だから嫌だったんだ。こんな夜遅くまでのシフトなんて。そんな恨み言を吐き散らかしたいのに、声は出てこないし、足腰は立たない。目の前で繰り広げられるフィクションみたいな出来事から、視線を逸らして耳を塞いで、震えていることしかできなかった。

 学校が終わってからのコンビニバイトは、十九時頃までのシフトに入ることがほとんどだった。けれどたまに、急に人が足りなくなったとか、シフトがうまく組めなかったとかいう理由で、深夜シフトの人が入るまでシフトに入らされることがある。そういうときは、何か具体的な理由があるわけでもなく、昼間より音も客も少ない店内とか、明かりの少ない帰り道とか、そういうところで感じる漠然とした不安に、わたしはいつもどこか緊張していた。そして今日、二十二時までのシフトをようやく終えて、学校の制服に着替えてコンビニの裏から出てきたわたしに、いかにも「不良です」といった風態の男ふたりが声をかけてきたところで、今まで感じていた漠然とした不安はこれだったのかと、恐怖で声が出せない喉の奥で店長への恨み言を思い切り叫んだのだった。
 どうやったらその髪型になっているのか見当もつかないようなパンチパーマと、そんな制服どこで売っているのか教えてほしいくらいのおかしな形のスラックス。その不良ふたりに「名前は?」だとか「どこの高校?」だとか詰め寄られ、ただのナンパとはいえ、間違った対応をしたら何をされるかわからない恐怖で、聞かれたことに対する答えも、抵抗する言葉も、何も出てこない。黙り込んでしまうわたしに痺れを切らしたのか、不良ふたりはそれまでの猫撫で声をやめて、腹の奥から吐き出したような低く響く声で返事を促した。そんなふうに脅されても、怖くて逆に何も言えなくなるのに、と言えもしない文句で頭の中がいっぱいになる。
 自分の腕が、不良のうちのひとりに乱暴に引き寄せられて、肩に鋭い痛みが走ったとき、まるでそれが合図だったみたいに、暗い路地に声が響いたのだ。

「女脅すとかダセーことすんなよ」

 その言葉のあと、今までに聞いたことのない、何かがぶつかるような音と呻くような声がした。自分のすぐそばで聞こえたその音に、おもわずぎゅっと目を閉じる。さっきまでわたしの腕を掴んでいた手が離れたのがわかったので、身体を硬くしたままそっと目を開けた。薄く開いた視界の中を恐る恐る見回すと、わたしに絡んできた不良たちがふたり揃ってアスファルトの地面の上に転がっているのが見えて、おもわずわたしはその場にへたりこんでしまったのだった。力が抜けて、立ち上がれそうにない。

「おいあんた、大丈夫か」

 低い声が、明確にわたしを呼んで、力の抜けた身体が再びびくりと強ばる。そしてそのまま、声のしたほうを伺うように見上げると、今しがたわたしに声をかけたその人と、その奥で地面に転がる不良たちを足蹴にしている様子のもうひとりが、こちらを見ていた。そのふたりの姿を見て、助けられたことに安堵するよりも早く、わたしの心臓はまたあっという間に縮こまってしまう。だって、この人たち怖すぎる。
 二人組のうちのひとりは、見上げると首を痛めてしまうほどに背が高くて、一目見て鍛えていることがわかる体つきをしていた。そのうえ、髪の毛は下半分がすべて剃られていて、もう半分のほうの髪は長く伸ばして尻尾みたいに垂れ下がっている。辮髪というやつだ。怖すぎる。しかも、剃られた頭部の皮膚のうえには、何かのマークが記されていて、たぶん、シールなんかじゃない本物の入れ墨だ。ヤクザものの映画なんかで背中や腕に入っているのを見たことがあるけれど、あんなところに入っているのを見たのは初めてだった。たしか入れ墨というと、皮膚に直接染料の入った針を突き刺して入れるものだったはずで、そんなものを、頭の、あんな部分に彫るなんて。どう考えても怖すぎる。
 そしてもうひとりは、小柄でどこか幼い顔立ちをしていて、入れ墨の人と並んでいると余計にその小柄さが際立つように見えた。けれど、不良ふたりを殴り飛ばしたのは、入れ墨の人ではなくその小柄な男の子だったはずだ。不良ふたりが倒れる前に聞こえた声は、今声をかけてきた入れ墨の人の低い声とは違っていた。暗がりにわずかに見える彼の目は、底が見えないくらいに深くて、人を殴ったというのにけろっとした顔をしている。怖すぎる。
 助けてもらったのはいいけれど、助けてくれた二人組のほうがずっとやばい人たちなんじゃないか。びくびくしているわたしの様子などお構いなしに、背の高い入れ墨の人が、こちらに近寄ってくる。何をされたわけでもないのに、身体が一層硬くなるのがわかった。

