これって、青天の霹靂ってやつだ。真っ白になった頭の中でそんなことを思う。
 U-20代表戦を終え、しばらくぶりに登校した高校で、周りからの視線や扱いの明らかな温度差を感じた。そんなところでも、俺は自分が自分の世界を変えてしまったことを知ったわけだが、そうやって俺がサッカーに明け暮れている間に、自分以外の世界だって変化している。そんな当たり前のことを思い知ることになったのだ。
 
「あいつ、彼氏できたらしいよ」
「……は?」

 俺――というか、大舞台で活躍した潔世一という同窓生を一目見ようと集まってきていた野次馬の波が引いた頃、ブルーロックに招集される前の自分のことをよく知るクラスメイトが世間話のように言った。
 なんでも、俺が好意を抱いていたあいつ――あの子が、自分が学校へ来ていない間に彼氏を作ったのだそうだ。当然、その彼氏は俺ではない他の男。思いがけない、最悪のニュースだ。「は?」と言ったきり言葉を失ってしまった俺を尻目に、クラスメイトは追い打ちをかける。

「潔、仲良くなかったっけ?」

  ――仲良いどころか、両思いだと思ってたんですけど?
 そんな恨み言が頭をよぎったけれど、目の前のクラスメイトにそれを言ったところでどうしようもないので、「まあ、それなりに」なんて当たり障りのない相槌を打って会話を切り上げた。
 彼氏? なんで? 俺じゃなくて? そんな疑問が脳内を埋め尽くす。でもそれは、俺が自意識過剰だとか勘違い野郎だとか、そういうことではないはずだ。
 だって、あんなに思わせぶりな態度とってたじゃん!

 ◇
 
 ブルーロックに招集される少し前、冬の国立を目指す大会の予選に向けて部活に精を出していた頃だ。部活とその後の自主練を終え、もうすっかり暗くなって、部活生たちの姿もない学校の正門。ジャージにマフラーを巻いて、自転車を押しながら正門を出たところで、正門脇の花壇の塀に腰掛ける見慣れた人影を見つけた。
 人の気配に顔をあげた彼女は、俺の姿を見てパッと立ち上がる。

「あれ、まだ帰ってなかったの?」

 部活終了の時間はとうに過ぎ、完全下校時刻も過ぎてしまっているこの時間に、彼女が学校に残っていることは珍しい。声をかけると、彼女はわずかに目線を宙に彷徨わせて、それを誤魔化すように笑った。

「うん、ちょっとね」
 
 含みを持たせた返答がひっかかる。先程まで座り込んでいたところを見るに、偶然学校を出るタイミングが重なったわけでもなさそうだ。あの状況をストレートに捉えると、誰かがやってくるのを待っているように思える。
 こんな時間まで、彼女が待っている人間。それを思うと、心臓にぐさりとナイフが突き刺さったような痛みを感じた。
 
「……誰か待ってる?」
「ううん、もう帰るとこ」
 
 それなのに、彼女はあっさりと首を振ってその予想を否定する。待っている人も用事もなく、あんなところで立ち止まっていることがあるだろうか。明らかな嘘に引っかかりつつも、自分の姿を見て立ち上がった彼女が、「もう帰るところ」だと言うのだから、それに対して俺が言うべき言葉はもう決まっていた。
 
「……あー、えっと」
「なに?」
「……一緒に帰りませんか」
 
 辺りが暗くなっていてよかった。自分の顔に、熱が集まっているのがわかる。
 冬の時期は日の入りが早いため、夏と比べて部活時間が短い。そのことを常日頃から惜しんでいたのに、今はその移ろいがありがたかった。
 
「サッカー部の人達はいいの?」
「ああ、うん。俺が最後だし」
 
 少し前なら部活終わりの生徒たちで溢れていただろう正門には、今は自分と彼女の姿しかない。他のサッカー部員たちが後から来る様子もないことを確かめた彼女は、微笑んで頷いた。
 
「じゃあ、帰ろ」
 
 俺が押している自転車の逆側――自分のすぐ隣に回り込み、並んだ彼女の髪から、わずかに甘くてやわらかい匂いがして、心臓が縮み上がる。それが香水なのかシャンプーなのか俺には分からないけれど、頭の中を引っ掻き回すには充分だった。
 男だらけのサッカー部では決して漂わない甘い匂い。隣に並んで分かる肩の薄さとパーツの小ささ。
 ――冬だから油断してたけど、俺ちゃんとシーブリーズしたっけ?
 急激に緊張が走って、歩き出した途端に言葉が出てこなくなる俺を尻目に、彼女がぽつりと声を落とす。内緒話をするような、密やかな声だった。
 
「……本当はね、人を待ってたの」
 
 ただでさえ緊張しているところに、畳み掛けるように彼女はそんなことを言う。なんの感情なのか判断できないけれど、心臓がぎくりと強張った。ちらりと横目に彼女を盗み見ると、なんと視線がぶつかって、俺は喉が締め付けられたような息苦しさを覚える。
 なんか、なんか、めちゃくちゃかわいい顔してないか?
 
