仕事に忙殺される日々というのは本当に悪辣だ。時間への認識はアポイントと終電に間に合うかどうかしかなくなるし、休日に呼び出しを食らって振替休日で誤魔化される日が続けば日付の感覚も怪しくなる。今が何時で何日かなんて、一々判断する余裕はないのだ。
 ――だから、恋人の誕生日をすっかり忘れてしまっても、仕方がない。
 というわけにはいかない。俺は久方ぶりの全力疾走というやつで、その人のもとへ向かっている。

「あれ、独歩ちんいたの? 今日休みって言ってたし、泊まってくると思ってたわ。昨日誕生日だったっしょ? カノジョ」

 今朝、のそのそと起き出してきた自分を見た同居人から、その言葉を聞いたときの俺の心情をお分かりいただけるだろうか。全く働かない寝起きの頭は、その言葉の意味を理解するのに数秒を要し、理解した途端にサッと脳内が白く開けていくような感覚がした。
 すぐさま支度をして、財布とスマホだけをポケットに詰め込み、転げ出るように家を出たのが先ほどのことだ。メッセージアプリに彼女からの連絡はなく、彼女の誕生日である昨日、彼女と交わしたやりとりはひとつもない。二日前までで動きを止めている彼女とのメッセージ画面を見て、ゾッと悪寒が走った。
 ――嫌われたら、どうしよう。
 誕生日を忘れる彼氏なんて、最低だ。自分が忘れられた側だった場合のことを想像する。もう祝われるような歳ではないことは自覚しているけれど、そうだとしても、傷つくものは傷つく。俺のことはどうでもいいのだろうかと彼女の気持ちを疑ってしまうし、裏切られたような気分になってしまうかもしれない。
 彼女に、そう思われたとしたら。考えて、額や背中にぶわわと冷や汗が浮かぶのを感じた。幻滅されたかもしれない。俺だって俺に幻滅した。恋人の誕生日を忘れてしまうことがそもそも有り得ないし、一二三に思い出させられるというのがどうかしている。彼女と直接会ったことのない一二三が彼女の誕生日を知っているのは、俺が一二三に話したからに他ならない。それなのに、話した本人である俺が忘れているのだ。どうしようもない。底辺の人間だ。これだから俺は。ていうか会ったことのない女の誕生日を覚えてるあいつはなんなんだ。
 自分への罵倒が一周回って一二三への悪口になりかけたところで、頭を振る。脳内はもう収集もつかないほど荒れ狂っているが、一番に考えなければならないのは彼女のことだ。何を言うにもまずは会わなければと、こうやって運動不足の体に鞭打って走ってはいるが、どうやって彼女に謝ればいいだろう。ここでうまく立ち回れなければ終わりだと、自分の本能が警鐘を鳴らしているのがわかる。どこまでも悪い方向へと考えてしまう自分の思考は、最悪の場合を想像した。――もし、別れたいと言われたら。
 いやだ、絶対に嫌だ。それしか考えられない。キャパシティはとうに決壊している。
 なにか、何かないのか。頭も回らない、頭を回すだけの酸素も足りず、赤信号を前にぜえはあと息を整える。横断歩道の先へ向いていた視線が、交差点にある花屋に吸い込まれていった。店先に並んでいる花々は、繊細な花弁を広げ、色とりどりの姿を酸素不足の脳内に植えつけていく。きれいだ。
 信号が青になる。気がつけば財布を開けて、入っているだけの紙幣を掴んで花屋のカウンターに叩きつけていた。

「っあの、これで、すごく……すごい、やつ、お願いします」

 言葉を選んでいる余裕はなかった。我ながらオーダーとしてどうかと思うが、万札が二枚は入っていたから、変なものは出来上がらないだろう。俺のただ事ではない様子に一瞬怯んだ店員は、叩きつけられた紙幣を見て、覚悟を決めたように頷く。

