立ち寄った島は、ログが溜まるまで四日を要する島だった。活気のある街は、羽を伸ばし物資を補給するのに最適で、表の港を避けて島の裏手にある海岸沿いに船を停め、クルーたちは各々その島を満喫することにした。
 一日目の夕方、市場や商店の下見を終えて船に戻ると、この船の美しい航海士と考古学者が、楽しげな様子で話し込んでいるのを見かけた。いつもなら、この船に乗っているもうひとりの女を含めた三人で話していることが多いのに、その場にもうひとりの姿はない。

「楽しそうだね」

 彼女たちのために用意した飲み物をサーブしながら声をかけると、こちらを振り向いたナミさんは一層面白そうに笑みを深めて、「サンジくんも聞く?」と悪戯っぽく歯を見せた。かわいい。
 しかし、ふたりの美女の様子に夢中になったのはそのときだけで、彼女たちの会話が進んでいくにつれ、自分の心臓がおかしな脈拍を刻んで、背中に冷や汗が伝っていくのがわかる。鼓動が高鳴ることはままあることだが、これはよくない。よくないやつだ。
 ナミさんの小悪魔かと見紛う笑顔から紡がれる言葉は、おれに最後通告にも似た衝撃をもたらす。

「なまえが男と歩いてるのを見たのよ。ナンパされたんだろうけど、満更でもなさそうだったのよね」

 島に上陸する際、ふたりが一緒にショッピングに行こうと彼女を誘ったところ、いつも使っている腕時計が故障したため修理に行きたいとかで、今日のところは断られてしまったらしい。しかしそのショッピングの途中、ふたりは街で見知らぬ島民の男と連れ立って歩いている彼女を見かけたのだそうだ。
 彼女がこの島に縁があるなんて話は聞いたことがないし、こういう話題における女の読みは当たるものだ。おそらくその男が不躾にも初対面の彼女を誘ったのだろう。そうしたくなる気持ちは身に染みるように分かるが、「満更でもなさそう」というナミさんの言葉に居ても立っても居られなくなる。
 許しちゃおけねェ。まだ見ぬ不埒な輩への苛立ちに燃え、島へ戻るために踵を返すと、ちょうど話題の彼女が梯子を登ってきたところだった。表情はいつもと変わらない。一見すると横顔は少し冷たくて、目が合うと緩やかに温度を取り戻す。

「ただいま。なに? 楽しそう」

 三人で話している様子が盛り上がって見えたのだろう。先程の自分と同じセリフで近寄ってきた彼女に、おれは曖昧な顔をして「おかえり」と言うことしかできなかった。一度燃え上がった怒りが鎮火したわけではなかったが、こうして無事に彼女が戻ってきたのなら、それ以上に重要なことはない。
 しかし、それで気が済むはずがないのが我らが航海士で、色めいた話題などとんとご無沙汰な生活の中で久しぶりに面白いものを見つけた、と言わんばかりの顔で彼女へ詰め寄っていた。ロビンちゃんもそれを止めることなく、穏やかな微笑みをたたえている。彼女はそんなふたりの言葉と視線に、息を漏らすようにして笑って応えた。