「一緒に帰れるかもって、待ってたんだよ」
 
 そう言って目を細める彼女の姿が街灯の光に照らされて、俺はなにも言えなくなった。辺りを埋め尽くす冬の空気は凍てつくほど冷たいのに、身体は今にも燃え上がりそうに熱い。
 ついぞ、彼女は誰を待っていたのか言わなかった。でもその物言いや表情、そのときの状況を考えると、彼女が待っていた人というのは、つまり。そこまで考えて、俺は頭を抱える。期待と、歓喜で。
 ――好きな女の子にそんなことされたら、期待しないわけがないだろ!

 ◇

 思い出せば思い出すほど、これまでの彼女の言動は俺を舞い上がらせるもの以外になりえなかった。けれど、彼女は自分のいない間に他の男の彼女になっているわけで、つまり俺はひとりで勝手に両思いだと思い込んでいた哀れな勘違い野郎だということになる――が、しかし。
 そんなわけがなくないか? あんなことを言って、あんなかわいい顔して、「勘違いでした」なんておかしい。理論が。どう考えても。仮に彼女が俺を弄んでいたのだとしたら合点がいくが、そんなことをするようには思えないし、それならそれで詫びがあって然るべき――と、そこまで考えたところで目の前がぱっと開けた。
 そうだ。詫び――いや、責任を取るべきだ。俺を弄んだ、もしくは勘違いさせた責任。彼女があのときなにを思って、どうして俺にあんなことを言ったのか。それをきちんと説明してもらわなければ、俺はこのフラストレーションの落とし所を見つけられない。
 彼女には説明責任がある。責任者はどこだ。

「あれ、潔くん」
 
 ――責任者は、放課後に現れた。というか、俺が彼女を待ち伏せた。
 あのときとは違い、まだ辺りに生徒たちがちらほら残る正門前。彼女が一人で現れたのは好都合だった。彼氏になったという男と並んで現れることも想像していたが、そいつは部活でなくアルバイトをしていて、放課後学内にいることは少ないらしい。おあつらえ向きだ。
 
「よ、おつかれ」
「部活終わったの? おつかれさま」
 
 ブルーロックから離れている間、体力を落としたり変に鈍ったりしないように部活には参加した。けれど、一日の全てをサッカーに費やすことのできた充足感も、気を抜けば自分が食い荒らされるような危機感もないそこでは物足りなくて、逆に歯痒さが募り自主練をすることなく切り上げているのだ。
 目を丸くしている彼女の近くまで歩み寄り、そのまま彼女の隣に並ぶ。顔を覗き込むと、丸くなった瞳がぱちぱちと瞬きをした。
 
「うん。もう帰るとこ? 一緒に帰っていい?」
「う……うん、いいよ」

 呆気に取られながら、辿々しく頷く彼女を見て、ひとりでに口角が上がっていくのを感じる。以前までは彼女の一挙手一投足どころか、彼女がなにもしなくたって勝手に振り回されていた自分が、彼女を戸惑わせていると思うと、なんだか湧き上がるものがある。
 こちらの問いかけに頷いた彼女へ、早速俺は爪を掛ける。

「へえ、いいんだ。彼氏大丈夫なの?」

 ただでさえ丸くなっていた目が、一層見開かれて今にも瞳が溢れそうだ。
 彼女本人から恋人ができたと聞いたわけではない俺からその話題が出てきたことに少なからず驚いたようだが、高校生の恋愛事情なんて学校内では筒抜けで、それを彼女も分かっているのか、情報の出所について問いただすようなこともなかった。
 ただ、「彼氏」のことを否定する様子もなく平然としているのは、あんまり面白いものじゃない。

「べつに、友達と一緒に帰るくらいは……」
「そっか。心広い彼氏なんだな」

 そのうえ、自分のことをはっきりと「友達」と明言するものだから、頭の中がどんどん静まり返っていく。彼女には恋人がいて、それは自分ではない。だからそんなのは当然の反応に違いないが、彼女のあの思わせぶりな態度を知っている俺には、その様子は自分のことを揶揄しているようにしか思えなかった。
 ていうか、彼氏がいるのに他の男と二人きりで帰っても許されんの? 彼氏だとかいうその男はそれで平気なのだろうか。もし自分が彼女の恋人だったら、そんなこと絶対に許さないのに。
 そんな恨み言を押し殺して、俯きがちに歩く彼女へ話を振り続ける。彼女の受け答えはどこか歯切れが悪く、この話題を避けたがっているように感じたけれど、決して引いてやったりしない。なぜなら彼女は、俺に説明をする義務があるから。
 