「おい、聞こえてンのか」
「っあ、はい、あの」

 地面が震え上がりそうな低い声に呼びかけられて、今にも気を失いそうだ。返事をしなければ殺される!と絞り出した声はみっともなくひっくり返って、意味をなさない音だけを繰り返すしかできなかった。
 どうしよう、でも、助けてもらったことには違いないんだし、でも怖すぎるし、どうしよう。頭の中を、「すみません」と「ありがとうございました」が飛び交っている。こちらを見下ろす入れ墨男の圧が強すぎて震えそうだ。

「……あ、あり、」

 それでもなんとか、お礼を言おうと声を絞り出したところで、入れ墨の人の奥にいる、小柄な男の子と目が合った。真っ黒な瞳がじっとこちらを見つめて、まるで品定めをされているみたいに感じる。何を考えているのかわからない眼差しがゆっくりと細くなって、唇がニンマリと弧を描いたところで、自分の喉の奥が、空気を飲み込む乾いた音を立てた。

「っ、すみませんでした!」

 よーい・どん、の合図みたいに、自分の身体が弾かれて、駆け出した。それまで地面にへたりこんでいたから、その様子はさながらクラウチングスタートのようだっただろう。
 怖い、怖すぎる。わたしの出会ったその男の子――人を殴って、楽しげに笑うその人は、自分の平凡で平坦な人生にこれっぽちも関わりのなかったはずの、高潔な「不良」だったのだ。



 あの日のことは、次のシフトのタイミングで店長に報告した。けれど、両親には話さなかった。結果として、わたしは不良に絡まれただけで、襲われたとか怪我をしたとかいうわけではなかったのだが、そんなことがあったと両親に知られたら、バイトを辞めさせられてしまうかもしれないと思ったからだ。それはわたし自身も困るので、両親には黙っている代わりに、店長には散々に文句を言うことにした。店長は、さすがにアルバイトの学生が何かの被害に遭うのはまずいと思ったのか、もっと人を雇うことと、できる限り夜遅くまでかかるシフトには女の子は入れないように考慮すると約束してくれた。これで少しは漠然とした不安から解放されるのかと思うと、あの日のこともまあいいかと思える。これが怪我の功名というやつなのかもしれない。
 ――と、思った矢先のことだった。

「あ」
「……え」

 あの日から数日が経ったアルバイト中、レジに立つわたしの前に、あろうことかわたしを助けたあの不良のうちのひとりが客としてやってきてしまったのだ。入れ墨の人と、小柄な男の子の、小柄なほう。彼はどこかの学校の学ランを肩から羽織って、存外柔らかく、耳馴染みのいい声で言った。 この前一瞬だけ聞いた声とは、少しトーンが違っている。