「ナンパとかじゃないよ。ただ声かけられて、街を案内してもらっただけ」
「そういうのをナンパって言うのよ」

 彼女の鼻先に指を突き立てたナミさんの言葉に、おれは心の中で首が取れそうになるまで頷く。なんでも、目的だった腕時計の修理のために時計屋までの案内をしてもらい、修理が終わるまで一緒に街を見て回ったのだそうだ。聞けば聞くほど妬ましく、奥歯をぎりぎりと噛み締める。
 そんなおれや囃し立てるナミさんを「ナミとロビンじゃないんだから、早々口説かれたりしないよ」と躱して、彼女は何事もなかったように、話題をふたりのショッピング戦績報告へ移らせた。本当に何でもなさそうな顔をしているから、わざわざ食い下がるような真似もできなくて、おれは仕方なくキッチンへと引っ込んだのだった。
 ――しかし、このとき彼女を放っておいたことを、おれは後悔することになる。
 彼女は、次の日もその次の日も、ひとりで街へ出て行った。島に停泊している際の食事は各個人でまちまちで、ある程度まとまって食事に行ったりいつもと同じようにおれが腕を振るったりしているが、二日目は昼食、三日目は夕食の場に彼女は顔を見せなかったのだ。しかも、あらかじめ決まっている予定があるみたいに、食事はいらないと宣言されるおまけ付き。何でもないような顔をして毎日きちんと船には戻ってきていたから、気づかないふりをしていたが、背中に何かが這い上がってくるような、嫌な予感がする。
 その嫌な予感は最悪の形で的中して、島へ滞在する最終日の朝食後にまたしても彼女がひとりで船を降りていく姿を見届けたあと、そういえば、とウソップが言ったのだ。昨日、彼女が男と一緒にオープンテラスにいる姿を見かけた、と。そしてチョッパーも、一昨日彼女を街で見かけたらしい。もちろん、男と一緒だ。
 おれが言うのもどうかと思うが、彼女は行く先々で男を引っ掛けるような女性じゃない。実際、こんなことは今まで一緒に旅をしていて初めての出来事だ。話を聞くに、彼女の連れていた男の特徴は一致していて、この三日間彼女と一緒にいた男が同一人物であることはほぼ間違いないだろう。
 考えを深めていくうち、首をもたげ始めるひとつの疑惑を見透かしたように、ロビンちゃんの発した言葉はひどく鋭利な形でおれのどこかしらを切りつけた。

「もしかしたら本当に、『ナンパ』じゃないのかもしれないわね」

 ナンパとか、後腐れのない関係とか、そういう軽々しいものではない、何か。
 一日目の夕方、彼女の様子を知らされたときからずっと、おれの心臓は嫌な音を立てて逸っている。身体から立ち上るように燃え盛る炎ではなく、低く、静かに、そして確実に、身体の中を燻らせていく火が消えようとしなかった。
 ――じっとしていると途方もないところまで考え込んでしまいそうだったから、少しでも鮮度を保つために最終日まで控えていた食料調達に一日を費やす。しかし、一日目に下見をした市場で調達を済ませたまではよかったが、それらを船の倉庫へ片付けたあとになって、煙草の買い忘れに気がついた。最初はチョッパーから口うるさく減煙するよう言われていたが、もう今では諦められてしまうほどに喫煙量が多いのだ。買えるときに買っておかなければ困るのは自分なので、仕方なくふたたび街へ出て、買えるだけの煙草を購入し船へ戻る途中で、彼女を見かけたのだ。

「……また、会えることを祈ってるよ」

 そう呟いたのは、彼女のそばに佇むひとりの男だった。その姿を見て、直感的に「こいつか」と理解する。特筆する部分の少ない、彼女より随分背が高く、優しい声色の男だった。
 船を止めた海岸沿いはまだ先だが、彼女は男の言葉には返事をせず、ただわずかに笑った気配がして、背を向ける。ふたりはそこで別れたようだった。明日の早朝に船は出発する予定だから、きっとこれが、ふたりが顔を合わせる最後の機会だっただろう。おれは足を止め、その光景をじっと眺めたままでいる。彼女はおれに気づかない。入り込む余地どころか、もう終わった別れに口を挟むなんて無粋にも程がある。
 噛んだままの煙草を深く吸って、立ち尽くす男に殺意に近しい視線を隠すことなく向けても、その男はおれの存在になんて気づきもせずただ一心に彼女の後ろ姿を見つめていた。どうかこちらを振り向いてくれ、と祈るような眼差し。おれは、日頃から彼女に向けられる視線に対して過敏であるという自負があるけれど、男のそれは、誰が見てもその正体に気づくだろうと思わせる熱を持っていた。忌々しい熱だ。腹の底が焼けそうになる。
 一度だけ舌打ちをして、男の視界に入り込まないよう注意しながら彼女のあとを追った。自分が何を言うつもりなのか自分でも分からなかったけれど、あとを追って、声をかけずにはいられなかった。

「なまえちゃん」

 身体の中がどこもかしこも燃え燻っているのに、案外静かな声が出てきて自分でも驚いた。声に反応して振り返る彼女は、いつもどおり一見すると横顔は少し冷たくて、目が合うと緩やかに温度を取り戻す。その表情を、先程あの男にも見せていたのだろうか。

