同じ船に乗っていても――否、乗っているから、と言うべきか。セックスをする頻度は高くない。海賊の船とはいえ共同生活なのだから、風紀というものはある(犯罪者の集まりなのにおかしな話だ)し、気遣われたいわけでもない。
だから、船の中で肌を合わせる機会はごくわずかで、決まってみんなが寝静まった頃、どちらかが不寝番の夜になる。
展望室のベンチに横たわって、目を閉じた。全身をまんべんなく気怠さが満たして、この硬いベンチでもずっと深くまで沈んでしまえそうだった。何も身につけない姿のまま、そうして横になるなまえの上にそっとサックスブルーのワイシャツが降る。重たい瞼を開けると、視界を覆っていた乱れ髪を耳にかけながら整えてくれる指先があった。その指の持ち主は、そのままなまえの頭を二・三度撫でてから、「ちょっと待ってて」と静かに呟いた。そして彼女に覆い被さるように、額にチュッとかわいい音を立てた口付けをしてベンチから腰を上げる。さっと下着を身につけ、少し離れた場所にあるチェストの方へ向かった。
硬くて狭いベンチで行うセックスには、だいぶ慣れた。お互い経験豊富とはとても言えなかったけれど、恵まれない環境でもこうしてこれといった不満がないのは、彼がこれでもかとこちらを気にかけてくれていることが大きい。
その中でひとつ不満を挙げるとすれば、二人並んで、抱き合って眠ることができないことくらいだ。でも、そんな贅沢は望まない。こうして触れ合っていられるなら。
「水、飲めるかい」
そう声をかけながら、サンジは水の入ったグラスを差し出した。準備のいい彼は、なまえが不寝番として展望室に籠っているところに、差し入れの紅茶だけでなく、たっぷり満たされた水差しと氷の入ったグラスを用意してきていた。その用途はもちろん、行為のあとで渇いた喉を潤すため。
お礼を言いながら身体を起こしてグラスを受け取ると、サンジはその隣に座り、身体を起こした拍子に滑り落ちたワイシャツをふたたびなまえの肩へ掛ける。今の彼は煙草を吸っていないのに、肩のシャツからはサンジの煙草の匂いがした。
受け取ったグラスに入っていたはずの氷はすでに溶け、跡形もない。水はぬるく、それでも渇いた喉には染み渡っていく。なまえが半分ほど飲んだあと、グラスを受け取ったサンジは残りの水を飲み干し、水差しの乗ったトレイにグラスを戻した。そしてその手は、もともとあった場所へ戻るような当然の動作で、なまえの頬へ添えられる。
「あ、すまねェ。濡れちまった」
言葉のとおり、サンジの手は濡れていた。グラスが結露して、水滴が浮いていたからだ。同じように、先ほどまでグラスを持っていたなまえの手も水に濡れてしまっている。
「待って」
サンジが自分の頬から手を退かそうとしてしまうのを、なまえは声と手で制した。頬に触れている彼の手首を掴んで、そのままでいさせる。サンジはなまえの頬を濡らしていたけれど、なまえも、サンジの腕を濡らしていた。
「……気持ちいい」
氷は溶け、水は冷気を失くしても、熱を残した身体には十分な冷たさを持っている。ひやりとした温度を感じるサンジの手のひらを味わうようにして、なまえはうっとりと息を吐いた。
サンジは、なまえのそんな表情をどこか複雑そうな顔で見つめる。一瞬だけぎくりと身体が固まって、でもすぐに息を吐いてやり過ごした。声も、息も、熱も、どこかに甘さを探してしまって困る。一度肌を重ねたあとだから余計に。
なまえの伏せられた瞼が、月光に白く彩られて、吸い寄せられるようにそこに口付けをした。
「……そういうの、最中に言ってくれたらうれしいんだけどな」
「い、言えないよそんなの。恥ずかしい」
「そう? かわいいよ、きっと」
先ほどまで裸で抱き合って、今でもお互いにほとんど裸のような格好でいるのに、そんないじらしい言葉をこぼすなまえのことだってとびきり「かわいい」けれど、サンジはそう言わない。頬から手を離し、サンジはベンチに片足を上げてなまえの身体とベンチの背の隙間に滑り込ませた。横に並んで座っているだけでは、物足りない。滑り込ませた足を曲げて彼女の身体を囲い、背もたれに沿うように腕を回して、自分のワイシャツごとなまえの肩をゆるく引き寄せる。じんわりと伝わってくる体温に、肺が満たされていくのが分かった。