「この前助けたのに逃げてったやつじゃん」

 勘弁してくれ、と今度は店長ではなく神様を恨んだ。あのときは気づかなかったけれど、よくよく見てみると、彼はこのコンビニをよく使う常連客のうちのひとりだった。常連客といっても、会計以外の言葉を交わしたことはないし、もちろん名前も知らない。むこうに至っては、先日助けたわたしがコンビニの店員だったことを、今初めて知ったような素振りをしている。
 あの日、わたしが絡まれたのはコンビニのすぐそばだったし、彼らが普段このコンビニをよく使うために近くを通りかかったのだとしたら、コンビニで働いているわたしが彼らと再会するのはおかしな話ではないだろう。けれどそうだとしても、こんなふうに再会させなくたってよかったのに。冷や汗を流しながら、神様への恨み言が止まらなかった。
 前髪を結い上げて、はっきりと見える大きな目が、驚いたように丸くなる。あのときと同様、何を考えているのかわからない真っ黒な色に見つめられていると心臓が逸って仕方なかった。
 カウンターの上に並べられた商品に手を伸ばすこともできず、どうしたらこの場を乗り切れるかだけを考える。「この前助けたのに逃げてったやつ」、その言葉は、わたしのことを責めるものに違いない。たしかに、人を殴ってまで助けてやったというのに、まともにお礼も言わず逃げていった女に、良い感情は持たないだろう。わたしだって、良かれと思って助けた人が、何も言わずに立ち去ったらと考えるとムッとしてしまう。その気持ちはわかる。
 けれど、わたしだって怖かったのだ。人が人を殴る姿も、殴られたときに人体が発する音も、実際に目にするのは初めてだった。あんな光景を目の前で見せられて、その相手の前からすぐにでも逃げ出してしまいたい気持ちのほうが、あのときのわたしにとっては重大だったのだ。

「……す、すみません」
「ハハ、いーよべつに。ケンチンこえーもんな」

 決死の思いで絞り出した消え入りそうな声に、帰ってきた反応は意外なものだった。彼は朗らかな笑みを浮かべて、けらけらと笑い声をあげたのだ。
 彼の言う、「ケンチン」というのが誰なのかわからなかったけれど、おそらくあの日彼と一緒にいた入れ墨の人のことなのだろう。あの日わたしが逃げ出したのは、入れ墨の人に声をかけられた直後だったから、もしかしたら彼は、入れ墨の人のことが怖くてわたしが逃げ出したと思っているのかもしれない。あながち間違いではなかったけれど、正解とも言えなかった。ただ、その正解を言えるはずもなく、わたしはへらへらと引き攣った笑顔を浮かべる。入れ墨の人だけが怖かったわけではなく、人を殴って楽しそうにしているあなたのことが怖くてたまらなくて逃げ出してしまいました、なんて、本人に面と向かって言えるわけがない。世の中には、その場を丸く収められるなら、それが間違っていても正解になることだってあるのだ。

「つーかさ、コンビニのたい焼きってなんでカスタードとかホイップばっかなの? あんこ食いたいんだけど」

 わたしが逃げ出した原因であるその人は、そんなことはつゆ知らずといった表情で、口を尖らせてカウンターを睨みつける。その目につられるようにカウンターに視線を落とすと、そこにはうちのプライベートブランドのたい焼きとどら焼きがひとつずつ並べられていた。
 カスタードクリーム入りのたい焼きと、つぶあんとホイップクリームを挟んだどら焼き。どら焼きのほうは食べたことがなかったけれど、たい焼きは白くてモチモチの皮がおいしかった記憶がある。しかし、彼のほうはこのたい焼きはお気に召さなかったようだ。