「サンジ。おかえり」
「あァ、なまえちゃんも」

 頷いて煙草を吸い込むと、いつの間にか短くなっていた煙草の火が指を焼きそうになっていることに気づく。吸い殻を携帯用の灰皿に押し付け、すぐに新しい煙草を噛んだ。その先端に火を付けて、彼女がいる方とは反対側に向かって煙を吐き、風に流れていくその残骸を見送る。

「……あの男、大丈夫だったのか」
「あれ、見てたの?」
「いや、ちょうど別れたところを見ただけだよ」
「そっか」

 横を歩く彼女の表情に、特別な色は見当たらない。何でもないような顔をして、昨日までと何も変わらなかった。けれど、この数日間おれがその表情を見つめるだけで何も言えずにいたからこそ、先程のような光景を見ることになってしまったのだとおかしな責任感が湧き上がる。彼女が何を思っているのか、あの男とは何があったのか、分かることはひとつもないのに、自分がそばにいればこんなことにはならなかっただなんて、思い上がりにも程がある。

「……あいつ? 毎日会ってた奴」
「あー、うん。ごめんね、みんなに気を遣わせたかな」
「いや、きみが無事ならそれでいいさ」

 平然と話を聞いているポーズをとろうと試みても、普段よりずっと速いスピードで煙草が短くなっていく。彼女が無事ならいいと嘯いたその言葉は嘘ではなかったが、心の底からの本心でもない。本当は、彼女があの男とどんな言葉を交わして、どんな時間を過ごして、それで彼女の心がどう動いたのかを確かめなければ、この嫌なざわめきは収まらないだろう。けれど、そんなふうに彼女の何もかもを暴く勇気が今のおれにはない。臆病を薄っぺらい紳士の皮で包んで、一口に飲み込んでしまうしか。
 煙と一緒に細く長く息を吐いて、彼女には気づかれないように深呼吸をした。しかし、そうやって殊勝な紳士のふりで取り繕うおれのことなど、女神ってやつはすまし顔で見捨ててしまったのだろう。彼女が発した言葉は、おれの薄っぺらい紳士の皮を、まるでノートを破くみたいにたやすく切り裂いてみせるのだ。

「プロポーズされたの。断ったけどね」
「っ、はァ!?」

 想像だにしない言葉に、思わず声のボリュームが跳ね上がった。彼女はおれの反応に一瞬目を丸くしたけれど、正直それどころではない。煙草を咥えていないタイミングでよかった――と思うのも束の間、あんぐりと開いた口から煙草を落とさなかった代わりに、摘んでいる部分からそれは真っ二つにへし折れてしまっていた。

「……プ、プロポーズ? なまえちゃんに?」
「そう。物好きだよね」

 事の重大さをひとつも理解していない顔をしている彼女を、信じられない気持ちで見つめる。今ようやく分かった。この子は、たちが悪いのだ。自分のことを理解していない。だから、初めて会った男と数日間一緒にいることを指摘されても表情ひとつ変えないし、世間話みたいなトーンでこともなげに「プロポーズされた」なんて言ってしまう。一日目にナミさんとロビンちゃんと話していたときもそうだ。自分は彼女たちのように早々口説かれたりしない、なんて言って、それよりもよっぽどおかしな目に遭っている。
 女性の美しさを、顔のつくりやプロポーションが決めるだなんておれは死んでも言わないが、彼女はこの世の誰しもが振り向いてしまうような美貌を持っているわけではない。けれどだからといって、どんな悪い虫もついてこないわけでもないのだ。一目惚れされた男に数日で求婚されるだなんて、おれにとっては軽薄な男の目に留まるよりずっと胸糞が悪い。
 彼女は立派な大人の女性なのだから、自分にそんなことを言う筋合いはないのだと、がんじがらめにして言い聞かせてこなかったことを後悔した。――きみは魅力的だ。すごく。きみの虜になっちまう男はきっといくらでもいる。今のおれみたいに。
 そんなことを、あの男も感じていたのかと思うだけで、怒りで身体が震えそうだ。後を立たない後悔と、自分への苛立ちと、あの男と自分が同じ穴の狢である事実への腹立たしさに、燻る体内がまた熱を上げる。ありとあらゆる場所を焼いて、必死で閉ざしていた口の蓋までも焦がしていくのがわかった。