「プレゼントですか」
「っはい! あ、あの、恋人に」

 さすがに誕生日を忘れていたお詫びだとは言えなかったが、何かを感じ取ってくれたらしい。決死の顔つきでに花々をかき集めている後ろ姿を息を整えながらじっと眺めていると、別の店員に待合用の椅子を勧められたが、断った。店内をうろつかれては迷惑だろうが、とてもじゃないが落ち着いて座ってはいられない。俺の選択一つ一つに、彼女との運命がかかっていると言っても過言ではないのだ。
 色も形も違う花々があれやこれやと束ねられ、シルバーとパールホワイトの包装紙に包まれていくのを、どこか他人事のように見つめていた。くすんだピンク色の薔薇と、それより丸い形をした白と緑の間のような色の花。これも薔薇らしい。あとは淡い飴色のチューリップに、小さな花をたくさんつけたものも使った、淡い色合いなのに大人っぽい雰囲気の花束が出来上がる。なんとなく、彼女に似ている気がする。喉の奥からため息がこぼれた。これ誰が頼んだんだ、誰が持っていくんだ、俺か。
 両手に抱えるほどの大きさになった花束をそっと持ち上げて、何度も何度も頭を下げながら店を出た。やり切ったと言わんばかりの顔をした店員に、まるで戦友と別れるときような気持ちで背を向ける。店を出た先で見つけたタクシーを停めてすぐに乗り込み、もうすっかり口に馴染んだ彼女のマンションへの道筋をなぞった。
 戦友と別れ、俺は戦地に向かうのだ。比喩ではない。ごくん、と唾を呑み下した。



 死にそうだ。早速俺は戦地で死の危険に晒されている。インターフォンで彼女の部屋番号のボタンを押す指は震えていた。喉が干からびているように乾いて、血液が恐ろしい速さで流れているのがわかる。インターフォンの先が、がちゃん、と音を立てた。自分の身体が大きく跳ねて、固まる。

「……あ、あの、俺、だけど」
「……」

 無言。反応がない。聞こえていないのだろうかと思うが、そんなわけはない。インターフォンからはザーッと疎通している音が聞こえるし、なんなら今、ため息が聞こえた気がした。頭から血が引いていく。

「っご、めん、俺、」

 ここで会ってもらえなければ終わる。無意識がそう告げていた。インターフォンの先にいる彼女に向かって、追い縋る言葉を並べようとするが、その前に、疎通が切れる。そして、エントランスのドアが開いた。
 ――し、死んだとおもった。
 開いたドアを急いで潜りながら、心臓のあたりの服をぎゅっと握りしめた。まだ脈が早い。エレベーターを待つ間も、終ぞそれが落ち着くことはなかった。


「うわ、どうしたのそれ」

 彼女の第一声はそれだった。
 オートロックを無言で開けられ、心臓はすでに止まっていて、今は余韻で生きているのではないかと思わせるほど生きた心地がしなかった。しかし、部屋のドアが開かれた瞬間、彼女の視線は俺が抱えた花束に吸い込まれてゆく。先ほどのインターフォンでの無言の圧はどこへ行ったのか、純粋に驚いた声を上げていた。その表情に険しさは感じられないように見えたので、幾分か呼吸は楽になる。

「……きのう、俺、おまえの誕生日……わ、忘れて、なにかしなきゃって」

 絞り出した声は、自分でも耳をそばだてなければ聞こえないほど小さい。どんなに言葉を選んでも足りないような心地と、彼女の目をちっとも見れない罪悪感が相まって、仕事中に謝罪をしているときの方がずっとマシに思えた。
 土下座でもした方がいいのだろうか。それはそれで迷惑な気がする。最適解を導き出そうと試みるが、ただ目が回るだけだった。白いクロックスをつっかけている彼女の足元を見つめたまま、視線を動かすことができない。
 はあ、と彼女から落ちてくるため息に、大袈裟に肩が跳ねる。けれど、はたと気付いた。彼女のため息が、呆れや諦めではなく、そっとそっと、ひどく優しく吐き出されているような気がするのだ。そろそろと視線を上げる。

「……もう、だからって、わたしがいなかったらどうするつもりだったの」

 ――あ、この顔、すごく好きなやつだ。
 一瞬だけ、罪悪感を忘れて見惚れてしまう。呆れたような口調と、下がった眉。俺に文句や不満があるのに怒りきれない、優しくて、ちょっと寂しい顔。自分はこの、色んなものを飲み込んで受け入れて、俺を甘やかす彼女の顔が、とても好きだ。今までとは違う意味で心臓がぎゅうっと収縮して、息苦しくなるのがわかる。