「まァどら焼きあるからいーけど」

 つまらなそうな表情は、「いーけど」とは程遠いように見える。特別たい焼きやどら焼きが好きなわけではないわたしに言わせれば、たい焼きまで中身があんこだったら、どら焼きと変わらない味になって別々に買う意味がないんじゃないかと思う。思うだけで、もちろん口に出すつもりはなかった。何が彼の琴線に触れるかわからないのだから、黙っておくに越したことはない。
 レジを通すためにバーコードリーダーを手に取って、わたしはしばらく考え込んでいた。動かないわたしを見て、彼はキョトンと大きな目を丸くする。
 誰かを助けるためとはいえ、躊躇なく人を殴って、しかもそれで楽しそうに笑えてしまえるような人、近づかないほうがいいに決まっているのだ。そんなことはわかっている。わたしみたいな、ただの一般人が関わったって、いいことはひとつもない。
 なのに、助けれられておきながら逃げ出したわたしを笑って許してくれる軽やかな声も、あんこの入ったたい焼きが食べたいと拗ねる表情も、ただ怖いだけの「不良」とは、どこか違う気がして、そして、わからなくなるのだ。

「……あ、あの」
「ん?」
「たい焼き屋さんの、たい焼き、奢ります」
「え? なんで」
「この前助けてもらったお礼と、逃げちゃったお詫びに……」

 言ってから、快い反応がないことに不安になって伺うように視線を上げる。このまま何もせずに別れてしまったら、彼の中でわたしはずっと「助けたのに逃げてったやつ」のままだ。そんなのは助けてくれた彼らに失礼だし、何より「不良」にそういうふうに思われ続けるのはおそろしい。だから、お礼とお詫びをして、なかったことにしてもらおう。ただ、それだけ。それだけのはずだ。
 じっとこちらを見つめる眼差しが、変わらず何を考えているのかわからない色をしているものだから、頭の中で繰り返す言い訳じみた思考につられて、おもわず同じく言い訳をするように言葉を重ねてしまう。

「あの、もうバイト終わるんで、五分だけ待ってもらえたら」
「……フーン」

 まるで心臓が耳元にあるみたいに、自分の鼓動が大きく聞こえた。この心臓の鼓動は、単純に不良と言葉を交わしている状況を怖がっているのか、彼の反応を気にして緊張しているのか、自分でも判断がつかない。
 彼と話しているうちにカラカラになった喉を、必死に唾液で潤そうと試みても、彼が返事をするまでそれは叶いそうもなかった。わずかに首をかしげるように傾けて、しばらくわたしを見つめていた彼の唇がそっと吊り上がる。あの日、わたしが逃げ出す直前、彼と目が合ったときの表情と重なり合うような錯覚。

「じゃあ待ってる。早くな」

 そう言って学ランを翻していった彼の背中を見送って、その場に座りこんでしまいそうなほど脱力した。わたしがたい焼きを奢ると言ったからか、レジカウンターには結局買われなかったたい焼きとどら焼きが残ったままで、自分の店の売り上げを落としてしまったな、と一瞬だけ思ったけれど、すぐにそんなことはどうでも良くなった。
 彼が店の外で待っている。彼の後ろに客が並んでいなかったことを、何かの奇跡みたいに喜んでいる自分がいることには、気づかないふりをした。



 すぐにタイムカードを切って、学校の制服に着替えてから、コンビニに面した道路のガードレールに座っていた彼の元へ向かう。彼は、制服を着ているのになぜか足元はスニーカーやローファーではなくビーサンを履いていて、ペッタンペッタンと足音を立てながらわたしの後ろをついて歩いた。無言の時間が気まずくて、わたしは早くも彼を誘ったことを後悔しそうになる。
 コンビニからほど近いところにあるたい焼きのチェーン店は、季節によってさまざまな餡を入れたたい焼きを売っていて、特別たい焼きが好きなわけでもないわたしでも時たま訪れる店で、メニューの中でもわたしは秋口になると発売されるりんご味の餡が入ったたい焼きが好きだった。
 スタンダードなあずきのたい焼きを五つ包んでもらい、彼に再び、「この前はごめんなさい。助けてくれてありがとうございました」とこれ以上ない丁寧なお辞儀をしてそれを献上する。彼は、たい焼きが焼き上がるまでの工程を見られたのがお気に召したらしく、上機嫌でたい焼きを受け取ってくれた。これでようやく、彼の中におけるこの前の出来事を、人助けをしたのに逃げられた「損した思い出」から、たい焼きを奢ってもらえた「得した思い出」に塗り替えることができただろうと安堵する。わたし自身も、「助けたのに逃げてったやつ」から「たい焼きを奢ってくれたやつ」くらいにはジョブチェンジできたはずだ。
 ところが、ほっと胸を撫で下ろして、ここで彼と解散しようとしていたわたしを尻目に、彼は「せっかくだし一緒に食べよーよ」と宣ったのだ。わたしは一瞬だけ、その寛大な振る舞いに目眩がしそうになるのを必死で堪えた。