「……眠い?」
「ううん、大丈夫」
低く緩やかで、甘やかすような声色がすぐそばから響いてくる。なまえは、今すぐにでも眠れてしまえそうだと思ったけれど、眠りたくなくて、首を振った。ソファの上で向かい合うふたりの間にある隙間を埋めるように、背中を丸めてサンジの胸へ頬を寄せる。肌にまで染み付いた煙草と、先ほどまで感じていた熱の残り香がした。
円形の展望室を一周するように取り付けられている窓からは、真夜中の空と海が一望できる。明かりを付けていない室内よりも、月と星の光のせいで、外界の方がずっと明るかった。
なまえは、込み上げる息を飲み込む。先ほど、もう一口多く水を飲んでいたら、涙が出ていたかもしれない、と思った。
「……サンジくん、見て」
「なあに」
なまえが指を指さなくても、サンジは彼女の視線を追って、窓の外へ目を向ける。自分の首と肩の隙間にすっぽりと頭を寄せるなまえの肩をより引き寄せて、サンジはなまえの頭のてっぺんに頬を傾けながら彼女の声の先を見た。その先にあるのは、空と海の境目が曖昧になった、どこまでも続いていく世界だ。
「信じられる? こんなに星が光って、こんなに海は広いんだよ」
その声を聞いて、まるで歌っているみたいだな、とサンジは思った。
旋律をひとつひとつ丁寧になぞるように、慎重に声を乗せて、それでも途切れずに流れていく。
「毎日、当たり前みたいに見てるのに、信じられないって思う」
――サンジくんとこうしているときは、特に。
その言葉に、サンジは心臓が切なく痛むのを感じた。なまえの目に、世界が美しく見えるのも、それを信じられないと思うのも、そのことをまるで歌うようにして声を編めるのも、すべて、自分と同じ理由だと知っているからだ。
「……わかるよ」
考えるでもなくこぼれ落ちた返事は、低く、静かで、途方もなく暖かい色をしている。サンジの視線の先で瞬いている星が海に映って、元からそこで輝いていたように光っていた。
包むように抱いているなまえの肩に触れた手に、ひとりでに力がこもっていく。声が震えそうだ。
「おれも、きみと過ごした夜のあと、夜明けが来て、風が吹くのを夢みたいだと思うときがある」
景色のずっと先を見つめても、空と海の境目を見つけることはできなくて、けれどそれを不安に思わなくなったのは、自分の腕の中にいる温度をずっと抱えていくと決めたときからだ。そう思える自分を受け入れたから、優しく息を吐く彼女が次に呟く言葉だって分かる。
「夢じゃないよ」
そうだ。夢ではない。
夢ではない現実だから、この世界はただ美しいだけではないことを知っているし、夢じゃなくたって、こんなにも世界を美しいと思えることも知っている。
耳元で聞こえるなまえの声を追うように、背中を丸めた。肩を抱いているのとは反対の手を、羽織らせたワイシャツの下に潜らせて滑らかな背中を辿り、指の先に、肌の下にある背骨の隆起を確かめる。目の前に晒された首筋から肩に流れる髪を、唇でなぞって、今すぐそこに歯を立ててしまいたかった。
「あァ。夢にしちゃあ、ちょっと刺激的だ」
肌を介して分かち合う熱も、触れた先から伝わる柔らかさも、夢の中にしまっておくには惜しい。唇と指と、この身体のすべてで味わなければ、耐えられない。
なまえの肩にかけたワイシャツを下敷きに、小さく脆く、それでも確かにここに存在する身体を横たえさせる。それを上から見下ろすサンジの目は、夢みたいに美しい世界でも、その先にある明日でもない、次の瞬間にはもう溶けてしまうことを知っている女の姿だけを見つめていた。
「……もう一回。次は、もっとおれの名前を呼んで、気持ちいいって言ってくれ」
――そしたらきっと、信じられる。
世界も、明日も、それよりずっと恋しいものが、ここにいることも。