「すげーびっくりしたわ。彼氏できたとか。仲良かったの?」
「うーん、それなりかな」
 
 そうだよな、俺が一番仲良かったんだから。心の中だけで返事をして、じっと彼女の様子を観察する。
 はっきりと肯定できるほどではなかったことを濁すような曖昧な返事とぎこちなく吊り上げられる口角。対照的に自分の目と口はひとりでに弓形に細まり、隠すように視線を彼女から背けた。
 しかし、背けたそばから、そのまま続けられた彼女の言葉によって、俺の視線は引き寄せられる。

「でも、告白してくれたの、嬉しかったから」
 
 またしても笑顔はぎこちないが、今度はそれが何かを誤魔化すためでないことはすぐに分かった。控えめに下がる眉とわずかに赤らんだ頬。照れくさくて、それでも「嬉しかった」ことは本当なのだろう。
 ――なんだよ、それ。場違いな苛立ちが腹の底に溜まっていく。
 それって、俺がいつまでたっても告白しなかったことに対する嫌味?
 俺が告白していたら、きみは俺の恋人になっていたのだろうか。
 今更なにを言っても、臆病者の負け惜しみでしかない。そんなことは分かっている。
 けどそれなら、はっきりと気持ちを告げられなかった俺に愛想が尽きたとか、一人で勝手に振り回される俺の様子が可笑しかっただけだとか、そういうふうに突き放してくれればいい。それなのに。

「そっか。よかったな」
「……うん」

 先ほどよりずっと引き攣ったような笑顔を浮かべて、俯いた先でそっと唇を噛み締める仕草に苛立ちが膨らんでいく。意味が分からない。彼女がそんなふうだから俺は、勘違いさせた責任を取れだなんて頭が沸いたようなことばかり考える。
 そんな顔をするなら、どうして誰かのものになったりしたの。本当はそんな顔をさせたいわけじゃないのに、その傷ついている表情が自分のせいなのかもしれないと思うと、どうしてか俺は、その表情を「もっと見たい」と欲してしまうのだ。

「なんか、いいな。俺も彼女ほしいかも」

 地面を見つめていた瞳がこちらを見上げて、信じられないものを見ているように丸くなる。全身の輪郭がびりびりと痺れて、今湧き上がってくるこの感情に気付いてはいけないことだけが分かった。
 
「え……」
「なに?」
「あ……ううん。潔くんは、サッカーが大事だから、そういうの興味ないのかなって思ってた」

 ――そっか、そっか。そうなんだ!
 彼女のその言葉は、俺にとって「答え」以外の何者でもなかった。腹の中に蓄積していた苛立ちが瞬く間に霧散して、嘘みたいに高揚感が膨れ上がる。
 俺が、「そういうのに興味ないのかなって思ってた」から、こんな意味わかんないことしちゃったんだ。
 それなら、いいよ。そういうことなら、もう全部許すよ。
 高揚で浅くなる息を抑え、ゆっくりと声を吐き出した。あまりに優しく、穏やかな声だった。

「サッカーは大事だよ。一番。でも、好きになっちゃったらどうしようもないし」
「……そうだね」

 寂しげに微笑んでいる彼女はきっと、俺の言う架空の「彼女」を自分以外の誰かだと想像しているのだろう。まだ、もう少しだ。
 俺が噛み付いたって許されるような、そんな隙を見せる瞬間を、息を潜めて待っている。

「潔くん、いい彼氏になりそう。羨ましい」
 
 息と一緒に、笑い声が溢れてしまいそうだった。
 悪気なく俺を期待させる言葉、俺を振り回してやまない瞳、彼氏がいるくせに俺を好きにさせるずるくてたまらないところ。全部ぜんぶ、俺のものになった方が、絶対いいに決まってる。
 
「……じゃあ、待ってようかな」
「……え?」

 目を瞬かせてこちらを見る彼女に視線を合わせて、立ち止まった。数歩先へ進んだ彼女もすぐに足を止め、立ち尽くしたままで俺の言葉の意味を測ろうとしている。
 軽く首を傾げて、見上げるようにしてその目を見据えた。あんなに思わせぶりなことができる彼女だから、俺の言葉も、きっとすぐに理解できるだろう。そんな確信を持って、俺は笑った。

「俺、いい彼氏になるんだろ?」

 そう言ったのは彼女だ。彼氏がいるくせに、他の男にそんなことを言っているようじゃ、どうせすぐにダメになる。それに、仮初といえど彼女が今の彼氏と付き合っている間に、二人が触れ合ったり、キスをしたりするかもしれないと思うだけで吐きそうだ。たぶんそんなの少しだって耐えられない。
 だから早く、ここに戻ってきて。

「待ってるから。早くな」

 俺の言っている言葉の意味に気付いている彼女は、唇を噛んで、目を見開いていた。でもそれは先ほどの傷ついた表情とはまるで違っていて、頬は赤らんで、どことなく瞳は潤んでいる。
 期待して、振り回されて、めちゃくちゃになってる。俺と一緒だ。
 ――ほら、早く頷いて。なんてね。

maybe.

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