「ソレ、渋高の制服だろ」

 たい焼き店から脇道に逸れたところにあるガードレールに座って、黙々とたい焼きを食べているわたしに、彼は唐突に言う。こんなふうに道端でおやつを食べることに少し居心地を悪くしていたわたしは、お互い黙ったまま並んでたい焼きを食べるより、話をしていたほうが気が紛れるだろうと、すぐその言葉に頷いた。
 彼の言う「渋高」とは、わたしの通っている高校の通称だ。わたしたち生徒はもちろん、他の学校の生徒たちもみんなそうやって呼んでいる。うちの高校の制服は、たいして特徴のないブレザーだけれど、胸元に申し訳程度のエンブレムが入っていて、おそらく彼はそれで判断したのだろう。わたしはどこの高校がどんな制服かなんてほとんど把握していないけれど、そういうのも不良ならではの文化なのだろうか。意外と律儀でおもしろい。

「え、はい」
「じゃー年上じゃん。オレ中三だもん」
「ちゅ、中三……」
「うん」

 彼はひとつめのたい焼きをぺろりと平らげながら頷いた。せっかく会話を投げかけてくれたのに、わたしは早速返す言葉をなくしてしまう。中三ということは、つまりわたしよりも年下ということだ。年下ということはつまり――聞かされたことがうまく理解できなくて、自分が混乱しているのがわかる。
 たしかに、彼は小柄だし、どこかあどけない顔つきをしているけれど、それにしたって何を考えているかわからない瞳は、表情が読めなくて大人びて見えるし、中学生があんなふうに、人を殴り倒してしまえるものなのだろうか。クラスメイトをはじめ、自分の周りにいる同年代の男の子と比べてみようにも、やはりこの前のような立ち振る舞いをする人がそもそもおらず、結局彼のことをものさしで計ることはできないままだ。
 あどけない顔にくっついている大人びた瞳が、自分の奥底を見透かすように覗き込んで、わたしはその中に吸い込まれてしまいそうに、呼吸が浅くなる。

「おねーさん、名前なんていうの?」

 猫みたいに大きな目、耳馴染みのいい中低音、適度に砕けた言葉遣い。この前のことがなかったら、彼のことをただのかわいい少年だと思えただろうか。首を傾げながらそう尋ねてくる彼の姿に、そんなことを思う。けれど、その瞳の底は見えはしないし、吊り上がる唇を見ると、どうしても楽しげに喧嘩をする姿が浮かんでしまう。そして、わたしの心臓はまたおかしな脈を刻むのだ。
 それを悟られないように、彼の視線から逃れるみたいにして顎を引きつつ、彼の質問に応えるための息を吸う。

「……みょうじなまえです」
「なまえちゃんね。ていうか敬語いらねーよ。年上だろ」
「え、あ、でも」
「いらねー。でオレ、マイキー」
「ま、まいきー?」

 自己紹介というには、わたしがイメージする日本人の名前からはあまりにもかけ離れていて、耳がついていかない。髪の毛はブロンドに近い柔らかな金色だけれど、眉毛は黒いからたぶん髪を染めているのだろうし、端正な顔立ちだが外国人というわけではないはずだ。あだ名か何かだろうか。そんなことを考えながら、彼が発した音を真似するみたいにして、ただ繰り返すしかできないわたしに、彼は満足げに微笑む。

