休める時間帯にわざわざ迎えに来させるなんて忍びなくて、丁重にお断りをしたのだ。
その気持ちはいまも変わらない。でも、そう言うと蛍くんはそれをバッサリと切り捨てるみたいに言う。
「公園で寝こけられるほうがよっぽど悪いよ」
「……すみません」
正論だ。言い返すべきことが何もない。
お迎えを断ったとき、蛍くんは「ふうん、まあいいけど」と涼やかな顔をしていたけれど、こうやってふたたび言ってくるなんて、まるで蛍くん自身がそうしたいと言っているように思える。
そこまで考えて、ようやく気付いた。この人、わたしのことを慰めたいんだ。自分で叱っておいて。
耳元でぼそぼそと呟かれる声は、少し濁って、ほのかに甘い。
「カノジョ迎えに行くくらい、なんでもないって言ってんの。なんで分かんないんだよ。馬鹿なの?」
これまでそんなの一度も言われたことないけどな、思わず笑ってしまいそうになったのをなんとか堪えた。
この人は、こんなふうに憎まれ口を叩かなくちゃ、甘えることも心配することもできない人なのだ。「もう怒ってないよ」の一言だって言えない。
少しの棘を感じない形ばかりの憎まれ口。その代わり、頬や首元に触れる彼の肌が、先ほどよりも明確に熱を上げていることをたしかに感じる。
きっと、その色白の頬を通り越して、耳の端まで赤くなっているのだろう。その表情を記憶に残しておけないのは残念だけれど、お世辞にも素直と呼べる性格をしていない蛍くんのこんな姿が見られるのなら、むしろ得をしたと言ってもいい。
彼の柔らかい髪に、頬をそっと寄り添わせながら、明日の夜、飲み会を終えたわたしを迎えにくる彼の姿を想像する。くちびるが弛んだ。
それに気付いた蛍くんが、「ちょっと、笑うな」と拗ねたように睨みつけてくるまで――あと少し。