「見る目は確かなようだが、会って数日の女にプロポーズなんて正気じゃねェよ」
「それだけ本気でいてくれたんだよ」

 新しい煙草を咥えて、すでに火は付いているのに、手の影でホイールを何度も何度も擦る。無駄な火花が、いくつも散っていった。彼女の穏やかな声色に煽られ、腹の底が静かに沸点に近づいて、ふつふつと泡が立ち昇ってくるような錯覚をする。
 もう終わったことだと知っているのに、聞かなければいいのに、それを他ならない自分自身が許さない。

「そもそもきみが海賊だって知ってるのか? 知ったらきっと態度を変えるに違いねェ」
「海賊なのは早めに教えたの。それでもよかったんだって」

 ――優しくて誠実な人だったよ。もったいないよね。
 いつもなら、おれはどう返事をするだろうか。「なんて慈悲深いんだ」とか、「優しいのはきみの方だよ」とか、「きみこそ、あんな野郎にはもったいねェ」とか、そんなところだろうか。でも、そんな言葉が出てくる気が全くしない。おかしい。聞かされているのが彼女の口から紡がれる言葉なら、自分には覚えようのないはずの感情が膨れ上がる。怒り、みたいな。苛立ちみたいな。
 恋した女からもう背を向けられた男に、死体蹴りのような真似をする自分にはとっくの昔に失望した。他ならない彼女の、あの男を庇う言葉が、みるみるうちに自分をおかしくしていく。
 煙と一緒に吐き出した息は、ライターの火よりも熱く湿っていた。

「……耳障りのいいことばっかり言われるもんだから、勘違いしたんじゃねェのか」

 不自然なくらい、辺りが静かだ。周りの景色も、音も、彼女と自分のほかには何も見えなくなって、聞こえなくなって、自分の口から溢れた言葉がやけに響いて聞こえる。
 彼女が、自分に想いを寄せた人間を無碍に扱う人間ではないことなど分かっていた。応えられないと言った彼女が、それでもいいから一緒にいてくれと追い縋る男に情けをかけたのだろうことも想像がつく。でも、それ以上に想像ができてしまうのだ。自分を喜ばせるために選んでくれたのだろうか、と思わせる言葉とか、冷たい横顔が嘘みたいに声を上げて笑ってくれる瞬間を、もしかしたら自分にだけ見せてくれたんじゃないかと期待させる姿とか、触ったらもう離せないだろうと予感させる、ぬるい温度の瞳と声色とか。――だって、自分がそうだから。
 全部彼女の知らないところで生まれて育った独占欲が、見るも無惨な形になっていく。どんなときだって女に恋する男のセリフを吐ける自分の口には、とてもじゃないが似つかわしくない言葉が、彼女だけに向かって込みあげてしまうのだ。

「思わせぶりで、無防備で、その男に同情するよ」

 もし、自分が二人存在したのなら、おれは今の言葉を口にした自分をどこか遠くへ蹴り飛ばしていただろう。取り返しのつかないことをしでかしてしまったときのように、妙に頭が冴えて、冷たい汗が背中を伝っていった。
 謝罪か、言い訳か、何かを言わなければいけないと思うのに、息が詰まって言葉にはならない。ただ、何を言おうと、真摯に想いを伝えたその男と、臆病風に吹かれたうえに嫉妬でひずんだ言葉しか吐けない自分じゃ勝敗は明らかだ。
 俯いた視界の端に、彼女の履いたサンダルの爪先が入り込む。小さくて西日に赤く染まる脚に、白いサンダルがぴったりだと場違いなことを思った。

「……船を降りたほうがよかった?」
「違う、おれは……っ」

 思いがけない言葉に、俯いていた顔を上げる。おれのひずんだ言葉は、気に入った男がいたならこのまま一緒にいたらどうだ、という意味に聞こえていたのだろうか。口にした瞬間から後悔して、今もそれが収まることはない。
 西日を背中に受ける彼女の表情は寂しげに微笑んでいて、心臓が鷲掴みにされているみたいに痛んだ。痛むのは、そんな顔をさせてしまった自分の愚かさと、伝えたいことが伝わらない悔しさだ。「違う」と自分は言ったけれど、何が違うのか、回らない頭で考える。おれは本当は何を言いたかったのか。