「あ……す、すまん」

 ともあれ、彼女の言うことはもっともだ。何一つ連絡をせずに家に押しかけるなんて、一方的すぎる。彼女が家にいてくれたからよかったものの、そうじゃなかったら俺はどうするつもりだったのだろう。彼女が帰ってくるまで待つことなんて、俺にとっては大したことではないけれど、近所の目を気にする気持ちはわかる。こんな陰気な男が待ちぼうけをしていたら、変な噂を立てられかねない。
 一つのことに囚われると、途端に他のことを見失う。誕生日を忘れるなんて最低なことをしておきながら、俺はどこまでも自分のことばかりだ。どれもこれも、彼女のために行動していることなんてひとつもない。彼女を失いたくない自分のために、俺はいつだって必死だ。

「すごいね、それ」
「えっ」

 思考をどんどんと沈ませていく俺を、彼女の声が引き上げる。彼女が「それ」と言って見つめているのは、ずっと抱えたままの花束だ。

「っあ、ああ、これ、おまえに……」

 そう言いながら花束を差し出すが、彼女は受け取ろうとはせず、花束を差し出す俺のことをじっと見つめる。腕を下ろすことも、無理やり渡してしまうこともできず、そのままの姿勢で固まらざるを得ない。
 やっぱり、怒っているのだろうか。受け取ってもらえなかったらどうしたらいいのだろう。さあっと血の気が引いて、目の前が再び回り出したところで、彼女が自分の口元を手で覆う。

「似合わないなあ」

 隠されたてのひらの向こうから、ふふ、とくすぐったそうな声が聞こえた。眉を下げて、おかしそうに目を細めている。俺は、呼吸をのんでその衝撃に耐えた。「そ、そうだよな」と答えた自分の声はほとんど聞こえない。
 どうして、こんな俺に向かってそんな優しい顔で笑ってくれるのだろう。「似合わない」と言われた言葉が、自分を否定するニュアンスではないことは、彼女の吐息のやわらかさで不思議と理解できていた。てのひらで隠れた唇がゆるやかに綻んでいることも、その頬がまさに今俺が持っている花のうちのひとつと同じ色に染まっていることも。それを理解して、じわじわと、腹の底からこみ上げてくる。腹から、胸から、喉までをいっぱいにするような、圧倒的な気持ち。
 俺は、仕事にかまけて、恋人の誕生日を忘れて、おめでとうの一言すらかけず、慌てて連絡もなしに押しかけてくるような男だ。そんな不甲斐ない男に、こうして笑いかけてくれる。泣きそうだ。自分が情けなくて泣けるのか、彼女の懐の深さに泣けるのか、もうよくわからなかった。

「本当に、すまない。俺、ほんとうに、」

 声が震えている。情けないうえにダサい。身体中をひたひたに満たしている気持ちは、自分が思った以上に全身を侵食していて、きっと酷い顔をしているだろう。でも、そんな俺を見ても彼女は笑っていてくれる。それなら俺は、情けなくたってダサくたっていい。
 震える謝罪を笑って受け止めてくれる姿を見て、もう、堪えられなくなりそうだ。

「うん。ちょっとショックだったけど、いいよ」
「……許してくれるのか」
「うん、嬉しいから、許してあげる」

 じわり、とその声が鼓膜を通して身体中へ染み渡っていく。「許される」というのは、こういうことなのだろう。冷たく固まっていた身体が体温を取り戻して、浅い呼吸が、ゆっくりとした深いものに変わる。
 彼女は、そうやって簡単に、俺のなにもかもを操っていく。そっと差し伸ばされた手が、花束を持ったままの俺の手に触れて、そのあたたかさだけで、せっかく整った呼吸をまた止めてしまうのだ。

「ありがとう、独歩」

 ――俺を見て、名前を呼んで。
 やわらかい視線が、自分を捉えてくれること。少し甘い声が、自分の名前を象ってくれること。そのすべてが自分に向けられているだなんて夢みたいで、それと同じだけの気持ちで、好きだ、と思う。
 誕生日おめでとう、と呟いた声は、震えて震えて、仕方ない。

花を吐く人

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