「うん。マイキー」

 そうやって、もう一度繰り返して頷く表情が、不良とは違う、ただの男の子みたいで、わたしはまたわからなくなった。ぼうっとしたまま、もう何回目になるかもわからない彼の名前を繰り返す。

「マイキー、くん」

 彼のことを怖いと思っていたし、実際怖いに違いないのに、こうして笑う顔はどこか幼くてかわいいと思ってしまう。あっちに揺れたと思えば今度は逆側へ傾いて、大きな風が吹いたら一瞬で支えを失って、ここから真っ逆さまに落ちてしまいそうだ。
 バランスを取って座っていたガードレールから降りて、地面に足をつく。ガードレールに腰をもたれさせるようにしたら、身体が安定して少し落ち着いた。自分の身体の中と外とが、ごちゃ混ぜになって、境目が曖昧になる。地面についているはずの足元がまだどこか覚束ないような気がして、スニーカーの底をじゃり、と地面に擦り付けた。

「いつもあんな遅くまでバイトしてんの?」

 ぼんやりしていた思考に、彼の声が差し込まれて、おもわずハッとする。彼は手に持った紙袋を漁って、ふたつ目のたい焼きを取り出しながら言った。
 あの日のことはすでに店長に報告してあって、今度からはあの時間帯のシフトに入る頻度は減るだろうと思いつつ、首を捻る。すぐに新しいアルバイトが見つかるとは思えないけれど、少なくともわたしはできる限り遠慮したい。

「シフトによるけど……あの時間になることもあるかな」
「フーン。じゃ、もしまた絡まれたら、オレの名前出してもいいよ」
「え?」
「マイキーのダチっつったら、渋谷じゃ手ェ出されねーから」

 ――にこやかに言う彼に、わたしはすぐに返せる言葉を見つけられなかった。
 彼の友達だと言えば、この前みたいな不良に絡まれたとしても手を出されなくなるだなんて、そんなことがあるのだろうか。彼と友達であることが、この渋谷でそれほどの効果を生むのだと言われて、ぼんやりとしていた頭が波が引くように醒めていく心地がした。また、足元が揺れている、錯覚。
 得意げに笑う顔は、先ほどわたしが彼の名前を呼んだときと同じ表情で、あの日わたしが彼を見て逃げ出したときとも、同じだ。

「あ、ありがとう……」

 彼が、善意で言ってくれたことだというのはわかっていたから、何とか謝意の言葉を捻り出す。ぼやぼやした眠気が何かの拍子で醒めたときみたいに、頭の中が真っ白になっていた。
 やっぱり、わたしみたいな一般人が関わっても、いいことなんかひとつもない。こうやって、目の覚めるような怖さを感じることになるだけで、何か別の、特別なものが生まれるなんてありっこないのだ。

「あの、わたし、そろそろ帰らなきゃ」
「えー、もう?」
「うん。あの、この前の、背の高い……」
「ん? ケンチン?」
「その人にも、ありがとうございましたって伝えておいて、ください」

 彼にやめるように言われていた敬語が自然と口を突く。彼と出会ってからこっち、ずっと逸っていた心臓の鼓動が、このときだけは静かにただ脈拍を刻んでいた。

「……なあ」

 ガードレールから腰を上げて、彼の前を横切ろうとしたところで、そう呼び止められる。わたしが彼と向かい合うように振り返るのを待って、彼はぽつりと呟いた。

「なまえちゃん、オレのこと怖い?」

 そんなことを、真っ直ぐにこちらを見つめたまま言うものだから、一瞬だけ息を止めてしまう。何を言うのが正解なのか、見当もつかない。彼のことを怖いか・怖くないかで聞かれたら、そんなの怖いに決まっている。けれど、本人を前にして「怖い」と答えるのは気がひけるし、かといってこれだけびくびくした反応をしておきながら、「怖くない」と答えるのも白々しいだろう。