「……どうして、断ったの」

 本当は、「少しでもあの男を好きだったの」と聞きたかった。ここまで来ても、自分の心をそのまま伝えることのできない臆病さには辟易する。けれど、そんな自己嫌悪など些末なものだと思わされる。おれの目をまっすぐに見つめた彼女の紡ぐ言葉が、すべてを攫ってしまうからだ。

「夢があるから」

 もしかしたら、恋をしたのかもしれない男より、旅を続けることを選ぶ理由。
 西日に背を向けているのに、彼女の瞳が赤く燃えているように見えた。さっきまで自分の身体の中を燻らせていた熱よりずっと、熱くて焦がれる。自分の口に出してたとえるのもおこがましいほどに、「女神」のようだった。

「みんなが夢を叶える姿を、近くで見ていたいから」

 彼女が口にするその理由の中に、ほんのわずかだとしても確かに自分が存在していると、分かる言葉だ。眩しくてたまらなくて、何もかもに、許されたような気になってしまう。
 おれはようやく、深くて長い呼吸をした。

「……おれだって、許さねェよ。おれたちより、あんな男を選ぶなんざ」

 自分は「許された」のに、彼女のことは「許さない」なんて、馬鹿な話だ。でも、彼女はきっとそれも許してくれるだろう。それを示すように、おれの呟いた言葉に彼女は息を吐くようにして笑って応える。瞬きをして、ふたたびおれを見つめる瞳は、もうあの赤い炎を宿しておらず、女神からただの女に戻ったのだと思わせた。
 口角を吊り上げて、悪戯に笑って見せる姿は、先ほどまでとまるで違う人物のように見えて、目を離していられない。

「……サンジには、わたしが耳障りのいいことばっかり言う、思わせぶりで無防備な女に見えてる?」

 覗き込むようにして目線を合わせる彼女の言葉に思わず一瞬息を止める。紛れもなく、自分が彼女に向かって吐いた不躾な言葉で、瞬く間におれはそれまでの後悔を思い出した。
 どこか楽しげな顔をしている彼女が、おれを責めるためにその言葉に言及しているわけではないことは分かっていたが、それとこれとは別の話だ。自分の頭から血が引いていくような感覚に奥歯を噛んで耐えながら、大人しく項垂れる。

「そんな、わけ……とんでもねェ……」
「嘘だよ、ごめん。意地悪した」
「いや、おれが悪い。情けねェな」

 座りが悪く、自分の髪を掻きむしるおれとは正反対に、彼女はどこかご機嫌そうに息を漏らした。あまり見せることのない蠱惑的な表情に、抗えず呼吸を浅くしてしまう自分と、自分の言った言葉の手前下手に動けない自分とで、頭の中がめちゃくちゃに散らかっている。
 そんなおれの頭の中など知ったことではない彼女は、笑みを絶やすことなくおれの目を覗いた。おれの目の、奥の、奥の、心の底を揺さぶろうとしているぬるい温度。抗う術は、おれにはない。

「でももし、サンジにそう見えてるなら、それでいいんだ」
「いや、なまえちゃんおれは」

 慌てるおれの声を遮るように、数歩先を行く彼女の小さな手がおれの渇いた手を掴んだ。先へ行こうと促すみたいに背を向けながら手を引いて、そして顔だけ振り返る。

「それ、やめないから。ちゃんと考えてね」

 おれの醜い独占欲も、臆病も、思い上がりも、全部これのせいだ。その目が捉えているのが自分なのだろうかと思うたび、目眩がしそうになる。たとえ何本煙草を吸っても、晴れることがない。
 どうしておれを呼ぶとき、淡く火が灯るような思わせぶりな目をして、平気な顔で手に触れる無防備な姿で、どうしてそんなふうに耳障りのいい言葉を並べるのか。答えは目の前にいる彼女しか知りはしないはずなのに、おれがこの手を握り返せば、すぐにでもそれはもたらされる気がした。

致死量の柔い熱

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