自分がこの世に生まれてきたことを、感謝したことがない。何せおれは「何という無駄な存在!」と言い聞かせられて育ったのだ。そんなことを思える方がどうかしている。
 とはいえ、小さな海賊船を居場所にする今の自分は、そんな地獄から解放されて、「あれ」をもう自分の前には現れない過去だと理解している。あの環境こそがおかしかったのだと安堵したうえ、自分自身の夢を追うことができる人生を手に入れて、正に順風満帆というやつだ。
 だけど、自分の価値みたいなものを自分自身で認めることは、まだうまくできないでいる。

「――ふたり分?」

 彼女の頼みごとを、おれはそのまま繰り返した。カウンターに寄りかかったままこちらを見上げる彼女は、ひとつ頷く。
 ――明日の朝食の仕込みが終わったら、不寝番へ差し入れする飲み物をふたり分用意してほしい。彼女はそう言った。おれがレディの頼みを断るなんてありえないことだが、単純な疑問として「誰の分?」と首を傾げる。
 今日の不寝番は彼女なので、ひとつは当然彼女自身の分だろう。では残りのひとつは誰の分か。そう問いかけたおれに彼女は、そのままの笑顔で言ったのだ。

「サンジくんの分。ちょっとお話ししようよ。だめかな?」

 なんと、彼女から直々に夜のお茶会のお誘いだ。おれはつい目玉をハート型にして声を上げる。

「まさか! レディから夜のおしゃべりに誘っていただけるなんて光栄だ。とびきりのもん用意するからね♡」
「普通でいいよ。サンジくんの好きなやつにして」

 手当たり次第に振り撒く愛の言葉をいつもどおりにかわして、彼女は展望室へ向かった。その背中を見送りながら、何を用意するかを考える。
 今夜は風が強いが、代わりに雲が流れて晴れ間が広がるいい夜だ。きっと展望室からは月や星もよく見えるだろう。一刻も早くレディとふたりきりの月夜にありつくべく、明日の朝食の支度に取り掛かった。
 彼女は、この船の三人目のレディで、ナミさんやロビンちゃんと同じく、おれが等しく愛を注ぐべき存在だ。おれが毎日のように叫ぶ愛の言葉をいつもにこにこ聞いていて、何だか少し面白がっているようですらある。おれとしては、彼女が鬱陶しがらずに笑って受け止めてくれるだけで、身体中の骨が抜けてしまいそうに幸福なのだった。





 彼女のいる展望室は、ランタンの灯りだけがぼんやりと光る薄闇だった。夜の海を見つめているには、部屋が明るくてはいけない。だから不寝番は皆、そういったわずかな灯りか、全くの暗闇で夜を過ごすのだ。

「お待たせしました、マドモアゼル」

 部屋の隅に置かれたランタンの火でぼんやりと頬を染めている彼女の横顔に静かに声をかける。彼女は振り向いて、「いい匂い」と溶けるように目を綻ばせた。それだけで、おれにとってはもう充分な報酬だ。
 壁沿いに設置されたベンチの、窓のそばに腰掛けた彼女へ恭しく腰を折って、彼女のために用意したそれをサーブする。

「サンジ特製、愛のホットワインです♡ アルコール低めにしてあるからね」
「ありがとう。ホットワイン好き」

 その言葉に、「それって作ったおれのことも好きってこと? おれもだよ♡」とメロメロになってみるが、残念ながら彼女はおれよりもホットワインの方に夢中だった。
 赤のホットワインは、オレンジとレモンを入れて煮詰めたあと、ほんのひとかけのシナモンで仕上げたものだ。不寝番をするのに酒に酔っては眠くなってしまうだろうから、アルコールはほとんど飛ばしてあって、たっぷりはちみつを入れてある。
 彼女のお気に入りの、透明なガラスのカップに注がれたホットワインを手に、彼女はこちらを見てどこか楽しげに笑った。

「はい、乾杯」
「うん、乾杯」

 誘われるがままに彼女の隣に座り、自分もカップを持ち上げて彼女のそれと合わせる。小さな音が展望室に響いて、それへ続くようにして、彼女が息を吸った。

「お誕生日おめでとう」
「……え」

 思いがけない言葉に、そんな声がこぼれる。目を見開いているだけのおれに、彼女はいっそう笑みを深くした。

「誕生日だよね? 3月2日」

 彼女の告げた日付は、たしかに自分の誕生日だった。海の上で日々を過ごしていると、日付の感覚なんてすぐに忘れてしまう。今日が何日だろうと食事を作ることを左右するものではないので、日付を気に留める必要がないのだ。

「ああ……そうか、もうそんな時期か」
「こんなお祝いでごめんね。ホットワインもサンジくんに準備させちゃったし」
「そんなことどうだっていいさ。レディに祝ってもらえるなんて、おれァ世界一幸せな男だよ♡」

 自分の誕生日に思い入れなんてこれっぽっちもないのだ。それにかこつけて、彼女とこんな夜を過ごせるだなんて、おれの方が何かを祝いたいくらいだった。
 鼻の下を伸ばすおれに、彼女はくすぐったそうに笑う。そして、そんな浮ついた心地から一瞬で目を覚ましてしまうくらい、彼女は静かに目を細めて、やわらかく息を吐いた。

「サンジくんが生まれてきてくれて、コックさんになって、同じ船に乗って、毎日サンジくんのごはん食べられるなんて、ほんとにラッキーだなあ」

 窓の外の、星が海面に映った海を見つめながら話す彼女の瞳には、海と同じように星の光が映っている。ひどくきれいだったのに、おれはその瞳ではなく、唇から紡がれる言葉に意識を攫われていた。目玉をハートにすることも、愛の言葉を唱えるのも忘れてしまう。

「……ありがてェけど、大袈裟だよ」
「そうかな、すごい偶然じゃない? ありがとう、サンジくん」

 ――生まれてきてくれて、いつもおいしいごはんを作ってくれて。
 呟くように言う彼女に、目を奪われて、息が止まる。
 背中を押されて、足を踏み出したら、今まで気が付かなかった目の前の大きな穴へ真っ逆さまに落ちてしまったような感覚。浮遊感で胃のあたりがそわそわする。
 思わず吐き出した呼吸は熱くて、心臓がうるさかった。

「……すげェもんもらっちまったなァ」

 すぐ近くに彼女がいるのに、返事も忘れて独りごちる。
 自分がこの世に生まれてきたことを、感謝したことがない。何せおれは「何という無駄な存在!」だからだ。それなのに、彼女がまるで当たり前みたいな顔をして軽やかに笑うから、そんなくだらない過去なんて滲んで消えてしまいそうになる。
 ――おれも、おれもだよ。きみに出会えて、おれは幸運だ。
 そう声高に叫びたかったのに、なぜかそうできなかった。いつもなら言葉なんていくらだって湧いてきて、心のままに振り撒けるというのに、今浮かんだ言葉だけは、そうしてはいけない気がした。言葉にするのがもったいなくて、自分の身体の中にずっととっておきたいような、そんな感情。
 圧倒的な「何か」に身体を押されて、おれは今まで落ちたことのない、深い穴へ落ちていくのだ。

春が落下する

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