「……こ、怖いよ。不良とか、周りにいないし、喧嘩とか、見るの初めてだったし」
「……あっそ」

 怖々言ってみたことにも、案外彼は激昂したりせず、静かに相槌を打った。何を言うにも、彼の機嫌を損ねないか気が気ではないのに、そうやって思ったより普通の反応をされると、違うことを考えてしまう。あとは尻尾を残すだけになったふたつ目のたい焼きを口に放り込んで、白くて丸い頬を動かしている姿を見て、つい、口を滑らせた。

「でも、たい焼き好きなマイキーくんは、かわいい、と思う」

 あずき餡のどら焼きがないと口を尖らせていたつまらなそうな表情や、わたしを「なまえちゃん」なんて呼んで首を傾げるあどけない仕草を思い出す。そして、今しがた自分の言った言葉を思い返して、はたと我にかえった。「かわいい」は、彼――「不良」にとって褒め言葉になりうるのだろうか。
 横目に彼の様子を伺うも、失敗する。何度見たって、その目が何を考えているのかなんてわからなくて、今は一層、それが怖く感じた。彼はじっとこちらを見たまま、視線を外さない。

「ふうん」
「っあ、ごめんなさい、あの」

 焦ったわたしの言葉を遮って、たい焼きを持っていた方の手が、学ランの下に着たTシャツで拭かれてから、差し出されるように伸びてくるのが見えた。わたしの頬にかかっている髪に、梳かすみたいにして指を通して、そのままゆっくりと髪を引かれる。いつの間にか、もう片側も同じようにされて、彼の手にほとんど力は入っていないし、髪だって少しも痛くなかったのに、嘘のようにすんなり、吸い込まれるみたいに、引き寄せられていくのがわかった。
 ちゅ、と濡れた音がして、柔らかくて湿った感触が、唇に触れて、押しつけられて、離れていく。呼吸も、時間すら止まってしまったみたいに動けないわたしの目の前で、たっぷりの睫毛で縁取られた瞼が上下して、チカチカと目眩がしてしまいそうだった。
 唇同士が離れても、ただ離れただけの距離で見つめられて、心臓が叩きつけるみたいな音を立てる。

「かわいい? オレ」

 怒らせたのか、揶揄われたのか、それを判断するだけの余裕もない。今自分に何が起こったのかを理解するのに精一杯で、けれど理解できたところで、それを飲み込める気もしなかった。
 首を傾げて上目遣いを駆使する彼は、楽しげに唇を吊り上げた、あの表情をしている。と思えば、息を止めたままのわたしの様子に、声をあげて破顔して見せるのだ。

「ハハ、なんつって。次かわいーとか言ったらぶっ飛ばすよ」

 細くなる猫目に、何の感情が映っているのか、わたしにはわからない。「ぶっ飛ばす」なんておそろしい言葉に、震え上がったっておかしくないはずなのに、その声が、どこか優しい響きをしている気がして、耳の輪郭が痺れた。
 わたしみたいな吹けば飛ぶような女じゃない、自分より大きい男だって簡単にやっつけてしまえるくらいの力を持つこの人が、あんなふうにたわやかな動作と力でわたしに触れていたのだと思うと、何だか訳がわからなくなって頭の中がめちゃめちゃになる。
 何も言えないまま、ただ目を丸くして息をするだけのわたしを上機嫌そうに見つめながら、彼はぺたんと音を立てて、ビーサンで地面を蹴った。

「じゃーまたね、なまえちゃん」

 この渋谷が自分の国だと言わんばかりの後ろ姿から、目が離せない。この鼓動は、底知れない瞳がおそろしくて高鳴っているのか、突然のキスに純粋に驚いているのか、それとも、そのどれとも違う別の感情なのか。
 自分ではもう何ひとつわからないのに、彼の瞳の中には、きっともうその答えがあるような気がした。

吊り橋に棲む獣

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